2009-04-11 1章から8章
2009-05-09 9章から12章
2009-06-13 13章から21章
後集 1項
談山林之楽者、未必真得山林之趣。厭名利之談、未必尽忘名利之情。
山林の楽しみを談ずるは、いまだ必ずしも真に山林の趣を得ず。
名利の談を厭うは、いまだ必ずしも尽く名利の情を忘れず。
都会を離れた田舎暮らしの楽しみを、こと新しく話す者は、まだ、ほんとうには田舎暮らしのおもむきを会得している者とはかぎらない。また、ことさら名利の話を聞くことをきらう者は、まだ、全くは名利を求める心を忘れ去っている者とはかぎらない。(前者には風流をてらう臭みがあり、後者には高尚をてらう臭みがある)。
軽井沢や箱根に別荘を持っている人は、大涌谷がどうの、旧軽井沢がどうの
といった話はしない。嫉妬や劣情からケチをつけているのが、旧社会党と韓国。
後集 2項
釣水逸事也、尚持生殺之柄。奕棋清戯也、且動戦争之心。
可見喜事不如省事之為適。多能不若無能之全真。
水に釣るは逸事なり、なお生殺の柄を持す。奕棋は清戯なり、かつ戦争の心を動かす。
見るべし、事を喜ぶは事を省くの適たるにしかず、多能は無能の真を全うするにしかざることを。
水辺で魚釣りするのは、のんきな楽しみごとではあるが、それでもなお、魚を生かし殺す権力を持っている。囲碁は上品な遊びごとではあるが、それでもなお、勝負を争い戦う心を動かす。してみると、何か事をするのを好むよりは、むしろ、なるべく事を少なくする方が気楽であり、また、才能が多くて多方面に活躍するよりは、むしろ、才能がなくて一方面に専心し本性を全うする方がよいことがわかる。
「Simple is Best」である。
チンギスハーンを支えた、耶律楚材(ヤリツソザイ)が次のように云っている。
興一利不若除一害 一利を興すは一害を除くにしかず。
生一事不若減一事 一利を生(ふ)やすは一事をへらすにしかず。
後集 3項
鴬花茂而山濃谷艶、総是乾坤之幻境。水木落而石痩崕枯、纔見天地之真吾。
鴬花茂くして山濃やかに谷艶なる、すべてこれ乾坤の幻境なり。
水木落ちて石痩せ崕枯る、わずかに天地の真吾を見る。
陽春には、うぐいすが鳴き、花が咲き競うて、山も谷も濃艶な装いを凝らすが、これは全く天地の仮まぼろしの姿である。(これに反し)、晩秋には、谷川の水も枯れ、山の木々の葉も落ち尽くして、石はやせ、がけは枯れた姿となるが、この時にこそ、はじめて虚飾を去った天地の真のすがたを見ることができる。
鶯も花もすべて幻と云っているが、ちょっと言いすぎではないか。
後集 4項
歳月本長、而忙者自促。天地本寛、而鄙者自隘。風花雪月本閒、而労攘者自冗。
歳月もと長くして、而して忙しき者みずから促れりとす。
天地もと寛にして、而して鄙しき者みずから隘しとす。
風花雪月もと閒にして、而して労攘の者みずから冗なりとす。
歳月は、元来、長久なものであるが、気ぜわしい者が、自分自身でせき立てて短くする。天地は、元来、広大なものであるが、心ねの卑しい者が、自分自身で狭くする。(方々に不義理を重ねたりして)。春は花、夏は涼風、秋は月、冬は雪と四季折々の風雅は、元来、のどかなものであるが、あくせくする者が、自分自身で煩わしいものとしている。(すべて、その人の心の持ち方によるものである)。
洪自誠はセッカチの者はダメだと云っている。セッカチは漢字で書くと「急勝」となる。
先を急いで、心の落ち着かないさまをいう。
セッカチには三形態がある。
①忙しいもの(気ぜわしい)
②鄙しき者
③労攘の事(あくせくする)
せっかちには冬山登山が効果ありというが、命を落とす危険性があるので勧めない。
後集 5項
得趣不在多。盆池拳石間、煙霞具足。会景不在遠。蓬窓竹屋下、風月自賖(シャ)。
趣を得るは多きにあらず。盆池拳石の間にも、煙霞具足す。
景を会するは遠きにあらず。蓬窓竹屋の下にも、風月おのずからはるかなり。
