後集31項
矜名、不若逃名趣。練事、何如省事閨B
名に矜るは、名を逃るるの趣あるにしかず。事を練るは、なんぞ事を省くの閧ネるにしかん。
名声を世に誇るのは、できるだけ名声を逃れることの奥ゆかしさには及ばない。また、ものごとに練達になるよりは、できるだけ余計なことを減らすことの方が、はるかに余裕がある。
「器用貧乏」という言葉がある。何をやらせてもそこそここなすので、
一見、万能選手のように見える。しかし、玄人の前にでると、
影がうすくなり、恥をかく。
後集32項
嗜寂者、観白雲幽石而通玄、趨栄者、見清歌妙舞而忘倦。
唯自得之士、無喧寂、無栄枯、無往非自適之天。
寂を嗜む者は、白雲幽石を観て玄に通じ、栄に趨る者は、清歌妙舞を見て倦むを忘る。
ただ自得の士は、喧寂なく、栄枯なく、往くとして自適の天にあらざるはなし。
静寂を好む者は、(山水に逃れて)、白雲や幽石に見入って玄妙な道にひたることを楽しむし、栄華にはしるものは、(はなやかな所に行って)、清らかな歌やたえなる舞に見とれて飽きることを知らない。ただ道を体得した人だけは、環境の騒がしさや静かさに関係せず、また時世の栄枯盛衰にも関係なく、いつどこへ身を置いても、わが心に適した自在の天地でないところはない。
孔子が述べた「六十二して耳従う」という心境は「変通自在」なのであろう。
「七十にして心の欲する所に従えども、矩を踰えず」は融通無礙。
儒教的悟りの階梯を参照。
satori.htm
守・破・離についても再確認すること。
守は基本をマスターする。破は応用を始める。離は応用ばかり追求すると、
自分勝手な境地となるので、応用から離れて基本に戻ること。
後集33項
孤雲出岫、去留一無所係。朗鏡懸空、静躁両不相干。
孤雲岫を出ずる、去留一も係わるところなし。朗鏡空に懸る、静躁ふたつながら相干さず。
一ひらの白雲が静かに山の洞穴から出ると、(全く無心なようすで)、去るも止まるも、少しもとらわれることがない。また、明月が空にかかると、(くまなく下界を照らして)、下界の静かさも騒がしさも、双方ともに関係がない。
後集34項
悠長之趣、不得於醲釅、而得於啜菽飲水。
惆悵之懐、不生於枯寂、而生於品竹調絲。
固知濃所味常短、淡中趣独真也。
悠長の趣は、醲釅(のうげん)に得ずして、菽の啜り水を飲むに得。
惆悵の懐いは、枯寂に生ぜずして、竹を品し絲を調ぶるに生ず。
まことに知る、濃所の味はつねに短く、淡中の趣はひとり真なるを。
心ゆく悠長な趣は、味の濃い美酒を飲んでいる(富める暮らしの)中からは得られないで、むしろ豆のかゆをすすり水を飲む(貧しい暮らしの)中から生まれるものである。また、もののあわれを感じるのは、干からびた静けさの中からは生まれないで、むしろ笛を吹き糸を調える素朴な音色から生まれるものである。これから見ても、濃厚な味わいは、常に長く続くものではなくして、ただ淡泊な味わいの中に見られる趣きだけが、真実なものであることがわかる。
後集35項
禅宗曰、饑来喫飯倦来眠。
詩旨曰、眼前景致口頭語。
蓋極高寓於極平、至難出於至易、有意者反遠、無心者自近也。
禅宗に曰く、「饑え来たれば飯を喫し、倦み来たれば眠る」。
詩旨に曰く、「眼前の景致、口頭の語」。
けだし極高は極平に寓し、至難は至易に出で、有意のものはかえって遠く、
無心のものはおのずから近きなり。
