顔淵第十二 298

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原文                 
子張問崇徳辨惑。子曰、主忠信徒義、崇徳也。愛之欲其生、惡之欲其死。
既欲其生、叉欲其死、是惑也。
 
〔 読み下し 〕
()(ちょう)(とく)(たか)くし(まどい)(べん)ぜんことを()う。()(のたま)わく、忠信(ちゅうしん)(しゅ)として()(うつ)るは、(とく)(たか)くするなり。(これ)(あい)しては()(せい)(ほっ)し、(これ)(にく)みては()()(ほっ)す。(すで)()(せい)(ほっ)して、(また)()()(ほっ)するは、()(まどい)なり。
 
〔 通釈 〕
子張が、人格を高め、惑いを取り除くにはどうしたら良いかを問うた。孔子は、「いかなる時も誠実であるように心掛け、道義にかなうように行動すれば、人格が磨かれて自ずと徳が高まるものだ。人を愛した時は、ずっと元気でいて欲しいと願った筈なのに、一旦嫌いになったら、早く死んでくれたら良いのにと願う。相手は変らないのに、その場その場の感情に振り回されて、道義を見失ってしまう。これが惑いというものだ!」と云った。
 
〔 解説 〕

衛霊公第十五でも、子張は孔子に「言(げん)忠信(ちゅうしん)、行(こう)篤敬(とっけい)」(言行は温厚篤実に!)と云われ、後の302章でも「之を行なうに忠以てす」と諭されている所を見ると、子張は多分にその場その場の感情に振り回されて、誠実さを失ってしまう傾向があったのでしょう。

人間は感情を持った生きものですから、喜怒哀楽があるのは当たり前ですが、問題なのは、これに振り回されて事の善し悪しと好き嫌いを混同(ごっちゃ)にしてしまうことですね。孔子は、これ(善し悪しと好き嫌いをごっちゃにすること)が惑いだ!と云う。

道理に叶った義を「道義」と云い、道義に基づいた憤りを「義憤」と云います。日本人は元来非常に忍耐強い民族ですが、理不尽なことを何度もやられると「堪忍袋の緒が切れて」義憤が爆発する。こうなると日本人は死ぬ気でやりますから、もう誰も止めることができません。日本人を本当に怒らせるには、義憤を掻き立てるようなことを仕向ければ良い。

日米開戦のきっかけとなったハルノートなどは、将に日本人のこの心理を突いて無理矢理
日本を開戦に踏み切らせようとしたアメリカの策略でありましたし、北朝鮮の拉致問題が明るみに出て「もう許せん!」となったのも、この義憤です。

義憤であろうが私憤であろうが、カッとなってプツンと切れたらおしまいです。国民大衆がカッとなっても、為政者(リーダー)は冷静沈着でなければなりません。瞬間湯沸器のようにすぐ
カッとなる人は、絶対にリーダーにはつけられません。

孫子の兵法で孫武は、「主は怒りを以て師(軍事行動)を興すべからず。将は憤りを以て戦いを致すべからず。利に合えば(有利ならば)動き、利に合わざれば(不利ならば)止む。怒りは復(また)以て喜ぶべく、憤りは復以て悦ぶけれども、亡国は以て復存すべからず、死者は
以て復生くべからず。故に明君は之を慎み、良将は之を警(いまし)む」(火攻第十二)と述べ、カッとなって事を起こすことを厳しく戒めている。

「孫子兵法」講義の中で紹介した人物鑑識の「六験法」でも、将(リーダー)を選抜する際には、「之を怒らしめて以て其の節を験す」(わざと怒らせるようなことを仕向けてみて、節操の有る無しを験す)とありますから、すぐにカッとなる人は、どんなに能力があっても昔からリーダーにはつけられないということですね。詳しくは「孫子の兵法」講義録をご覧下さい。

ただ最近は、堪忍袋の緒が切れるなどまだ益しの方で、堪忍袋そのものを持っていない人もいるようですから、困ったものです。堪忍袋のない人は、私憤は感じても義憤を感じることが出来ません。義憤を感じられなくなったら、人間終わりです。
 
 