風情を得るには、必ずしも多くの道具立てを要しない。盆のような小池、こぶしほどの小石を並べただけでも、心にかなう風情が備わっている。また、風景を求めるには、必ずしも遠くへ出かける必要はない。よもぎの茂った窓や竹屋根のあばらやでも、風景は自然にのどかである。
身近なところで一人で楽しみを見出せることは、素晴らしい。茶・書・音楽・・etc
孟子は「君子に三楽あり」という。
http://suzumoto.s217.xrea.com/website/mencius/mencius13-20.html
①父母は共に健在で、兄弟は事故もなく暮らしている
②上を向いては天に恥じず、下を向いては人に恥じることがない。
③天下の英才を得て、これを教育する。
論語で云う「益者三楽」とは・・・季子第十六 435
http://rongo.jp/kaisetsu/rongo.php?435,1
①礼節と音楽によって自己を磨く楽しみ
②人の美徳を噂する楽しみ
③賢い友が多くいる楽しみ
壷中有天を持ちましょう
http://www.kojobunko.net/21seiki/message2.html
仕事一筋だった友人が、定年退職となり、酒を携え私を訪ねてきた。
「何をしたらよいのか、どのように生きていたらよいのかが、分からない」との事。
そこで、昔何をしたかったのと聞いたら「ピアノを弾きたかった、ハーレーバビットソンに
乗りたかった」というので、ぜひトライせよと励ました。
後集 6項
聴静夜之鐘声、喚醒夢中之夢、観澄潭之月影、窺見身外之身。
静夜の鐘声を聴いては、夢中の夢を喚び醒まし、澄潭の月影を観ては、身外の身を窺い見る。
静かな夜に響きわたる鐘の声に聴き入っていると、浮世の夢から呼び覚まされて、夢の中で夢を見ていたことを悟る。また、水の澄んだ深い淵に映る月影に見入っていると、わが肉身はこの月影のごとく化身で、真身は中天にあって照らしていたことを知る。
「夢中之夢、身外之身」。菜根譚の第一章をもう一度見てほしい。
saikon.htm
ここが分からないと「酔生夢死」からさらに飛躍して「泥酔生悪夢死」の人生となる。
後集 7項
鳥語虫声、総是伝心之訣。花英草色、無非見道之文。
学者要天機清徹、胸次玲瓏、触物皆有会心処。
鳥語虫声も、すべてこれ伝心の訣なり。花英草色も、見道の文にあらざるはなし。
学は天機清徹、胸次玲瓏、物に触れてみな、会心のところあらんことを要す。
小鳥のさえずりや虫の鳴き声も、すべて宇宙にあまねく満ちわたる心理を、以心伝心に伝えている秘訣であり、赤い花びらや緑の草の色も、すべてこの真理を現した文章でないものはない。そこで学問に志す者は、常に本心のはたらきを澄みとおらせ、胸中を少しの曇りもない玉のようにして、物に触れて聞いたり見たりする毎に、この宇宙の真理を心に会得するところがなくてはならない。
二宮尊徳の引用があったが、書き洩らしてしまい、不明。
後集 8項
人解読有字書、不解読無字書。知弾有絃琴、不知弾無絃琴。
以迹用、不以神用、何以得琴書之趣。
人、有字の書を読むを解して、無字の書を読むを解せず。
有絃の琴を弾ずるを知りて、無絃の琴を弾ずるを知らず。
迹をもって用い、神をもって用いず。
なにをもってか琴書の趣を得ん。
世人は文字を用いた書物を読むことだけを知って、文字では書き表せない書物を読むことを知らない。また、有絃の琴を弾くことだけを知って、無絃の琴を弾くことを知らない。(これは皆、文字や絃の形にとらわれているからで、それらによって表現される真理や音律を理解する精神を所持していないからである)。形だけにとらわれて、この精神を用いようとしないで、どうして琴書の趣を会得することができようか。
禅の世界では「不立文字」「教外別伝」という言葉がある。物事のの実相や真理は
言葉で伝えられるものではなく、本人が会得するしかない、という意味である。
これは禅の世界でけでなく、経営も人生も同じである。本人が会得いるしかない。
失敗には法則がある。例えば
・収入よりも支出が多い
・約束を守らない
しかし、成功には法則がない。十人十色のごとく、成功はワンパターンではない。
