〔
原文
〕
作成日 2003年(平成15年)7月から 10月 |
子曰、居上不寛、爲禮不敬、臨喪不哀、吾何以觀之哉。
|
〔 読み下し 〕 |
子日わく、上に居りて寛ならず、礼を為して敬せず、喪に臨みて哀しまずんば、吾何を以てか之を観んや。
|
〔 通釈 〕 |
孔子云う、「人の上に立って寛容さがなく、礼を行なうのに敬意を欠き、葬儀に参列して哀れみの情も持てないようでは、どうしようもない」と。
|
〔 解説 〕 |
寛容さを欠き、敬意を欠き、哀れみの情を欠いていたら、どんなに頭が切れようが弁が立とうが、リーダー失格ということですか。人の上に立つというのは、生易しいものではありませんね。
|
〔 一言メッセージ 〕 |
『寛容の精神・人を敬う気持・惻隠の情は、人に長たるの大前提』
|
〔 子供論語 意訳 〕 |
孔子様がおっしゃった、「リーダーが、心が狭く・つっけんどんで・冷たい性格であったら、どんなに立派なことを云ったとしても、だれも云うことを聞かないね」と。
|
〔 親御さんへ 〕 |
寛容とは、分かり易く云えば「あるがままに人を受け入れる」ということですが、仁で云うならば、第四段階「人を許す仁」ですね。これは本当に難しい。もう一度復習してみましょう。
仁の第一段階 「孝悌(こうてい)・・目上を立てる仁」。
仁の第二段階 「恭敬(きょうけい)・友人同僚を敬う仁」。
仁の第三段階 「忠恵(ちゅうけい)・人を生かす仁」。
仁の第四段階 「寛恕(かんじょ)・・人を許す仁」
ということですから、仁の第四段階まで来れば仁のプロ、広く世に長たるの仁と云えるでしょう。滑ったり転んだり・泥を被ったり煮え湯を飲まされたり・泣いたり笑ったりしながら、「お互いさま」と「お陰さま」を学んで行くんですね、人生は。
「お互いさま」と「お陰さま」の分からない人間のことを「不感症」と云うんです。不感症とは、本来感ずべきものを感じられない状態のことを云いますが、こういう人が上に立つと、必ず組織の活力が失われ、崩壊へと向かいます。
これは、考えてみれば当たり前のことですね。不感症とは「分からず屋」の別名ですし、分からず屋とは「心の狭い人間」の代名詞ですから、そんな人物の下で仕えたいと思う人間など、どこにもおりませんからね。
心ある有能な人材はどんどん去って行って、箸にも棒にも掛らない者だけが残ってしまう。「下三日にして上を知り、上三年にして下を知る」と申しますが、部下は三日も仕えれば、上司が心の狭い人間かどうか、直感的に見抜いてしまうものなんですね。人の目は節穴ではありません。怖いものなんですよ。
|