〔
原文
〕
|
仲弓問仁。子曰、出門如見大賓、使民如事大祭。己所不欲、勿施於人。
在邦無怨、在家無怨。仲弓曰、雍雖不敏、請事斯語矣。
|
〔 読み下し 〕 |
仲弓、仁を問う。子日わく、門を出ては大賓を見るが如くし、民を使うには大祭に事えまつるが如くす。己の欲せざる所は、人に施すこと勿れ。邦に在りても怨み無く、家に在りても怨み無し。仲弓日わく、雍、不敏なりと雖も、請う、斯の語を事とせん。
|
〔 通釈 〕 |
仲弓が仁とはどういうことかを問うた。孔子は「一度門を出て世人と交わるからには、大切な賓客を迎えるように敬意を表しなさい。決して横柄な態度をとってはならん!又、上に立って人民を公役に使う立場になっても、重大な祭祀を執り行なうように、慎み深く接しなさい。けっして傲慢な態度をとってはならん!
つまり、自分が嫌なことは人に仕向けてはならんと云うことだ。かくれすば邦にあって人民に怨まれることもなく、家にあって家人に怨まれることもないだろう」と答えた。
|
〔 解説 〕 |
雍也第六150章の解説でも述べた通り、聖書の黄金律がマタイによる福音書第七章十二節「すべて人にせられんと思うことは、人にも又その如くせよ」とすれば、論語の黄金律は本章(子貢に対する同一の文章が衛霊公第十五にもある)の「己の欲せざる所は、人に施すこと勿れ」及び、雍也第六の「己立たんと欲して人を立て、己達せんと欲して人を達す」(自分がこう
ありたい、ああなりたいと思うことは、まず人にやってあげなさい!)ということになりましょうか。
漢学者で聖書をじっくり読み込んでいる人は滅多にいませんし、逆に聖書学者で論語をじっくり読み込んでいる人もほとんどおりませんから、一様に本章を論語の黄金律と早合点しているようですが、この章だけでは片手落ちなんですね、雍也第六150章も加えなければ。
「己の欲せざる所は人に施すこと勿れ」つまり、悪いことさえしなければそれで良い!というだけでは人生50点、「己立たんと欲して人を立て、己達せんと欲して人を達す」つまり、世の中のお役に立ち人様の為になる!が加わって漸く100点満点。人生は減点法と加点法の二つでワンセットなんですね。
学校の試験でも60点でやっと合格でありまして、減点0でも加点が0ならトータルで50点にしかなりませんから、人生試験は不合格ということになります。現実には、1点の減点もない人などいたためしがありません。本人が気付いていないだけで、知らずに犯している罪は山程ある。20〜30点は減点されているのが普通ではないでしょうか?生きる為に食うだけでも、他の生命を殺生して頂いている訳だから。
ですから、加点法で点数を稼がなければ、人生の合格点はもらえない訳です。自分の力で生きていると思ったら大間違い、生かされているんです人間は!天地の間に!!だから世の中にお返しして行くのは当たり前なんです!生かされていることに感謝して!!
孔子より百年程前の日本では、神武天皇が即位し(BC660年)祭祀王として祭政一致の政治を始めますが、神官としての天皇が高天原の神々に捧げる言葉は、生かされてることに敬虔の意を表わす日本の古代語「ア・ヤ・ナ・ワ・ン」と、感謝の意を表わす「ア・リンガ・ト・ワ」の二つだったという説があります。
この生かされていることに敬虔の意を表わす「ア・ヤ・ナ・ワ・ン」が後に転じて、「畏れ多いもったいない!」を意味する「あなかしこ」となり、感謝の意を表わす「ア・リンガ・ト・ワ」が後に転じて、「有り難きこと(尊く希なこと)この上なし!」を意味する「ありがとう」という日本語になったと云う。
一番美しい日本語は「ありがとう」であると云われますが、「ありがとう」という言葉は、元は、人に何かをしてもらったり物をもらったりした時に、相手に向かって云う言葉ではなかったんですね。生かされていると云うそのこと自体に感謝して、神に捧げる言葉だったようです。
ましてや、お金が欲しい!大きな家が欲しい!恋人が欲しい!と、ご利益信仰の呪文の如く「ありがとう!感謝します!!」などと、安っぽく唱えるものじゃあないんだね。本末転倒、目的と手段のすり替え、原因と結果を晦ますものだよこれは。そんなことをしたら、却って罰(ばち)が当ります。エッ?何故かって?当たり前でしょう!生かされているというそのこと自体に感謝することもなく、もっとくれ!もっとくれ!と神様に要求しているようなものだからね。「好い加減にしろ!この罰当り!!」と神様だって怒りますよ。