幸せも同様。金が乏しくても、家族が協力し合い、支えあって、それぞれが
「金はなくとも幸せ」と感じている例は数多くある。
後集 9項
心無物欲、即是秋空霽海、坐有琴書、便成石室丹丘。
心に物欲なければ、すなわちこれ秋空霽海、坐に琴書あれば、すなわち石室丹丘を成す。
人は心の中に物欲さえなければ、それでもう、心は澄み渡った秋空や雨の晴れ上がった海原のように明るい。また、身近に琴と一、二冊の書物さえあれば、(これで憂いを消し心を清めることができるので)、それでもう、身は仙郷にいるように脱俗の思いがする。
後集10項
賓朋雲集、劇飲淋漓楽矣。
俄而漏尽燭残、香銷茗冷、不覚反成嘔咽、令人索然無味。
天下事率類此。人奈何不早回頭也。
賓朋雲集し、劇飲淋漓として楽しめり。
にわかにして漏尽き燭残り、香銷え茗冷やかにして、覚えずかえって嘔咽を成し、
人をして索然として味なからしむ。
天下のことおおむねこれに類す。人、いかんぞ早く頭を回らさざる。
賓客や朋友が大ぜい集まって、(大宴会を催し)、盛んに酒を飲み続けてにぎやかに楽しい。やがて時刻が移り夜もふけ、燈火もわずかになり、香烟も絶え、茶も冷えきってしまうと、(いわゆる歓楽尽きて哀情多しで)、今までとうって変わって、われ知らずむせび泣きをして、人々に興ざめ味気ない感じを抱かせるようになる。世の中の楽しみごとは、皆こうしたものである。なぜ人々は早く思い直さないのか。
後集11項
会得個中趣、五湖之煙月、尽入寸裡。破得眼前機、千古之英雄、尽帰掌握。
個中の趣を会し得れば、五湖の煙月も、ことごとく寸裡に入る。
眼前の機を破り得ば、千古の英雄も、ことごとく掌握に帰す。
その物の中にある真趣を理会すれば、古の五湖の風景をも、(実際にその地に行かなくても)、すべて皆、わが心の中に入れてしまうことができる。また、目前に現れている天機を見抜けば、(古今を通じて変わらないから)、古の英雄をも、すべて皆、わが手中に収め自由にすることができる。
後集12項
山河大地、已属微塵。而況塵中の塵。
血肉身軀(ク)、且帰泡影。而況影外之影。
非上上智、無了了心。
山河大地、すでに微塵に属す。而るをいわんや塵中の塵をや。
血肉身軀(ク)、かつ泡影に帰す。而るをいわんや影外の影をや。
上々の智にあらざれば、了々の心なし。
山河や大地も、いずれは壊れて微塵になるものである。まして人間は微塵の中の微塵で、壊れることはいうまでもない。この人間の肉体は、もともと、水のあわや物の影のように消えやすくはかないものである。ましてこの影である肉体のまた影である功名富貴の類の、はかないことはいうまでもない。そこで最上の知恵を持っていないと、なかなか悟った心にはなれない。
後集13項
石火光中、争長競短。幾何光陰。蝸牛角上、較雌論雄。許大世界。
石火光中、長を争い短を競う。いくばくの光陰ぞ。
蝸牛角上、雌を較べ雄を論ず。許大の世界ぞ。
人の一生は石火の火花のように一瞬時である。この短い時間の中で、どちらが長いか短いかと、わずかなことを競い合っているが、一体、どれほどの時間か、つかのまの命ではないか。また、住むところも蝸牛の角の上のように極めて狭い。この狭い場所の中で、どちらが勝つか負けるかと、争い騒いでいるが、一体、どれほどの大きさの場所か、ごくちっぽけな世界ではないか。
健康にとらわれすぎた時の一転語となる。
売上や効率にとらわれすぎた時の一転語となる。
ただ、すべて洪自誠のいうように行えば、健康も経営も成り立たない。
この章は、時として目を覚ます必要かある時の一転語といえよう。
後集14項
寒灯無焔、敝裘無温、総是播弄光景。身如槁木、心似死灰、不免堕落頑空。
寒灯焔なく、敝裘温なきは、すべてこれ光景を播弄す。
身槁木のごとく、心死灰に似たるは、頑空に堕落するを免れず。
(いかに簡素を尊ぶとはいえ)、さびしい燈火は消えかかり、破れた皮ごろもに少しの緩みもないようでは、これでは全く外面的な光景だけをもてあそぶものである。また、(いかに静寂を尊ぶとはいえ)、身は枯木のようで、心は火の消えた灰のようでは、頑空に堕落していると言ってよい。
