2007−3−10 103章のみ
2007−5−12 104章から111章
2007−6−9 112章から121章
103)
以幻迹言、無論功名富貴、即肢体亦属委形。以真境言、無論父母兄弟、即万物皆吾一体。人能看得破、認得真、纔可任天下之負担、亦可脱世間之韁銷。
幻迹(ゲンセキ)をもって言えば、功名富貴を論ずるなく、すなわち肢体もまた委形に属す。真境をもって言えば、父母兄弟を論ずるなく、すなわち万物もみなわが一体なり。人、よく看得て破り、認めて得て真ならば、わずかに天下の負担に任うべく、また世間の韁銷を脱すべし。
仮りまぼろしの世界によって言えば、功名や富貴はいうまでもなく、この吾が肉体でも仮りのものである。しかし、真実在の世界によって言えば、吾が肉親の父母や兄弟はいうまでもなく、この天地間の万物でも皆我と一体のものである。そこで、この世界が仮りのものであることを見破り、真実在の世界で万物は一体であることがわかった人であって、初めて天下の大任を負うことができ、また、世間一般の束縛から抜け出ることができる。
「万物斉同自他一体」のこと。
仏教では
六識 (眼、耳、鼻、舌、身、意)
↓
七識「末那識(まなしき)」・・・・・・・・・・・・ここまではまだ自我、自己愛
フロイトの云う「潜在意識」
↓
八識「阿頼耶識 (あらやしき)」・・・・・・・・ユングの云う「集合的無意識」
↓
九識「菴摩羅識 (あんまらしき)」・・・・・・・真我 真如(神性・仏性)
2007年1月の合同例会の「やしの実」の例えから
○ 外皮
→肉体我 「欺我」 ログ200のバカの壁。
○ 複雑にからみあった繊維 →感情我 「戯我」 ログ400の賢者の壁。
○ 堅い堅い殻 →思考我 「擬我」 ログ500の仁者の壁。
○ ココナツミルク(胚乳) →真我 「真我」
○ 中心部 →神性・仏性 ログ1000
2005年8月の合同例会から
島は分離、孤立しているように見えるが、海底ではすべてつながっている。
海底は、集合的無意識、神意識。
人間は神の分身であるから、誰でもログ1000になれる可能性をもっている。
104)
爽口之味、皆爛腸腐骨之薬。五分便無殃。快心之事、悉敗身喪徳之媒。五分便無悔。
爽口(ソウコウ)の味は、みな爛腸腐骨(ランチョウフコツ)の薬なり。五分なればすなわち殃(ワザワイ)いなし。
快心の事は、ことごとく敗身喪徳の媒(ナカダチ)なり。五分なればすなわち悔(クイ)なし。
人の口を喜ばせる美味は、(度を越しやすいので)、皆、胃腸をただらせ骨を腐らせる毒薬となる。ほどほどにして度を越さなければ、まあ害はない。また、人の心を喜ばせる楽しみごとは、(度を越しやすいので)、すべて身を誤り徳を失う原因となる。ほどほどにして度を越さなければ、まあ悔いはない。
何事もほどほどがよい。洪自誠は苦労人なので、楽しみを一切やめろと言っていない。
105)
不責人小過、不発人陰私、不念人旧悪。三者可以養徳、亦可以遠害。
人の小過を責めず、人の陰私を発(アバ)かず、人の旧悪を念(オモ)わず。
三者もって徳を養うべく、またもって害に遠ざかるべし。
人の小さな過失を責めたてることをせず、人のかくしておきたい私事をむりにあばきたてたりせず、人の過去の悪事をいつまでも覚えておくようなことをしない。この三つを実行すれば、自分の徳を養うことができるし、また、人の恨みを買う災害から遠ざかることができる。
ワイドショーや週刊誌は、己の利益のため、この逆をまい進している。
自分の事は隠す、他人の事は暴く、これは人間の本能なのだろうか。
短いので、原文でぜひ覚えてもらいたい。
「不責人小過、不発人陰私、不念人旧悪」
人の小過を責めず、人の陰私を発(アバ)かず、人の旧悪を念(オモ)わず。
106)
士君子持身不可軽。軽則物能撓我、而無悠闥チ定之趣。用意不可重。
重則我為物泥、而無瀟洒活溌之機。
士君子、身を持(ジ)するは軽くすべからず。軽くすれば、物よくわれを撓(タワ)めて、
悠闥チ定の趣なし。
意を用うるは重くすべからず。重くすれば、われ、物のために泥(ナズ)みて、
瀟洒活溌の機なし。
士君子という者は、身の振舞いについては軽々しくしてはならない。軽々しくすると、外物に振りまわされて、ゆったりとして落ち着いた風格がなくなってしまう。しかし、心の使い方は、重々しくしてはならない。重々しくすると、自分が物にこだわりすぎて、きっぱりとした元気なはたらきがなくなってしまう。
