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原文
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作成日 2003年(平成15年)7月から
10月 |
子貢欲去告朔之餼羊。子曰、賜也、爾愛其羊。我愛其禮。
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〔 読み下し 〕 |
子貢、告朔の餼羊を去らんと欲す。子日わく、賜や、女は其の羊を愛む。我は其の礼を愛む。
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〔 通釈 〕 |
子貢が、毎月一日に行う告朔(こくさく)の祭りに用いる羊の犠牲(いけにえ)を止めた方がいいのではないかと論じた。孔子は、「賜(し)や、お前は一頭の羊が惜しいようだが、私は羊よりも、昔から続いた伝統文化が廃れることを惜しむのだ」と云った。
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〔 解説 〕 |
告朔の礼とは、毎月一日(朔日)に、先祖の廟に生きた羊を犠牲として捧げ、月の始まりを告げてその月の暦を拝受する儀式のこと。当時は、天子が前の年の暮れに翌年一年間の暦(農事暦)を作って諸侯に分け与え、諸侯はこれを祖先の廟に保管しておいて、毎月の一日に生きた羊を供え物に捧げ、その月の暦の内容を人民に告げ知らしめていたようです。
こうすることによって、人民が農事のタイミングを誤らないようにしていたのでしょう。ここでは孔子と子貢の意見が対立しておりまして、一見すると子貢の方がムダを省いて合理的のように見えますが、よく考えてみれば、孔子の見解に軍配が上がるようですね。犠牲にしようがしまいが、羊は元々殺されて肉は食用に・毛皮は衣類に供する為に飼育されている分けですから、告朔の祭りに羊を供えたとしても、少しのムダも生じません。お供えした羊をそのまま捨てる訳ではありませんから(貧しい人達に分け与える習慣があったようです)。
一方、伝統とか文化というものは、一旦廃れてしまうと、二度と取り返しがつきません。人間は伝統や文化に育まれながら、価値観や人生観・世界観を獲得して行く社会的な生きものですから、偶々(たまたま)その時意味がないように見えたからと
いって、おいそれと廃止すべき代物ではないんですね。
伝統や文化は足したり引いたり、つまり、ハイブリッドしながら改良して行けば良いのであって、いきなり廃止したり、がらりと変えてしまってはいけないものなんです。そんなことをすると、その民族は根無し草になってしまうんです、戦後の日本人のように。
伝統や文化という観点から見るならば、現代に生きる者は、過去の祖先と未来の子孫の両方に対して責任を負っているのです。自分だけの命ではないんですよ。この時孔子は、「羊一頭を惜しんで伝統文化を失う方がいいのか?羊一頭を犠牲にして伝統文化を守り続けた方がいいのか?どっちが大事なんだ!?」と云いたかったのではないかと思います。
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〔 一言メッセージ 〕 |
『現代に生きる者は、未来の子孫に対してのみならず、過去の祖先に 対しても民族の伝統文化の責任を負っていることを忘れるな!』
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〔 子供論語 意訳 〕 |
弟子の子貢が、「毎月一日の告朔祭に、羊の犠牲をお供えすることは止めにしましょう」と云った。孔子様は、「賜や(子貢の名)、軽はずみなことを云うものではありません。お前は犠牲をムダなことだと思っているようだが、祭りが終れば羊の肉や毛皮は貧しい人達に分け与えられるのだから、一つのムダも生じないではないか。又、人間は天地自然から計り知れない程の恵をいただいている。この恵に対して感謝のしるしを捧げるのは、当たり前のことではないのかね?これが昔から伝わる告朔祭りの伝統なんだよ。ものの一面だけ見て勝手に決め付けるものではありません!」とおっしゃった。
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〔 親御さんへ 〕 |
確かに私達凡人は、目先のことに振り回され・ものの一面だけを見て判断し・枝葉末節にこだわってしまう習性を、大なり小なり持っているのではないでしょうか。そして決まって後になってから、「あの時ああであれば」、「この時こうであったら」と「れば・たら」の後悔を繰り返す。
恥ずかしい話しですが、私は人一倍「れば・たら人間」なものですから、書斎に、
一、目先に囚われず、長期的視野で考察する。
二、一面的に捉えず、多面的全面的に考察する。
三、枝葉末節に囚われず、根本的に考察する。
と大書して張ってあるのですが、一向に改善の跡が見られません。時々「前頭葉に欠陥があるのではなかろうか?」と、脳のせいにしてみたくなることもあります。人のことは案外よく分かるものですが、自分のこととなると、からっきしダメなもんですね。皆さんはいかがですか?
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