洪自誠の知り合いの隠者に、このような人がいたのであろうか。
執着を断ち、空の境地にいたるのはすばらしいが、えてして独りよがりとなるので要注意。
槁木・・枯れきった木。
頑空・・仏教で説く空を断無と誤まり、すべてを空なりとするアホ。
後集15項
人肯当下休、便当下了。若要尋個歇処、則婚嫁雖完、事亦不少。
僧道雖好、心亦不了。前人云、如今休去便休去。若覓了時無了時。見之卓矣。
人あえて当下に休せば、すなわち当下に了せん。
もし個の歇むところを尋ぬるを要せば、婚嫁完しといえども、事また少なからず。
僧道好しといえども、心また了せず。前人云う、「如今、休し去らばすなわち休し去れ。
もし了時を覓むれば、了時なからん」。これを見ること卓なり。
人は何事につけ、思い切って即座にやめれば、それで即座にけりがつくものである。ところがもし、やめるのに適当な時機というものを見付けてからと思うと、(いつまで待ってもその時機は来るものではない)、嫁取り嫁入りをすっかり済ましてしまっても、俗事はいっこうに少なくならないし、(それではと)、出家して僧や道士になるのがよいと思っても、そんなことでは心性を悟りきれるものではない。古人も「今すぐにやめてしまえばやめることができる。然し、もしやめる時機を見付けようとしていたら、やめる時機はないだろう」と言っている。まことに卓見である。
「思い立ったが吉日」。禁煙にしてもダイエットにしても「明日から」とか「準備が整ってから」とか
いう者は、いつまでたったも実行しない。
禅に「前後裁断」という言葉があるが、まさに今が大切。前も後も断ち切っる事が肝要。
出処進退でも、「退」がむずかしい。
鳩山大臣の辞任騒動を思い出す。2000億円を投じた「かんぽの宿」を一括して
180億円でオリックスに売却することが問題ととなったが、鳩山さんはすべての雇用を
継続するという条件で、これ以上の高値で売却することができたのであろうか。
西川社長は、小泉元首相が三顧の礼をもって迎えた人である。最初は固辞していたが
三回目の要請で「お国のためになるなら」といって社長を引き受けた方でる。このような
人物をきちんと処遇しなかったら、日本はどうなるのか。
鳩山さんの卑しさが墓参りの様子に現われていた。鳩山さんは墓参りをしたことがない。
お墓の正面に水をかけることは、先祖に対する無礼である。さらに、柏手をうっていたが
日本の仏教で柏手を打つ宗派はない。墓参りはただのパフォーマンスにすぎない。
後集16項
従冷視熱、然後知熱処之奔馳無益。従冗入閒、然後覚閒中之滋味最長。
冷より熱を視て、然る後に熱処の奔馳益なきを知る。
冗より閒に入りて、然る後に閒中の滋味最も長きを覚ゆ。
冷静になってから、熱狂していたときを振り返ってみて、はじめて、一時の情熱に駆られて奔走したことが無益であったことがわかる。また、多忙で煩わしい境遇から、閑静な境遇にはいってみて、はじめて、閑静な境遇の中に見出される滋味が格別であることがわかる。
このように言われると、耳が痛い。30年前にこの内容を理解していたなら、もう少しましな
人間になっていたかもしれない。しかし、若い時にバカをしていないと、年をとった今でも
バカをしているのかもしれない。
後集17項
有浮雲富貴之風、而不必岩棲穴処。無膏肓泉石之癖、而常自酔酒耽詩。
富貴を浮雲にするの風ありて、必ずしも岩棲穴処せず。
泉石に膏肓するの癖なくして、つねにみずから酒に酔い詩に耽る。
世上の富貴を浮雲のように頼みにならぬものと見なす高潔な気風を持ちながら、しかも必ずしも深山幽谷に隠れ住まねばならぬとはしない。また、山水の景色を愛好するのが不治の病というほどのくせはないが、しかも常に酒に酔い詩にふける風流心を解している。
菜根譚を始めて読んだとき、このような人間になりたいと、切に願った。
しかし今もって、何も変わっていない。
後集18項
競逐聴人、而不嫌尽酔。恬淡適己、而不誇独醒。