明末の儒者呂新吾の著した「呻吟語」の中に
@深沈厚重は是れ第一等の資質
A磊落豪雄は是れ第二等の資質
B聡明才弁は是れ第三等の資質
とある。現代は、頭が切れて弁が立つ、所謂「聡明才弁」タイプを一流の人物と勘違いしているようだが、これは三流。
107)
天地有万古、此身不再得。人生只百年、此日最易過。幸生其間者、
不可不知有生之楽、亦不可不懐虚生之憂。
天地に万古あるも、この身はふたたび得られず。人生ただ百年、この日最も過ぎやすし。
幸いにその間に生まるる者は、有生の楽しみを知らざるべからず、また虚生の憂いを
懐(イダ)かざるべからず。
天地は千秋万古、永遠に存在するが、この身は二度とは生まれては来ない。しかも、人生はただ百年にすぎないのに、月日のたつのは甚だしく早い。そこで、幸いにこの天地の間に生まれて来たからには、人間として生まれてきた命の楽しみを知らなければならないし、また、この人生をむなしく過ごしはせぬかという恐れを持たなければならない。
洪自誠は、儒教・道教・仏教を修めた人なので、輪廻転生は知っている。
テキストの訳者今井宇三郎さんは学者なので、人間の本質は魂である事を
明言出来なかったのだろう。解釈文を以下のように訂正したほうが良い。
「この身は二度とは生まれては来ない」→「この人生は二度とない」
108)
怨因徳彰。故使人徳我、不若徳怨之両忘。仇因恩立。
故使人知恩、不若恩仇之倶泯。
怨みは徳に因(ヨ)りて彰(アラ)わる。ゆえに人をしてわれを徳とせしむるは、
徳怨のふたつながら忘るるにしかず。仇は恩に因(ヨ)りて立つ。
ゆえに人をして恩をしらしむるは、恩仇のともに泯(ホロ)ぶるにしかず。
怨みは、一方に恩恵を施すことにより他方に現れるものである。だから人に恩恵を感じさせようとするよりは、恩恵も怨みも両方とも忘れさせる方がましである。また、仇は、一方に恩恵を施すことにより他方に現れるものである。だから、人に恩恵を感じさせようとするよりは、恩恵も仇も両方とも消え去るようにする方がましである。
エコヒイキと不公平は、怨みをかうので慎むこと。仮名論語「季氏第十六」、247ページの
最後の二行目を参照のこと。
109)
老来疾病、都是壮時招的。衰後罪孽、都是盛時作的。故持盈履満、君子尤兢兢焉。
老来の疾病(シッペイ)は、すべてこれ壮時(ソウジ)に招きしものなり。
衰後の罪孽(ザイゲツ)は、
すべてこれ盛時に作すもの。
ゆえに盈(エイ)を持し満を履(フ)むは、君子もっとも兢々(キョウキョウ)たり。
老後の病気は、すべて若い時に摂生しなかった報いであり、下り坂になってからの災いは、すべて盛んなときに無理をした罰である。そこで君子たるものは、羽振りのよい満ち足りたときに当たって、特に恐れ慎むことを要する。
私も皆さんも年を重ねているので、もう手遅れかもしれない。
110)
私恩不如扶公儀。結新知不如敦旧好。立栄名不如種隠徳。尚奇節不如謹庸行。
私恩を市(ウ)るは公儀を扶(タス)くるにしかず。新知を結ぶは旧好を敦(アツ)くするにしかず。
栄名を立つるは隠徳を種(ウ)るにしかず。奇節を尚(タット)ぶは庸行(ヨウコウ)を謹しむにしかず。
個人的な私恩を売るよりは、天下の正論に味方したほうがよい。新しい友人を求めるよりは、古い友人とのよしみをあたためた方がよい。はでな名を立てるよりは、かげで陰徳を施しておく方がよい。奇特な節義を尊ぶよりは、日常の行いを慎む方がよい。
戦後、日本人が失ったものは「矜持と孝行」である。矜持とは「独立自尊」・・・独立して自分の尊厳を保つこと。孝行とは「忠」と「孝」の事。国家の危機に際しては己の命をも投げ出す矜持を生み出す家制度を、GHQは恐れ、徹底的に破壊した。
孝行には「忠」と「孝」があり、おのおの三段階ある。
忠 @民族国家に真心を尽くす・・・祖国愛
A地域社会に真心を尽くす・・・郷土愛
B家族に真心を尽くす・・・・・・・家族愛
この3つがセットでようやく愛国心ができる。
童謡「ふるさと」には、この3つがうたい込まれている。
孝 @親が生きている時は「親孝行」・・・孝養の誠
A親が死んだ時は「葬儀」・・・・・・・・哀悼の誠
