H20/1・「精神世界へようこそ・2」

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「論語に学ぶ会」15周年
2008年度 新春合同例会講演記録
演題『精神世界へようこそ!パート2』

一、 はじめに
二、 パート1のおさらい
三、 開運の極意(運命転換の法則)
四、 菩薩意識を得て帰還せよ!  

2008年1月26日(土)
於:行形亭
当番:二期 赤羽塾
記録 伊藤民子

一、はじめに

 「論語に学ぶ会」が設立されてから丸15年が経ちました。先日その当時の写真を見ておりましたら、みんな若い! 私が44才の時ですから、髪は黒いし肌のツヤはいいし、顔はキリリと引きしまっているし、これはきっとモテたんだろうな?と思いながら隣を見ましたら、これまた髪が真っ黒の好青年がいる。この人は一体誰だったろうか?と考えたら壮太郎でした。当初は22名からのスタートで、途中で三名の方が亡くなりましたが、現在まで続いている方は休会も含めて14名おられます。

 今回初めて目にする方も多いのではないかと思いますが、当会発足の原点はこれ(手書きの資料)であります。後で回しますので見てください。

  これは平成2年(18年前)の12月に親しい方にお配りしたもので、それ以前にポケット仮名論語の茶色表紙のものを差し上げてあった方から、現代語に訳したものが欲しいと要望があった為、二年がかりで口語訳してノートに書きためたものをそのままコピーしてお配りしたものです。今のグリーン表紙の仮名論語には、上段に通釈文が載っておりますが、茶色表紙の古いものには、簡単な語釈しか載っておりませんでした。伊与田先生も面倒臭かったのだと思います。

 そしてこれを配ってから一年ほど経った頃、今度は通釈文を解説しろ!となった。そこで椿さんに音頭を取ってもらって、世話人会を招集し、平成五年二月に「論語に学ぶ会」が産声をあげた訳です。(椿さんには初代会長になって頂きました)この時、二度目の通釈文の書き直しをやっていますが、この時の古い資料を壮太郎が4年がかりでパソコンに打ち込んでくれまして、これが現在CDとなって二期赤羽塾から頒布されています。

 今読み直してみると、まだ尻が青かったなあ?とちょっとテレ臭いのですが、44〜5才頃の私がどんなことを考えていたかが分って面白いかも知れません。欲しい方は二期の事務局に申し込んでください。定価一万円の所を、今回に限り2,500円にするそうです。今皆さんが学んでおられる「新論語」・「子ども論語」は三度目の書き直しの資料です。

 一期発足の二年後(13年前)に二期が発足し、三年後(12年前)に三期が、そして四年前に青年部「後畏塾」、三年前に「山形塾」が発足しました。東京支部はこの4月に発足します。

 毎回全クラスの皆さんと接しながら、面白いなあ?と思うことは、各クラスそれぞれにみな個性が違う。喩えば・・・・・・一期佐々木塾は、おっとりとしていて、万事に控えめ。二期赤羽塾は、エネルギッシュでお祭り好き。三期藤田塾は、ヤンチャでムードメーカー。山形塾は、ひた向きに酒を飲み、ひた向きに学問をする生真面目集団。

 青年部後畏塾は、いつ目を覚ましてくれるのか分らない眠れる獅子というか、眠ったまんまの獅子と云うか・・・・。青年部は「孫子の兵法」全編を終わって、今「十八史略」をやっておりますが、先日論語普及会に連絡して調べてもらいましたら「十八史略」のつまみ食い講座はあちこちにあるけれど、全編を講義しているのは全国でも当会だけだろうと云うことでした。今年から年令制限を撤廃して、元青年も青年部に入れるそうですから「十八史略」に興味のある方は奮ってご参加下さい。今は丁度前漢の武帝のところをやっております。

   江戸時代の武士は、大変洞察力があった。情報量は現在と比べると1/100以下だと思うが
   先が読めたのは「十八史略」を勉強していたらかである。
  

 サテ、本日の演題は「精神世界へようこそパート2!」と云うことですが、パート1は2年前(平成17年)の8月合同例会でやっております。この時は主に精神世界の実相についてお話しした訳でありますが、今回はもう一歩踏み込んだ話しをしたいと思います。と申しますのは、いつも云っているように当「論語に学ぶ会」全体の集合意識はlog475と云う猛烈に高い意識レベルを持っている訳ですが、先日改めて測定してみましたら、log480と5ポイント上がって菩薩意識の一歩手前迄来ている。