禅の極意を説いて言う、「腹がへれば飯を食らい、腹がくちくなれば眠る」と。また、詩の極致を説いて言う、「ただ目前の景色を写し、ふだん用いる言葉で述べる」と。思うに、(禅において)、最も高遠な道は、最も平凡なことの中に宿っており、最も至難な理は、最も平易なことの中から出てくる。また、(詩において)、ことさら意を用いたものは、反って真実に遠ざかり、無心なものの方が、反って自然と真実に近いものである。
後集36項
水流而境無声、得処喧見寂之趣。山高而雲不碍、悟出有入無之機。
水流れて境に声なし、喧に処して寂を見るの趣を得ん。
山高くして雲碍えず、有を出で無に入るの機を悟らん。
大河は漫々たる水をたたえて流れていても、そのあたりでは水の声がしない。(この理を観ずれば)、騒がしい所で静かさを見出す妙趣を会得するであろう。また、高山はいかに高くそびえていても、白雲の去来するのをさまたげない。(この理を観ずれば)、有心の域を越えて無心の境に入る妙機を悟であろう。
後集37項
山林是勝地、一営恋便成市朝。書画是雅事、一貪癡便成商賈。
蓋心無染著、欲界是仙都。心有係恋、楽境成苦海矣。
山林はこれ勝地、ひとたび営恋すれば、市朝と成る。
書画はこれ雅事、ひとたび貪癡すれば、商賈と成る。
けだし心に染著なければ、欲界もこれ仙都。心に係恋あれば、楽境も苦海と成る。
山林はもと、隠棲する地としてすぐれたところではあるが、そこに一度とりこになってしまうと、(いろいろと設備に凝り出したりして)、町なかに住むのと全く変わらなくなる。また、書画はもと、鑑賞する物としてみやびやかなことではあるが、それを一度むさぼり出すと、(掘出し物をしようなどと)、骨董屋と全く変わらなくなる。思うに、心に執着するところがなければ、この俗世間もそのまま仙郷となるが、心に愛着するものがあると、安楽郷もたちまち苦海となる。
後集38項
時当喧雑、則平日所記憶者、皆漫然忘去。
境在清寧、則夙昔所遺忘者、又恍爾現前。
可見静躁稍分、昏明頓異也。
時、喧雑に当たれば、平日記憶するところのものも、みな漫然として忘れ去る。
境、清寧にあれば、夙昔遺忘するところのものも、また恍爾として前に現わる。
見るべし、静躁やや分るれば、昏明とみに異なるを。
時、喧雑に当たれば、則ち平日記憶するところのものも、皆漫然として忘れ去る。境、清寧に在れば、則ち夙昔遺忘するところのものも、また恍爾として現前す。見るべし、静躁稍分るれば、昏明頓に異なるを。
後集39項
盧花被下、臥雪眠雲、保全得一窩夜気。
竹葉杯中、吟風弄月、躱離了万丈紅塵。
盧花被下、雪に臥し雲に眠れば、一窩の夜気を保全し得。
竹葉杯中、風に吟じ月を弄べば、万丈の紅塵を躱離しおわる。
せんべいぶとんにくるまって、雪の中、雲の上の山小屋に眠ると、室中に満ちた霊気による元気を、十分に回復し保つことができる。また、竹葉の酒杯を挙げて、清風に吟じ明月を眺めると、塵にまみれた俗世間を、すっかり抜け出ることができる。
後集40項
袞冕行中、着一藜杖的山人、便増一段高風。
漁樵路上、著一袞衣的朝士、転添許多俗気。
固知濃不勝淡、俗不如雅也。
袞冕行中、一の藜杖の山人を着くれば、すなわち一段の高風を増す。
漁樵路上、一の袞衣の朝士を著くれば、うたた許多の俗気を添う。
まことに知る、濃は淡に勝たず、俗は雅にしかざるを。