〔 子供論語  意訳 〕
弟子(でし)()(ちょう)が、「人格(じんかく)(たか)めるにはどうしたら()いでしょうか?(また)(まよ)いの(もと)(なん)でしょうか?」質問(しつもん)した。孔子(こうし)(さま)は、「(なに)ごともいい加減(かげん)せず、相手(あいて)()になって真心(まごころ)をつくしなさい。そうすれば自然(しぜん)人格(じんかく)(みが)かれる。(また)(ひと)()きになった(とき)相手(あいて)()になって(かんが)えてあげることができたのに、一度(いちど)(きら)いになると相手(あいて)立場(たちば)無視(むし)して自分(じぶん)中心(ちゅうしん)(かんが)える。一方(いっぽう)では人格(じんかく)(たか)めたいという(きみ)がおり、もう一方(いっぽう)では人格(じんかく)()げようとする(きみ)がいる。一体(いったい)どっちが本当(ほんとう)(きみ)なのかね?そう、もう()かったね!()(きら)いの感情(かんじょう)()(まわ)されて、目的(もくてき)見失(みうしな)ってしまうこと、これが(まよ)いの(もと)なんだよ」とおっしゃった。
 
〔 親御さんへ 〕

好き嫌いの感情に振り回されて目的を見失ってしまうこと、これが迷いの元ですか・・・。「惑う」(事態を見極められず、混乱して対応の仕方を決めかねる)と、「迷う」(物事の整理がつかなくなる)は元来違う意味の言葉ですが、今は同義語として使われておりますから、「どう違うの?」と問われたら、それこそ戸惑ってしまうのではないでしょうか。

そうですねえ・・・、分かり易く云うとすれば、物事を判断する時に使われる言葉が「迷う」、対応を決断する時に使われる言葉が「惑う」と覚えておいたらいいでしょうか。「判断に迷う」とは云うけれど、「判断に惑う」とは云いませんし、「決断を惑う」とは云うけれど、「決断を迷う」とは云いませんからね。


目的を見失った時に迷い、道義を見失った時に惑う。どちらも感情に振り回されることから
起こる!と孔子は云います。喜怒哀楽や愛憎好嫌は、神様が万人に与えた感情ですから、これ自体をどうこう論ずべきではありません。どうにもなりませんから。感情がなかったら、精神病院に連れて行かれます。

ただ、これに振り回されるな!とはどういうことでしょうか?もしかしたら、孔子は、人間の感情は本性ではなく属性(本性に付随するもの)と捉えていたのではないでしょうか?ロボットに人間の感情を持たせることは、今のところ不可能と云われておりまして、感情こそが人間の本性であるかのように云われるけれども、本当は本性ではなくて属性なのではないか?

では人間の本性とは何か?と云えば人は神の分霊(わけみたま)ですから、神と同じ種(神性・仏性)を宿している。神(宇宙)の根源的本性とは、昨年の夏期合同例会で述べた通り、「神は無限の愛の光・神は無限の生命(いのち)の光・神は無限の創造の光・神は無限の英知の光」でありまして、人もこれと同じ本性を宿している。つまり、「人は無限の愛の光・人は無限の生命の光・人は無限の創造の光・人は無限の英知の光」であります。

属性とは本性を補うもの、あるいは本性を輝かすものとして存在するのであって、晦ます為にあるのではない。人の感情は本来愛を輝かし・生命を輝かし・創造を輝かし・英知を輝かす為にあるのであって、曇らす為にあるのではない。本性が主役で属性は脇役。主役が脇役に振り回されたら芝居が成り立たないのと同様、本性が属性(感情)に振り回されてしまったら、人生劇場は成り立たない。

そこで孔子は、属性たる感情を正しく統御する為の手綱として、「礼」・「礼」とうるさく教えたのではないでしょうか?感情は野放しにしておいたら暴走してしまう、そこで、礼儀礼節の手綱で統御せよ!礼の手綱で律せよ!!と。

前に、知を欠いた仁は「無謀の仁」・「盲目の仁」である!と述べましたが、礼を欠いた仁は「だらしのない仁」・「ふしだらな仁」となってしまうのではないでしょうか。礼とは、仁の心を
姿形に表わしたものでありますが、この礼が、感情の暴走を統御する手綱であったとは・・・、目からウロコですね。

感情の暴走から引き起こされる青少年の凶悪犯罪は、小さい頃から礼儀作法・礼儀礼節の躾を蔑ろにして、感情の御し方を教えて来なかったことが原因なのではないでしょうか?子供の人権だ!個性尊重だ!などと訳の分からん事を云って、却って子供を壊しているんでは
ないでしょうかね?今の親達は。人間の実相をちっとも分かっていないんではないか?

今の教育者は!人権だ!個性だ!と云う前に、神の子人間として恥ずかしくない躾をやりなさい!!
 

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