此釈氏所謂不為法纏、身心両自在者。
競逐人に聴せて、ことごとく酔うを嫌わず。恬淡己に適して、ひとり醒むるを誇らず。
これ釈氏のいわゆる、法のために纏せられず、空のために纏せられず、
身心ふたつながら自在なるものなり。
名利を追い競うことは世人のなすがままに任せて、(自分は関係しないが)、しかしまた、世人が皆名利を求めることに夢中になっているのを。ひどく嫌うというものでもない。また、名利を忘れ万事にあっさりとしてわが意に適うようにするが、しかしまた、(世人が皆夢中になる中で)、自分独りが冷静であることを誇るというのでもない。このような人こそ、仏家でよく言われる、一切の諸法に束縛されず、また、一切空というにも束縛されないで、身心ともに自由自在な達人である。
太鼓を叩かれれば、踊らなければならない時もある。
笛を吹かれれば、踊らなければならない時もある。
自分一人が気取っていてはいけない。
後集19項
延促由於一念、寛窄係之寸心。故機閒者、一日遥於千古、意広者、斗室寛若両閒。
延促は一念に由り、寛窄はこれを寸心に係く。
ゆえに機閒なるものは、一日も千古より遥かに、意広きものは、斗室も寛くして両閒のごとし。
時間の長短は、その人の一念に基づくもので(時間そのものの長短は一定であるが)、空間の広狭も、その人の心一つに係わっている(空間そのものの広狭は一定である)。そこで、心のゆったりした者は、一日でも千年よりも長いと思い、心の広い者は、ごく狭い部屋でも天地の間のように広いと思う。
楽しい時は、時間の進み方が早く感ずる。
苦しい時は、時間の進み方が遅く感ずる。
すべてが心の持ち方と云うけれど、嫌な事をうきうきしながら出来るか。出来ない。
楽しい事をいやいや出来るか。出来ない。
後集20項
損之又損、栽花種竹、儘交還烏有先生。忘無可忘、焚香煮茗、総不問白衣童子。
これを損してまた損し、花を栽え竹を植えて、まま、烏有先生に交還す。
忘るべきなきを忘れ、香を焚き茗を煮て、すべて白衣の童子に問わず。
知能を減らした上にも減らして、ただ、花を植えたり竹を植えたりして、すっかり烏有先生にお返しして無の境地に入る。そして、「忘れなければならぬこともない」ということさえ忘れてしまって、ただ、香をたき茶を入れたりして、酒を贈ってくれる白衣の童子が来なくとも、全く苦にはしない。
この章を見ると、「老子48章」の「無為の徳」を思い出す。
(48)無為にして世界を支配する
学をなせば日に益し、道をなせば日に損す。これを損してまた損し、
もって無為に至る。無為にしてなさざるなし。
天下を取るは常に無事をもってす。その有事に及びては、
もって天下を取るに足らず。
知識を求める学徒は日に日に(知識を増やそうと)学ぶことを求め,
「道」を求める者は日に日に(知識を)失っていく(ことを求める)。
日に日に失っていき,ついに無のの状態(無為自然の境地)に至る。
世界を支配する者は,しばしば無為にして〔徳による感化によって〕それを成就する。
ある者が無理矢理に〔人に命令し駆り立てて〕世界支配を成し遂げようと努めるとき,
世界はすでに手の届かぬ彼方にある。
無事 ・なすべき事がない時
・平和
有事 ・なすべき事がある時
・戦争
後集21項
都来眼前事、知足者仙境、不知足者凡境。総出世上因、善用者生機、不善用者殺機。
すべて眼前に来たることは、足るを知る者には仙境、足るを知らざる者には凡境。
すべて世上に出ずるの因は、よく用うる者には生機、よく用いざる者には殺機。
すべて眼前に差し迫ってくるものごとについては、満足することを知っている者にとっては理想郷として映るが、満足することを知らない者にとっては俗世間として見える。また、すべて世の中に現れて来るものごとの因縁についしては、これを善用する者にとっては万物を生かす働きをするが、これを善用しない者にとっては万物を殺す働きをするものである。
これは名言である。全文でなくてよいので、原文で覚えてほしい。
知足者 仙境 足るを知る者には仙境
善用者 生機 よく用うる者には生機