 何故だろうか?と調べてみたら、山形塾にlog490を超える人達がゴロゴロいる。下がっている意識を元に戻した人がいたり、高い意識を持った人が新たに入会したり、中にはlog495~499と縁覚の天辺迄来ている人も何人かいる。山形塾の例会に新潟から何人も連れて行っているけれど、行ってみてどうですか?大変に良い波動を感じたでしょう?気分が良いと感じたでしょう? 精妙なエネルギーでフィールドが形成されていますから。全クラスを見ていて、今山形塾が一番パワーがあるんじゃないかな?登録メンバーも28名を超えたしね。

 本日お配りした「キネシオロジーと十界互具の関連表」では、log350400迄を声聞、log400499迄を縁覚としておりますが、縁覚の上段階、つまりlog470以上を「阿羅漢(あらはん)」と申します。儒教でいえばここからが君子です。ですから、log480の意識を持つ当会に所属する皆さんは、大半が阿羅漢の境地を得ている君子である!と云えるでしょう。

 だからもっと自信を持っていいですよ。君子なんだから。自信を持っていいが自惚れてはいけない! 満足してはいけない! 阿羅漢程度で‼その上の菩薩を目指して生まれてきたんだからね、皆さんは。菩薩を目指してきたから「論語に学ぶ会」などという一文にもならん会に入っているんです。そうでなかったらそもそも入会などしませんし、入ったとしても息苦しくて途中で辞めて行きます。波動が合わないから。ですから皆さんにはよく云うんです「その気があるならlog499迄は誰でも連れて行く」と。

 つまり、ここ迄(log499)は誰でも習得(習って会得)できる段階なんです。その気になれば。ですが、ここから先log500から先は習って会得できる段階ではありません。自得(自ら悟って会得)する領域に入ります。私に出来ることはヒントを提供するか、きっかけを与えるかしか出来ません。ヒントやきっかけに気付くかどうかはあなた次第、本人の自由意思に任されておりまして他人が手出し出来ないのです。

 まあ、こう考えてもらえば良いでしょうか?

  会得(自分のものとする) → @習得(習って会得する) 〜log499
                     → A自得(自ら悟って会得する)log500〜

 前置きが長くなりましたが、今日は前回の復習を兼ねながら、自得のヒントとなるような話しを幾つかしてみたいと思います。


二、パート1のおさらい 
     http://www.niigata-ogawaya.co.jp/rongo3/go-2005-08.htm

 私たちはこうして肉体を着て生活しておりますと、この三次元物質世界こそが実在であって、目にも見えず耳にも聞こえない精神世界は、物質世界の飾り物にすぎない、空想の世界に過ぎない!?と錯覚してしまいがちであります。更にこれが高ずると「この世界は物質がすべて、人間は肉体がすべて!」と勘違いして「死んでしまえば一巻の終わり。たった一度きりの人生だから、生きているうちに金も欲しい!地位も欲しい!名誉も欲しい!異性も欲しい!健康も欲しい!寿命も欲しい!もっともっと!もっともっと‼」と欲に凝り固まってしまう。

 欲望そのものは、程々ならば善でも悪でもなく、本来価値中立的なものなのですが、欲望は必ずもっともっととエスカレートする習性を持っておりますから、次第に「自分さえ良ければ人はどうなろうとかまわない!」となって、遂には奪い合い・殺し合いまで演じてしまうことになる。

 今から二千五百年前、釈迦は「諸法無我」・すべての物質には実体が無い!と教えました。亦、同じ頃老子は「営魄に()つ」・肉体は魂の乗り舟に過ぎない!と説いた。皆さん老子を全編やりましたから覚えているでしょう? 老子第十章冒頭にあった言葉です。「老子」書は、全編これ目にも見えず耳にも聞こえない世界、つまり暗在系の真理を述べたものなんですね。

 いつも皆さんに「この世は魂が肉体を着て生きている世界、あの世は肉体を脱ぎ捨てて魂だけで生きている世界であって、まったく別な世界ではなく隣り合わせなのだ!」と述べているように、普段私たちが云う「死」とは物質即ち肉体が死ぬだけのことでありまして、魂は決して死ぬことのない永遠不滅の存在であります。ここがしっかり分っていないと、この世のみならずあの世に帰ってからも迷いの世界を彷徨することとなります。推薦図書に挙げた「死後探索」第一
巻〜第三巻の中でモンロー研究所のブルース・モーエンは、迷いの世界を彷徨している人達の様子を詳しく語っていましたね。フォーカス23という領域がそれです。

