八佾第三 066

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原文                   作成日 2003年(平成15年)7月から 10月
子曰、居上不寛、爲禮不敬、臨喪不哀、吾何以觀之哉。
   
〔 読み下し 〕
()(のたま)わく(かみ)()りて(かん)ならず、(れい)()して(けい)せず、()(のぞ)みて(かな)しまずんば、(われ)(なに)(もっ)てか(これ)()んや。
 
〔 通釈 〕
孔子云う、「人の上に立って寛容さがなく、礼を行なうのに敬意を欠き、葬儀に参列して哀れみの情も持てないようでは、どうしようもない」と。
 
〔 解説 〕

寛容さを欠き、敬意を欠き、哀れみの情を欠いていたら、どんなに頭が切れようが弁が立とうが、リーダー失格ということですか。人の上に立つというのは、生易しいものではありませんね。
 

〔 一言メッセージ 〕
『寛容の精神・人を敬う気持・惻隠の情は、人に長たるの大前提』
 
〔 子供論語  意訳 〕

孔子(こうし)(さま)おっしゃった、「リーダーが、(こころ)(せま)く・つっけんどんで・(つめ)たい性格(せいかく)あったら、どんなに立派(りっぱ)なことを()ったとしても、だれも()うことを()かないね」と。
 

〔 親御さんへ 〕

寛容とは、分かり易く云えば「あるがままに人を受け入れる」ということですが、仁で云うならば、第四段階「人を許す仁」ですね。これは本当に難しい。もう一度復習してみましょう。

  仁の第一段階  「孝悌(こうてい)・・目上を立てる仁」。
  仁の第二段階  「恭敬(きょうけい)・友人同僚を敬う仁」。
  仁の第三段階  「忠恵(ちゅうけい)・人を生かす仁」。
  仁の第四段階  「寛恕(かんじょ)・・人を許す仁」

ということですから、仁の第四段階まで来れば仁のプロ、広く世に長たるの仁と云えるでしょう。滑ったり転んだり・泥を被ったり煮え湯を飲まされたり・泣いたり笑ったりしながら、「お互いさま」と「お陰さま」を学んで行くんですね、人生は。

「お互いさま」と「お陰さま」の分からない人間のことを「不感症」と云うんです。不感症とは、本来感ずべきものを感じられない状態のことを云いますが、こういう人が上に立つと、必ず組織の活力が失われ、崩壊へと向かいます。

これは、考えてみれば当たり前のことですね。不感症とは「分からず屋」の別名ですし、分からず屋とは「心の狭い人間」の代名詞ですから、そんな人物の下で仕えたいと思う人間など、どこにもおりませんからね。

心ある有能な人材はどんどん去って行って、箸にも棒にも掛らない者だけが残ってしまう。「下三日にして上を知り、上三年にして下を知る」と申しますが、部下は三日も仕えれば、上司が心の狭い人間かどうか、直感的に見抜いてしまうものなんですね。人の目は節穴ではありません。怖いものなんですよ。
 

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