高位高官たちの行列の中に、一人のあかざの杖をつく隠士を交えると、それで一段と高尚な趣を増す。(これに反し)、漁夫や木樵の往来する路上に、一人の礼服の役人を交えると、ずいぶんと俗気を増す。してみると、華美なものは淡泊なものには及ばないし、鄙俗なものは高雅なものには及ばないということが、よくわかる。
後集41項
出世之道、即在渉世中。不必絶人以逃世。
了心之功、即在尽心内。不必絶欲以灰心。
出世の道は、すなわち世を渉るなかにあり。必ずしも人を絶ちてもって世を逃れず。
了心の功は、すなわち心を尽くすうちにあり。必ずしも欲を絶ちてもって心を灰にせず。
俗世間を超越する方法は、この俗世間を渡る生活そのものの中にあるのであって、かならずしも世人とまじわりを絶って山林に隠れる必要はない。また、見性悟道の工夫は、この自己の本心をきわめ尽くすことそのことの中にあるのであって、かならずしも欲を絶ち心を死灰にする必要はない。
後集42項
此身常放在闖、栄辱得失、誰能差遺我。
此心常安在静中、是非利害、誰能瞞昧我。
この身、つねに闖に放在せば、栄辱得失、たれかよくわれを差遺せん。
この心、つねに静中に安在せば、是非利害、たれかよくわれを瞞昧せん。
此の身を、常に物にとらわれない余裕のある立場に放しておけば、世上の栄辱や得失をもって、たれがわたしの身を追いやることができようぞ。また、此の心を、常に事に乱されない静かな境地に安んじるようにしておけば、世上の是非や利害をもって、たれがわたしの心をだましくらますことができようぞ。
後集43項
竹籬下、忽聞犬吠鶏鳴、恍似雲中世界。芸窓中、雅聴蝉吟鴉噪、方知静裡乾坤。
竹籬のもと、たちまち犬吠鶏鳴を聞けば、恍として雲中の世界に似たり。
芸窓のうち、まさに蝉吟鴉噪を聴けば、まさに静裡の乾坤を知る。
竹垣のあたりで、ふと、犬が吠え鶏が鳴く声が聞こえてくると、ついうっとりとして白雲の仙郷にいるように思われる。また、書斎の中にいて、いつも、蝉が鳴きからすが騒ぐのを聴いていると、(その自然な歌声で)、ついそれによって閑静な別天地にあることがわかる。
後集44項
我不希栄、何憂乎利禄之香餌。我不競進、何畏乎仕官之危機。
われ栄を希わずんば、なんぞ利祿の香餌を憂えん。
われ進むを競わずんば、なんぞ仕官の危機を畏れん。
我に栄達を望む欲望がなければ、どうして利祿の甘いえさに釣られることを憂えようか。また、我に栄進を競う気持がなければ、どうして宮仕えの危ないはめに陥ることを恐れようか。
世の中の全員がこのように「調和一辺倒」なら、社会の進歩はなくなる。
歯止め
「調和」に偏ると 秩序⇒平穏⇒║⇒安逸⇒停滞⇒衰退⇒堕落
歯止め
「進歩」に偏ると 創意工夫⇒切磋琢磨⇒║⇒競争⇒闘争⇒戦争⇒崩壊
調和は安逸の前に、進歩は競争にいたる前に歯止めが必要。
後集45項
徜徉於山林泉石之閨A而塵心漸息、夷猶於詩書図画之内、而俗気潜消。
故君子雖不玩物喪志、亦常借境調心。
山林泉石の閧ノ徜徉(しょうしょう)して、塵心ようやく息み、
詩書図画のうちに夷猶して、俗気にひそかに消ゆ。
ゆえに君子は、物を玩びて志を喪わずといえども、またつねに境を借りて心を調う。
山深く林静かな所や泉わき石そばだつ所などを逍遙すると、俗塵に汚れた心も、だんだんに洗い流される。また、詩書絵画をゆっくりと楽しんでいると、身にしみついた俗気も、いつしか消え去る。そこで、君子たるものは、道楽にふけって本心を見失うことを戒めねばならぬが、しかしまた、常々、(俗塵に汚され、俗化しないように)、外境を借りて本心を調えることを心掛けるがよい。