 肉体死は人の死ではありません! 人は死にたくても死ねない存在なんです。肉体死を以ってすべてが消滅してしまう、The Endと思ったら大間違いです!! ところがどういう訳か、大半の方が肉体死を以ってThe Endと勘違いしている。肉体死を以ってThe Endと勘違いするとどういうことになるかと云えば「死」が最大の恐怖になります。肉体我(これを偽我と云いますが)を真我と錯覚してしまいますから肉体が亡くなればすべてが無くなる、消滅すると思い込んでしまう。人間は消滅すること程恐ろしいものはありません。ですから、肉体死が最大の恐怖となる訳です。

 錯覚に基づいたこの恐怖が何に変貌するか、皆さん分りますか? 実はこれこそが『欲望』の根っこになるんです、恐怖がね。ここはよく覚えておいて下さい。
生命(いのち)には限りがある!と思い込んでしまいますと、ならば限りあるうちに肉体我・偽我つまり肉の感官を喜ばすものなら何でもやっておこう!!となりましてアレもコレももっともっとと我利我利亡者になってしまう。人は無限の生命(いのち)を生きているというのに!つまり、欲望というのは恐怖を一時紛らわすための隠れ蓑なんですね。実体の無い儚いものの為に一生を捧げてしまうなんてこんなバカな話しはないでしょう?

 サテ、今ほど肉体我は偽我即ちニセモノの自分であると申しました。では、真我、本物の自分とは何なのでしょうか? それがいつも申し上げている永遠不滅の「魂」というものなんです。しかし、魂が究極の真我か?というとそうでもありません。魂の底の底を貫いている神性、仏性、これが本当の真我つまり「神我」であります。神なる我ですね。

 神我のことをキリスト教では「キリスト意識」、仏教では「仏陀」、道教では「(タオ)」、儒教では「天」と云う訳ですが、キネシオロジーで云う所のlog1000の意識がこれに当たります。すべての人間の魂の底の底には、本来この神我・log1000の意識が内在しているんですね。つまり、私たち人間一人一人は皆神の分身なんです。根っこの所ですべて神とつながっているという事は、私もあなたも、日本人もアメリカ人も、アラブ人もユダヤ人も、すべては一体のものである!ということであります。

絵に描いてみると分りやすいでしょうか・・・。

※ 海の上から見ると、陸地や島(個人個人)は個別に分離しているように見えるけれども、
   海底ではすべて大地でつながっている。この大地が神我
(神性・仏性)と考えてよい。
 

 これで分りましたね。魂と云うのは、神の意識が個別化して(これを分霊(わけみたま)と云う)個性化した意識のことを云う訳ですね。これが赤羽良樹の魂であったり、梨果園の魂であったり、高橋千春の魂であったりする訳でありまして、一人一人が神の分身・神意識が個性化した存在なんですね。山形の人はまさかあの千春が神の分身だなんて冗談でしょ?などと云ってはいけません! あれはあれで、立派な神の顕現の仕方なんです。まだこの星の習慣に馴染んでいないだけで。釈迦も云っているではないですか、「一切衆生悉有仏性」・すべての人間には仏の種・神の意識が宿る、と。

 サテ、では究極最奥の神意識というのはどんなものなのでしょうか?残念ながら、私にはよく分かりません。この最奥の神意識のことを、私たちは創造主と云ったり、造物主と呼んだりしている訳ですが、一体全体どんな意識なのでしょうか?老子はlog990を打つ精神界の巨人ですが、その老子でさえ「玄の又玄は衆妙の門なり」と云って、奥のそのまた奥は玄(真っ黒け)でよく分らないと云っている。地球人類で、究極最奥の神意識を会得していたのは、釈尊と孔子とイエス位のものかも知れません。このお三方は、いずれもlog1000を打つ方々ですが、レベル1000とは、究極最奥の神意識を会得した方、悟った方の意識レベルを云う訳ですね。

 では、レベル1000など及びもつかない我々凡人には、究極最奥の神意識を知る手掛かりが全く無いのか?と云えばそうでもない。イエスは、「我を見る者は父なる神を見るのである!」と語っておりますから、この父なる神というのが究極最奥の神意識・創造主の意識と云うことです。つまり、我々凡人は(じか)には知ることは出来ないかも知れないがレベル1000の意識を持つ釈迦や孔子やイエスを通してならば、究極最奥の神意識を知ることが出来るのだ!と云うことになります。