B親が死んだ後は「法事」・・・・・・・・敬虔の誠
・今の自分の存在を考える。祖先の誰か一人欠けても、今の自分は居ない。
・矜持を失った民族は自滅する。矜持は「教育勅語」にその12の徳目が書かれている。
教育勅語
朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニコヲ樹ツルコト深厚ナリ。
我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス。
爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シコ器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ。
是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン。
斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス。
朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其コヲ一ニセンコトヲ庶幾フ。
明治二十三年十月三十日
御名御璽
日本人かくあるべし!とする「12徳」であります。
一は、「父母に孝に」・・・・・・・親孝行しなさい。
二は、「兄弟に友に」・・・・・・・兄弟仲良く。
三は、「夫婦相和し」・・・・・・・夫婦仲睦まじく。
四は、「朋友相信じ」・・・・・・・友を信頼し合い。
五は、「恭儉己を持し」・・・・・・謙虚でつつましく。
六は、「博愛衆に及ぼし」・・・分け隔てなく広く人を愛し。
七は、「学を修め業を習い、以って智能を啓発し」・・・学問や仕事に励んで、
能力を磨きなさい。
八は、「徳器を成就し」・・・・・・徳を磨きなさい。
九は、「進んで公益を広め」・・公共の利益を推進し。
十は、「世務を開き」・・・・・・・・新たな時代を切り拓き。
十一は、「常に国憲を重んじ、国法に遵い」・・・法治国家として法律を遵守し。
(同じ年に大日本帝国憲法が施行された)
十二は、「一旦緩急あれば義勇公に奉じ」・・・
国家の非常時には正義の為に勇気を奮って
国家及び国民の、安・富・尊・栄を死守しなさい。
どうですか? どれも当たり前のことばかりでしょう!?
そして、最後に「朕爾臣民と倶に拳々服膺して、咸(みな)その徳を一にせんことを庶幾(こいねがう)」と結んでいる。つまり、この勅語は、天皇が国民に一方的に推しつけるものではなく、天皇自ら国民とともに実践して行きます!と誓っている訳です。これの一体どこがいけないというのでしょうか? 何が問題なのでしょうか?
111)
公平正論不可犯手。一犯則貽羞万世。権門私竇不可着脚。一着則点汚終身。
公平正論は手を犯すべからず。ひとたび犯せば羞(ハジ)を万世に貽(ノコ)す。
権門私竇(シトウ)は脚(アシ)を着くべからず。ひとたび着くれば、終身を点汚(テンオ)す。
公平無私な意見や道理の正しい議論に対しては、さからってはならない。さからったが最後、恥を末代にまで残す結果となる。また権勢の盛んな屋敷や私利私欲の者どものたまり場に対しては、足をふみ入れてはならない。足をふみ入れたが最後、一生涯の汚れとなる。
ロッキード裁判で、渡辺省一は「コーチャン証言は反対尋問がないので、証拠として無効」と
訴えたが、立花隆は朝日ジャーナルなどマスコミを巻き込み徹底的に反対した。最高裁は
己の非を認めていたのか、田中角栄が死ぬまで、結論を出さなかった。
後日、立花隆は取材をうけたさい「当時はあのように言わなければ、世の中に受け入れられ
なかった」と述べた。
112)
曲意而使人喜、不若直躬而使人忌。無善而致人誉、不若無悪而致人毀。
意を曲(マ)げて人をして喜ばしむるは、躬を直くして人をして忌ましむるにしかず。
善なくして人の誉れを致すは、悪なくして人の毀りを致すにしかず。
自己の信念をまげてまでして人を喜ばせるよりは、自身の行いを正しくして、人に嫌われる方がましである。自分の行いによいこともないのに人に褒められるよりは、身に悪いことをした覚えがなくて、人にそしられる方がましである。
意を曲げて人をして喜ばしむる典型は、大江健三郎か立花隆であろうか。