実はこういうのをバアル信仰と云って、モーゼもイエスも厳しく戒めたことなんです。否、モーゼやイエスだけではない、釈迦は「不綺語(ふきご)・心にも無いことを美しく飾って云うな!」と戒めているし、孔子も前章で「真の道に非ざれば言うこと勿れ!」と戒めているではないですか。こういうことは「知らなかった!?」では済まされないんです。
釈迦は「知らずに犯したる罪は、知って犯したる罪に百倍す」と云っているし、ダンテは「地獄への道はいつも善意で舗装されていると云っている、つまり、知らないというそのこと自体が罪である!ということなんです、真の道・真実の道・人の道に関しては。
|
〔 子供論語 意訳 〕 |
弟子の仲弓が「仁とはどういうことを言うのですか?」と質問した。孔子様は、「一歩家をでて世の中の人と接する場合には、いつも大切なお客様を迎えた時のように、親切にすること。又、リーダーとなって人に指図する場合は、神様にでもお仕えするかのように、ていねいに扱うこと。そうだねえ、常に相手の身になって、自分がいやだと思うことは人に押しつけたりしないこと!こうすれば誰からも嫌われることがないだろう」とおっしゃった。仲弓は「私にできるかどうか自信はありませんが、今の先生の言葉を肝に命じます!」と云った。
|
〔 親御さんへ 〕 |
常に相手の身になって考える、相手も自分と同じ神の子人間であるから、「己の欲せざる所は、人に施すこと勿れ」と肝に銘じて接する、これが仁ということなんですね。
これは、嫌なこと・好いことは万人共通・万国共通という前提がないと成り立たない道理ですが、はるか彼方の中東でも、イエスが「汝等のうち、誰がその子パンを求めんに石を与え、魚を求めんに蛇を与えんや。……然らばすべて人にせられんと思うことは、人にも又その如くせよ!」と云っておりますから、嫌なこと・好いことは万人共通・万国共通ということでしょう。
インドでも釈迦は、求道者が実践すべき六つの徳目「六波羅密(ろくはらみつ)」の第一に「布施(ふせ・恵み施せ!)」と云っておりますから、嫌なこと・好いことはやはり万人共通・万国共通のようです。
なぜそうなのだろうか?と考えてみますと、人間は元々神から分かれてきた分霊(わけみたま)であって、すべての人に等しく神性が宿っているからなんです。ですから根っこの所では万物斉同・自他一体、感じることはみな同じなんですね。
もしそうでないとしたら、つまり、すべてバラバラで孤立・分離した存在であるとしたら、百人百様・千人千様・万人万様の価値観が前提となって、人はアノミー(無規範)・アナーキー(無秩序)が常態となる。従って、仏教も儒教もキリスト教も成立する余地はありません。物や金と云った物質的損得勘定だけが価値基準になってしまいます。ホリエモンのような市場原理主義と称する「損得原理主義」が唯一の価値基準になってしまう。
そうではないことを、私達一人一人は元々知っているんです。知った存在なんです。だから共鳴し共感し同調するんですね、釈迦や孔子やイエスの言葉に。元々そういう種(神性・仏性)があるから分かるんですね、彼らの云うことが。仏教も儒教もキリスト教も、その教えに通底するものは、「慈悲」であり「仁」であり「愛」ではないですか。
拝金でもない、拝物でもない、拝地位でもない、拝名誉でもない、拝権力でもない。これらは宗教で云えば皆異端、バアル信仰です。私が常々皆さんに「自分が如何程の人物かを知りたければ、自ら掘った仁の土台の深さを見て
みなさい!それがあなたの正体です!!」と云っているのは、こと仁については価値の相対化などできるものではない!絶対なのだ!と云っているんです。
だから、仁・義・礼・知・信なる五常は同列並列ではない!仁あっての義、仁あっての礼、仁あっての知、仁あっての信である!徳は全て仁ベース!!と云うんですね。
前にも述べたことですが、仁のことを生物学では「核小体(かくしょうたい)」と呼び、全ての細胞核に一つあることが分かっている。細胞を大宇宙の中の人間に喩えてみれば、全ての人間に仁(核小体)が宿っていることになる。この仁を神性と云ったり仏性と云ったりする訳です。ですから、仁の心を持たない人など一人もいないんですね、万人共通・万国共通なんです。
人間とはどんな存在か?と問われたならば、仁の実践存在である!と云い切っても良いのではないかと思います。本当に今日はいい勉強になりましたね。今回はこの章だけで10年分・ログ100ポイントアップになったのではないかな?
|