 彼らを通して知るとは、彼らの意識を通して知ることです。幸いにも彼らの意識の一端が、仏典・論語・新約聖書に文字として残されている。その気になりさえすれば誰でも読むことが出来る。私が常々皆さんに「論語でも法華経でも新約聖書でもどれでも良いから、一度はボロボロになる迄読み込んでみよ!」と申し上げているのは、心を裸にして釈迦や孔子やイエスの意識の門をくぐって見なさい!彼らの意識のエネルギーフィールドに一度あなたの魂を浸してみなさい!ということなんです。


 
まあ、そんなこんなで、爾来二十数年間、精神世界の探求・真理の探究をやって来たつもりですが、最近になってようやく少しだけ分りかけて来たような気がします。釈迦や孔子やイエスの意識の万分の一位が。何故孔子が「我を知る者は其れ天か」と云い、イエスが「私は道、真理、生命(いのち)である。私を介してでなければ誰も父の元に行くことはできない」と云い、釈迦が「一切(いっさい)有情(うじょう)悉皆(しっかい)成仏(じょうぶつ)」と云ったのかが 。

 この一切有情悉皆成仏」という言葉程、後世に誤って伝えられているものはありませんね。皆さんはこれを「人間は死ねば誰でも成仏する、みんなが仏になれるんだ」と解釈していませんか?これは間違いです!本当の意味は「すべての人間は、仏が成らしめている存在である、仏陀の分身である!」と云うことなんです。だから「一切衆生悉有仏性」、すべての人間には仏の種が宿っている、仏性が宿っているとなるんですね。

 だがしかし、この謎を解く鍵は、私の知る限り「論語」の中にはない。「法華経」の中にもない。唯一あるいは、新約ヨハネによる福音書第一章であります。有名な文章なので知らない人はいないでしょう。

 曰く「初めに(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものはこれによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光は闇の(うち)に輝いている。そして闇はこれに勝たなかった」と。

 ここに出てくる(ことば)とは、普段私たちが使っている言語としての(ことば)ではありまでん。意識としての言、つまり「言霊(ことだま)」のことでありますがちょっと分りにくいので「意識」のことと考えて良いでしょう。また、闇とは、皆さんがこれが自分だと錯覚している肉の感官による肉体我・偽我、つまり物質・肉体のことです。それでは文言を入れ換えてもう一度読み直してみましょう。

 『初めに意識があった。意識は神と共にあった。意識は神であった。この意識は初めに神と共にあった。すべてのものは意識によってできた。できたもののうち、一つとして意識によらないものはなかった。この意識に命があった。そしてこの命は人の光であった。光は肉の感官の(うち)に輝いている。そして肉の感官はこれを理解しなかった』と。これでスッキリしたでしょう?

つまり、こういうことなんですよ、究極最奥の神の本性とは

   神 = 意識 = 愛 = 光 = 生命(いのち) = 創造 = 叡智

  
   
                  ‖

                       ・・・すべて 
(全にして一、一にして全)

                     (種)

                                       人

 いいですか! このことはしっかり心に刻み付けておきなさい!いかなる状況下にあっても、絶対に忘れてはいけない!あなた達は、たったこのこと一つを聞くために今日私に会いに来たのだから!!人は神の分霊(わけみたま)・分身ですから全ての人に神の種、即ち神と同じものが宿されている。神が意識により全てを創造されたように、私たち一人ひとりにも意識によりすべてを創り出す力が宿されている。意識とは思いのことですが、この思いを集中し持続すればあらゆる現実を創り出し、あらゆる環境を引き寄せることが可能である!と云うことです。この集中し持続する思いのことを「念」と云います。

 釈迦はすごい人で、二千五百年前にこのことが解っていて「三界唯心(さんがいゆいしん)」と云っている。三界唯心とは、すべての世界は自らの心、即ち思いの反映である!という意味ですが、分り易く云うと、人間一人ひとりの現実や環境は、集中し持続する自らの心即ち思いが創り出し、引き寄せたものである!!ということです。

 面白いもので、今アメリカでは「ザ・シークレット」という本が800万部を超えるベストセラーになっているそうですが、これは釈迦の云う「三界唯心論」を「引き寄せの法則」として世に問うたものですね。日本語に翻訳されて角川書店から出ておりますから、来月の読書課題に挙げましょう。