組織体でいえば、社会保険庁。
日本人の精神的支柱は「廉潔」である。
「廉潔」は独立自尊の精神を意味する「矜持」と、はじる「羞恥」からなる。
矜持も羞恥も「忠」と「孝」が両輪であるが、矜持は陽、羞恥は陰の性質をもつ。
恥の漢字はいろいろある。「羞」は羊(ひつじ)と丑(うし)からなる。頭が羊で体は丑。目に見える醜いさまをいう。恥は、自分の心の声を耳をそばだてて聞くことで、内面的なはじを意味する。
113)
処父兄骨肉之変、宜従容不宜激烈。遇朋友交游之失、宜剴切不宜優游。
父兄骨肉の変に処しては、よろしく従容たるべく、よろしく激烈なるべからず。
朋友交游の失に遇いては、よろしく剴切なるべく、よろしく優游たるべからず。
親兄弟に異変がおきたときには、できるだけ落ち着いて対処するのがよく、決して感情をたかぶらせてとり乱してはならない。(これに反して)、親しい友人や仲間に過失を見つけたときには、できるだけ適切な忠告をするのがよく、決してぐすぐすして見過ごしてはならない。
ふつうは、逆の行動をとる場合が多い。親兄弟にはずけずけと意見をし、友人には嫌われたくないとの思惑から、なあなあですませる。
114)
小処不滲漏、暗中不欺隠、末路不怠荒。纔是個真正英雄。
小処に滲漏せず、暗中に欺隠せず、末路に怠荒せず、わずかにこれ個の真正の英雄なり。
小事だからとて手抜かりをするようなことはなく、人が見ていないからとて欺きかくすことはなく、落ちめだからとて投げやりになることはない。このようであってこそ、初めてひとかどの人物である。
これが英雄の3条件
@細かな気配りができるか
A己を欺かないか
B逆境に陥った時に踏ん張れるか
今年で還暦を迎えたが、この条件に照らし合わせると、60年間<冷や汗の連続だったように思う。
衛の大夫、蘧伯玉の生き方を見習いたい。、「行年五十にして四十九年の非を知る。(五十になった時、それ迄の四十九年間を振り返って深く反省した)」、「六十にして六十たび化す。(六十になった時は、六十回も生まれ変わったように生新な人であった)」
115)
千金難結一時之歓、一飯竟致終身之感。蓋愛重反為仇、薄極翻成喜也。
千金も一時の歓を結びがたく、一飯もついに終身の感を致す。
けだし愛重ければかえって仇となり、薄極まりてかえって喜びと成るなり
大金を与えても、その場かぎりの喜びも得られないこともあり、(反対に)、ほんのわずかな恵みも、案外、一生の恩を感ずることもある。思うに、愛情も重すぎると、かえって仇となることがあり、それがきわめて薄くても、かえって時には喜ばれることもあるものである。
商業界で紹介された「てんびんの詩」がすばらしい。 http://www.tenbinnouta.co.jp/
子供を甘やかして育てると、物分りのの良い親として喜ばれるかもしれないが、社会に出てから使い物にならないので、本人のためにならない。子供に厳しくすると、一時的には嫌われるが、社会に出ると、他人から認められる。
現在問題になっている「ニート」の原因は、過保護を通り越した、母親の過干渉である。何事にも100%依存する子供となっている。
対策は、子供を農家に預け、家畜や作物の世話をさせる事。家畜や植物は言葉を発しない。今までは親に依存していたが、今度は家畜や植物から頼られる立場となって、依存症が治る。
116)
蔵巧於拙、用晦而明、寓清之濁、以屈為伸。真渉世之一壷、蔵身之三窟也。
巧を拙に蔵し、晦を用いて明らかにし、清の濁に寓し、屈をもって伸をなす。
真に世を渉るの一壷、身を蔵するの三窟なり。
非凡な才能を内にかくして拙いようにふるまい、すぐれた知恵をくらましながらも明察することを失わない。清節を守りながらも俗流に身をまかせ、身をかがめるのはやがて身を伸ばさんがためである。このような態度が、真に世間の海を渡る上での貴い浮き袋であり、わが身を安全に保つ隠し場所である。
老子56章に
挫鋭解紛 えいをくじき、ふんをとき
和光同塵 ひかりをわして、ちりとおなじゅうす
仏教では
漏尽通力
117)
衰颯的景象、就在盛満中。発生的機緘、即在零落内。
故君子居安宜操一心以慮患、処変当堅百忍以図成。
衰颯の景象は、すなわち盛満のうちにあり、発生の機緘は、すなわち零落のうちにあり。
ゆえに君子は安きに居りてはよろしく一心を操りてもって患を慮るべく、