 他にも「引き寄せの法則」を述べた本が4〜5冊出ていますが、ロンダ・バーン著「ザ・シークレット」がズバ抜けてレベルが高い。Log850あります。他はどれも500以下です。読むなら「ザ・シークレット」を読みなさい。これが真理を正確に伝えている。あとはどれもハウツー本、駄本です。


三、開運の極意

 これからお話しする開運の極意・運命転換の法則とは、実は「三界唯心論」・「引き寄せの法則」を私なりに解釈して述べようとするものです。

 私たちの住んでいる三次元物質世界の物理法則では、プラスとマイナス、N極とS極が引き寄せあうようになっているけれども、三次元を超えた四次元以降の精神世界ではプラスとプラス、マイナスとマイナス、N極とN極、S極とS極が引き寄せあうようになっている。これを私たちは「類は友を呼ぶ」とか、「似たもの同士は引かれ合う」と云っておりますが、肯定的思いは肯定的な現実を引き寄せ、否定的な思いは否定的な現実を引き寄せる。楽天的な思いは楽天的な現実を引き寄せ、厭世的な思いは厭世的な現実を引き寄せる。健康面でも、経済面でも、人間関係でも。

 皆さんは見たいTV番組を見る時に、チャンネルをその局に合わせるでしょう?あれは空中に無数に飛び交う電波の中から見たい番組の周波数を選んでチューニング(同調)している訳ですね。丁度これと同じなんです、引き寄せの法則も。このチャンネルに相当するのがあなたの心、集中し持続するあなたの思いなんです。

 つまり思いとは、心が発する電磁波のようなもので、これが自分の周囲に磁場を形成する。この磁場の周波数に同調したものが通じ合って引き寄せられる。これを何と云うかというと「波長同通の法則」と申します。つまり、「三界唯心論」とは「引き寄せの法則」のことであり、「引き寄せの法則」とは「波長同通の法則」のことである!ということですね。

 十九世紀スイスの哲学者アンリ・フレデリック・アミエルはこれを『心が変われば態度が変わる(物事の捉え方) → 態度が変われば習慣が変わる(身・口・意) → 習慣が変われば人格が変わる(人徳) → 人格が変われば運命(人生)が変わる』と云いました。

 私は常々皆さんに「これが開運の極意、運命転換の法則なんですよ!」と云い続けて来ました。順序を逆にして云うと『運命を変えたければ人格を磨きなさい!→ 人格を磨きたければ習慣を改めなさい!→ 習慣を改めたければ態度即ち物事の捉え方を変えなさい!先入観念や固定観念を剥ぎ取りなさい!→ 態度を変えたければ究極的にはあなたの心・思いを変えなさい‼』となる。思い(心)が原因で運命(人生)はその結果、あなたの思いが今の現実を創り出し、環境を引き寄せているのだ‼と云うことです。健康面でも、経済面でも、人間関係面でも。

 つまり、あなたの思いがあなたの態度を決め → あなたの態度があなたの習慣を決め → あなたの習慣があなたの人格を決め → あなたの人格があなたの運命を決めている!ということなんですね。だからすべての人に自由意思(思いの自由)と自由意志(選択の自由)が与えられているんです、自分で自分の運命を開拓して行けるように!自分で自分の心を開拓して行けるように‼

 心の開拓を別の表現を使えば「心を磨く」と云いますが、ならば心をどのように開拓して行ったら良いのか?磨いて行ったら良いのか?そこが知りたいんだ!?とおっしゃるのではないでしょうか。でも、今云ったように、自分の心をどのように開拓して行くかは、すべて本人の自由意志・選択の自由に委ねられておって何人と雖も手出しすることが出来ません。釈迦であろうが、孔子であろうが、イエスであろうがあなたの自由意志に干渉することは許されておりません。

 では、何故他人の自由意志に干渉することが許されていないのか?分りますか?それは先程も述べたように、すべての人に神の種が宿されておって、人間存在の実相・真の姿を充分知った上で生まれて来ているからなんです。人間存在の実相を知らずに生まれて来る人霊は一人もおりません。人間として転生して来る為に最低限知っておかなければならない人霊としての義務、それが「人間存在の実相を知る」ということなんですね。ここが人間とサルとの決定的な違いなんです、サルは「サル存在の実相」なんか知りませんし「己は何者か?」などと考えもしませんから。

 人間は、生まれてから三〜四才頃までは誰でも人間存在の実相をちゃんと覚えていた筈なのですが、五〜六才を過ぎる頃から「この世は物質がすべて、人間は肉体がすべて」という迷信を刷り込まれて、覚えていた筈の真実を忘れてしまうんですね。学歴だ!地位だ!名誉だ!財産だ!健康だ!と周囲に無理やり吹き込まれて、まあ、明き盲のまんま一生を送ってしまうようなものです。これは。だがしかし、この迷信の関門を突破しなければ心の開拓など出来はしません。絶対に!忘れていた人間存在の実相を思い出すことが 人生の第一関門だなんて何だか情けなくなりますが、仕様がない、これが現実なんだから。

 では、あなたが忘れていた人間存在の実相とは何だったのか?皆さん全員が知っていますよ、15年間耳にタコが出来るほど聞かされて来たんだから。曰く『人間の本質は魂である。肉体は魂の乗り舟である。魂は神の種を宿した永遠不滅の存在であって、生まれ変わり死に変わり即ち輪廻転生を繰り返しながら無限の進化を遂げていく!』これが人間存在の実相、真の姿です!思い出しましたか?あなたがオギャーと生まれる前には良く知っていた常識でしょう?思い出しなさい‼

 思い出しさえすれば、第一の関門はスーっと開きます。こういうことは信じることでも知ることでもありません。ただ気付くだけでいいんです。気付くとは、元々そうであった意識を取り戻すこと、忘れていたことを思い出して正気に戻ることを云うのであて、新たに発明することでも付け加えることでもありません。人間存在の実相に気付きさえすれば後はそのまま素直に生きたらいいんです。

 つまり、神の子人間の本性に従って、ウキウキ・ワクワクする人生を素直に生きたらいい。そうすると自然に心が開拓される、磨かれるようになっているんです。辛く苦しい茨の道を通らなければ心が磨かれないなどということは無いんです。まず人間存在の実相を思い出すこと、気付くこと!次は神の子人間の本性に従って、ウキウキ・ワクワクする人生を素直に生きること!! 簡単でしょ?

 このように生きようとする時、必ず邪魔をして来るのがあなたのエゴ・自我です。エゴ・自我には、肉体我(欺我)・感情我(戯我)・思考我(擬我)の三つがある!とは常々皆さんに申し上げている所ですが、これは皆偽我つまり偽者の(われ)です。殆んどの人がこの偽我こそが信なる我・真我であると勘違いして、肉の感官に振り回されて生きているのが現状なのではないでしょうか?ですが、人間存在の実相を思い出し、ハッと気付けばもう偽我に邪魔されることもなくなります。あとはウキウキ・ワクワク生きようが、ハラハラ・ドキドキ生きようが、オロオロ・メソメソ生きようがあなたの自由、誰も文句は云えません。あなたの自由意志で生きたらいい。

 人生は、日々種蒔きをし、日々刈り取りをやっているようなものです。良い種を蒔けば良い実がなり、悪い種を蒔けば悪い実がなる。良い実も悪い実も自分が蒔いた種は自分で刈り取らなければなりません。原因・結果の法則は、何人と雖も晦ますことは出来ません。どんな境遇にあろうとも、すべてはあなた自身の蒔いた種が今実っているんです、心の健康も、体の健康も、財布の健康も!

 原因を放ったらかしにしておいて、結果だけ良くしようと思ったってそうは問屋が卸しません。何度も云うように、心・思いが原因で運命・人生は結果なんです。ここを間違わないようにしてください。

   ただ何故か不運や災難が次から次へとふりかかってくる人がいる。その原因は以下の二つ。
    @過去世の業(カルマ)をこの世で解消するために、災難と立ち向かわなければならない時。
    A憑依されている時
      体調が悪い時は憑依されやすいので注意。
      いやな相手と会う、いやな場所に行かねばならない時は以下の方法を行う。
        
・五芒星をイメージし、自分がその中に入る
        ・アヤナワンの図を持っているとよい。  http://www.shibatawasei.jp/   


          


四、菩薩意識を得て帰還せよ!