変に処してはまさに百忍を堅くしてもって成を図るべし。
ものごとの衰えるきざしは、最も盛んで隆々たるときすぐにもう始まり、新しい芽生えのはたらきは、葉の落ち尽くしたとき早速に起きているのである。そこで君子たるものは、無事平安なときには、本心を堅く守り通して他日の患難に備えるべきであり、また異変に対処したときには、あらゆる忍耐を重ねてあくまでも成功することを図るべきである。
備えあれば憂いなし
118)
驚奇喜異者、無遠大之識、苦節独行者、非恒久之操。
奇に驚き異を喜ぶは、遠大の識なく、苦節独行は、恒久の操にあらず。
珍しいものに感服したり、変わったことを喜ぶような人は、(けっきょく浅薄であって)、遠大な見識を持っていない。また、度を過ぎて節操を立て、世にそむいて独行するような人は、(けっきょく常道ではないので)、長続きする操守ではない。
奇に驚き異を喜ぶ・・・吉本興業のお笑い番組
苦節独行・・・・・・・・・マルクス主義に凝り固まった人々
119)
当恕火慾水正騰沸処、明明知得、又明明犯着。知的是誰、犯的又是誰。
此処能猛然転念、邪魔便為真君矣。
恕火慾水のまさに騰沸するところに当たりて、明々に知得し、また明々に犯着す。
知るものはこれ誰ぞ、犯すものはこれ誰ぞ。このところよく猛然として念を転ずれば、
邪魔すなわち真君とならん。
烈火のような怒りと洪水のような情欲が沸き立ったときに、わが心にはそれとはっきり知っていて、また知っていながらつい犯してしまう。このとき、そのはっきりと知る者は誰であるのか、また知っていながら犯してしまうものは誰であるのか。ここで忽然として思い返すことができれば、その邪悪な魔性のものは退散して、忽ち良心が現われて来る。
天は人に、己の心(精神)を統御する完全な自由を与えた。以下の「孔子曰く、命知らざれば、以って君子たること無きなり・・・」の章を参照
gyou-20.htm
ルドルフ・シュタイナーは、人間の本性について、以下のように述べている。
思考・・・考えている時、人は完全に意識している。
感情・・・感じている時、人はほどほどに意識している。
意志・・・意志を働かせている時、人は意識していない。
理屈では理解しているが、人は別の行動をとることが多い。意志を働かせると、意識とは別の行動の行動をとる。
120)
毋偏信而為奸所欺。毋自任而為気所使。毋以己之長而形人之短。
毋因己之拙而忌人之能。
偏信して奸の欺くところとなることなかれ。自任して気の使うところとなることなかれ。
己れの長をもって人の短を形わすことなかれ。己れの拙によりて人の能を忌むことなかれ。
片一方だけを信用して、悪だくみする男にだまされてはならぬ。自信過剰になって、から元気にふりまわされてはならぬ。自分の長所を挙げることで、かえって他人の短所を表面に現わすようになってはならない。自分の無能さによって、かえって他人の才能に反感を持つようになってはならない。
偏信して・・・・・・・・・コムスンか
己れの長をもって・・・宮沢喜一か。東大法学部出身の彼は、必ず「どこのご出身ですか」と
質問し、東大法学部以外の人間を差別した。
己れの拙によりて・・・社民党か。ひがみ根性丸出しである。
121)
人之短処要曲為弥縫。如暴而揚之、是以短攻短。人有頑的要善為化誨。
如忿而疾之、是以頑済頑。
人の短処は曲さに弥縫をなすを要す。もし暴わしてこれを揚ぐれば、これ短をもって短を攻むるなり。人、頑あるは善く化誨をなすを要す。もし忿りてこれを疾まば、これ頑をもって頑を済うなり。
人の短所は、うまいぐあいにとりつくろってやる必要がある。もしそれをあばき立てて見せると、これは自分の短所をもって人の短所を責めるものであって、とても改めさせることはできない。また、がんこな点のある人は、うまく教えさとす必要がある。もしそれを怒って憎むと、これは自分のがんこをもって人のがんこを一層つのらせるもので、とても救うことはできない。
八中練・・・高野大造作 ← 忘れない事
@ 一疑一信 中練知 (知性)
A 一喜一憂 中練感 (感性)
B 一虚一実 中練識 (見識)
C 一勝一負 中練膽 (膽力)
D 一進一退 中練機 (機略)
E 一長一短 中練個 (個性)
F 一顰一笑 中練相 (人相)
G 一苦一楽 中練人 (人物)