 お配りした<儒教的悟りの階梯意識のマップ>をご覧下さい。私は日頃から皆さんに「論語に学ぶ会」の会員になったからには、仁の土台は第三段階の「忠恵」、中庸の発現レベルでは第三段階治国@の「縁覚」を必達目標としなさい!更に、仁の土台は第四段階「寛恕」、中庸の発現レベルでは第四段階治国Aの「菩薩」を挑戦目標としなさい!と云い続けて来ました。

 また、その気があれば、log499迄は誰でも連れて行く、だがlog500の壁をブチ破るのは自力で行くしかないのだ!と突き放したような云い方をして来ました。しかし、これだけ縁覚の上段階「阿羅漢」が増えてきますとそうも云っていられません。自力で行くにしても確かな道標というか?手引きというか?これを示さないことには師としての私の使命を果たしたことになりません。そこでこれから四つのことを云いますから菩薩に挑戦してみよう!と思う方は是非実践してみてください。


 log499とlog500ではたった1ポイントの違いでしかなく、紙一重の差のように感じられますが、実はこの僅かな差が厚い厚い壁、深い深い溝になっておりまして、ここを突破する決め手はただただ実践あるのみ!なんですね。思っているだけ、考えているだけ、知っているだけではダメなんです。実践行が伴わないことにはどうにもこの壁は越えられませんし、多くの魂達がこの壁の前で挫折してしまうんです。今日はこの壁を越えてもらいます。それでは申し上げます。


  1、人間存在の実相つまり真理を迷える衆生に述べ伝えなさい!
    肉体は朽ちても魂は永遠不滅、生き通しなのだ!と云うことを教えてあげなさい!
    人々を死への恐怖から救ってあげなさい!!
    真理を述べ伝えて人に笑われはしまいか!?などと怖るるなかれ‼

    「老子」第四十一章で李耳(りじ)
       上士(じょうし)は道を聞いては勤めて之を行なわんとし

       ・中士(ちゅうし)は道を聞いては存するが若く(ごとく)亡きが如く

      ・下士(かし)は道を聞いては大いに之を笑う。笑わらわざれば以って道為すに足らず

  上根の人は真理を聞くと勤めて実行しようとする。中根の人は真理を聞くと半信半疑であるが
  否定迄はしない。下根の人は真理を聞くとそんなバカなことがあるもんか!と云って嘲笑う。
 下根の人に嘲笑われないようではむしろ本物の真理とは云えまい‼』と述べているではないです
  か!嘲笑う人がいたら、むしろ「ああ、カワイソウな人だ!」と思ってやりなさい‼


2、相手の目線に合わせて分り易い言葉で優しく真理を語りなさい‼
 説得しよう折伏(しゃくぶく)しようなどと思ってはいけない! ズバリと云って分らない場合は
 方便を使いなさい! 無理に押し付けてはならない! 気付くまでそっと見守ってあげなさい‼ 
 人は煮た豆ではないのだから必ずいつか芽を出す。


3、自分がこうありたい、ああなりたいと思うことは、人にもその如くやってあげなさい!
 
人からこうして欲しい、ああして欲しいと思うことは、まず自分からやってあげなさい!
 見返りを求めず、さり気なく、爽やかに、あっけらかんとしてやりなさい‼


4、ともに笑い、ともに泣き、ともに喜び、ともに汗を流しなさい! 
 世のため人の為などと一丁前の口をきいてはいけません。
 世とともにあり、人とともにありなさい! 

 For you ではなくwith you で行きなさい!
 I・my・meではなく we・our ・usで行きなさい!
 バカ利口で行きなさい‼        如何ですか? やれそうですか?

 

ウンウンと頷いている方が結構おられましたね。今述べた四つのことは、実は私のオリジナルではありません。釈迦が弟子たちに菩薩の実践行として教えた「四摂事(ししょうじ)」を私なりに翻訳し直したものです。四摂事とは、一布施、二 愛語、三 利行、四 同事のことですが、

   一 布施とは、仏法を説いて迷える衆生を救うこと。
   二 愛語とは、誰にでも分るやさしい言葉で語ること。
   三 利行とは、相手の身になって利他行を実践すること。
   四 同事とは、相手に同化して手助けすることであります。

皆さんがこの四摂事を実践しようとする時に、最大の障害になるものが先に述べた通りあなた自身のエゴ・自我であります。エゴの中で、肉体我や感情我は比較的御し易いけれども、最後迄抵抗して来るのが思考我という曲者。

<人の心を椰子の実に喩えて図に描くと>


  ○ 外皮                          →肉体我。「欺我」。ログ200のバカの壁。
  ○ 複雑にからみあった繊維   →感情我。「戯我」。ログ400の賢者の壁。
  ○ 堅い堅い殻                  →思考我。「擬我」。ログ500の仁者の壁。
  ○ ココナツミルク(胚乳)     →真我。「真なる我」仁という。
  ○ ココナツミルクの中心      →
神我。「神なる我」神の種 ログ1000

 皆さんがこれ迄の人生で読み・書き・聞き・記憶して学んできた思想・信条・信念体系・定説・学説といったものが先入観念・固定観念としてガチガチに思考我の殻を形成している。他人が創作した観念(物事に対する考え)を刷り込まれて自分のものと錯覚して心にまとっている。つまり、人に擬した我「擬我」を本当の自分・真我と勘違いしている訳です。この擬我、長年本当の自分であると信じてきた擬我を剥ぎ取ってしまったら自分が自分でなくなってしまうのではないか?自分がいなくなってしまうのではないか?と云う恐怖が先に立ってしまうんですね、偽りの自分でしかないのに。本当は、先入観念や固定観念で凝り固まっている思考我の殻を剥ぎ取ってしまった時に、神の子人間としての本来の自分・真なる我が光り輝いて来るんです!log500の猛烈な光エネルギーがほとばしり出てくるんです!

 ここで一つはっきり申し上げておきましょう、この思考我の殻を剥ぎ取る勇気と覚悟のない者は、決して菩薩の境地など得られません!菩薩になどなれません‼気の済むまでそうして思考我にしがみついていなさい!ウソの自分でいたければ!!15年間もこんな話を聞いてきて、まだ「人間は肉体がすべて、世界は物質がすべて!」と思い込んでいる人がいたら早く目を覚ましなさい‼いつ迄寝呆けていたら気が済むんですか!?人間は、ノンデ、クッテ、シテ、ネテ、タレテソレデオシマイではないんだよ!

 あの大槻教授でさえ目が覚めたではないですか。毎年年末になるとビートタケシの司会でたま出版の韮沢潤一と早稲田大学の大槻教授が霊魂や宇宙人やUFOや異次元存在の理非をめぐってトークバトルをやる番組があるでしょう? 例年であれば物理学者の大槻教授は非物質存在などある訳がない!と真向から否定する所ですが今回は「自分は間違っていた!非物質世界は確かに存在する‼」とあっさり認めて謝罪した。

 あの大槻教授の態度を見てピーンと来た方もいるでしょう?「ハハ〜ン、大槻さんはリサ・ランドールを読んだんだな!?」と。昨年の読書課題に挙げましたから皆さんもリサ・ランドールを読んだでしょう?リサ・ランドールはハーバード大学の教授で今最も世界の注目を集めている理論物理学者です。NHK教育TVにも出演して東京大学物理学科の大学院生と討論をやっていましたね。私は理数オンチなのでどんな複雑な方程式を使うのか分りませんが、最先端の理論物理学では宇宙の構造は私たちが一般に云う物質世界が4%以下、非物質世界(ダークマター・ダークエネルギー)が96 %以上であることが分っている。

 つまり、私たちの住んでいる三次元物質世界は全宇宙の25分の1以下でしかない非常に稀な空間だ!ということです。ストローの穴から世界を覗いているようなものだと云うんです。(リサ・ランドールはこれをシャワールームのカーテンについた水滴と云っている)大槻教授はこれを知って愕然としたんでしょう。あっさりと従来の唯物的自論を撤回した。こういう時の理数系の人達の頭の切り換えは早いね、唯物論は二十世紀最大のペテンでした!と云うんだから。

 これに対して文系の連中はどうも反応が鈍い。未だに「魂だの、霊だの、異次元存在だのと云うのは科学的に証明されていないじゃないか!?」などと寝呆けたことを云っているんだからね、リサ・ランドールを読んでもいないくせに。まあ、人間は肉体がすべて!世界は物質がすべて!死んでしまえば一巻の終わり‼と思い込んで生きている人は無知から来るペテンの世界を彷徨っているようなもんだね。これは、信じる・信じないなどと云うレベルの話ではなくて、単なる無知、もっとはっきり云えばノータリンってことですよ。

 当会会員の中にはいないと思うけれど今日はゲストの方も何人かおられるようだから、もし「人間は肉体がすべて!」と勘違いしている人がいたら、早く目を覚ましてください。もうそのペテンは通用しませんから。あとはそうだよねえ、心掛けることとしては・・・、

 『ほのぼのとして、何となくユーモラスで、どこか懐かしい感じがして、いつ迄も無邪気な遊び心を失わず、ウキウキ・ワクワクして生きること!』って所かな?

以上で本日の講義を終わります。