人間は環境の生き物である。出来た人間でも、朱に交わればピンク色程度になる。
自然環境は人間にすばらしい効果を及ぼす。非行・引き籠りなどの少年を、牧場や
山奥で生活させるとすぐに回復するとのこと。
後集46項
春日気象繁華、令人心神駘蕩、不若秋日雲白風消、蘭芳桂馥、
水天一色、上下空明、使人神骨倶清也。
春日は気象繁華、人をして心神駘蕩ならしむるも、
秋日の雲白く、風消え、蘭芳しく桂馥い、
水天一色、上下空明、人をして神骨ともに清らかならしむにしかず。
春の日は大気のようすもはなやかで、人の心をゆったりとのどかにさせてくれる。しかし、秋の日の雲は白く風は清く、蘭はかんばしく桂はにおい、昼は水も空も同じ一色に澄みわたり、夜は月光が空にも水にも冴えて、人の身をも心をも、すがすがしくさせるのには、とうてい及ばない。
春は秋に及ばないのであろうか。神は四季を創ったが、その際、それぞれの季節に
個性を与えたが、優劣をつけて創ったのではない。それでも秋が良いというならば、
それは洪自誠の個性であろう。
後集47項
一字不識、而有詩意者、得詩家真趣。一偈不参、而有禅味者、悟禅教玄機。
一字識らずして、而も詩意あるは、詩家の真趣を得。
一偈参せずして、而も禅味あるは、禅教の玄機を悟る。
たとい文字は一字も知らなくとも、詩情を解する者は、詩の真のおもしろさを理解する。また、たとい偈頌は一つも受けていなくとも、禅の妙味を理解する者は、禅の教えの極意を悟る。(文字を巧みに並べることが真の詩ではなく、偈頌をもてあそぶことが真の禅ではないことをいう)。
詩や文学は古代神話がルーツといわれている。文字がない時代、それらは口伝で
つたえられた。
禅には「不立文字」や「教下別伝」という言葉がある。
文字は知らなくとも歌心のある人はいる。経典は知らなくても信仰心の厚い人もいる。
後集48項
機動的弓影疑為蛇蝎、寝石視為伏虎。此中渾是殺気。
念息的石虎可作海鷗、蛙声可当鼓吹。触処倶見真機。
機動くは、弓影も疑いて蛇蝎となし、寝石も視て伏虎となす。このうちすべてこれ殺気なり。
念息むは、石虎も海鷗となすべく、蛙声も鼓吹に当つべし。触るるところ、ともに真機を見る。
心が動揺している者は、弓の影の映る見ては蛇かと疑い、草むらに横たわる石を見ては伏した虎かと見違える。そこには、見るものすべてが殺気に満ちている。(これに反して)、心が落ち着いている者は、暴虐な石虎のような男をも、海のかもめのように従順にさせることができ、騒がしい蛙の鳴き声をも、つづみや笛のように美しい音楽として聴くことができる。そこには、触れるものすべてが真実なはたらきを現す。
疑心暗鬼の言葉どおり、疑心は暗鬼を生ずる。さらに疑心が疑心を呼びよせる。
人々の間に対立を生じさせ、疑心をあおることを常套手段としてきた政治団体もある。
後集49項
身如不繋之舟、一任流行坎止。心似既灰之木、何妨刀割香塗。
身は繋がざるの舟のごとく、一に流行坎止に任す。
心は既灰の木に似て、なんぞ刀割香塗を妨げん。
この身は、あたかもつなかざる捨て小舟のようにして、流れるも止まるも、任せきりにする。また、この心は生気のなくなった木のようにして、切られるも塗られるも、少しもさまたげることはない。
執着するなという事であるが、事業をしていれば必ず自助努力が必要である。
やれることはやり尽くす。その上で、結果は神に託すこと。
後集50項
人情聴鴬啼則喜、聞蛙鳴則厭、見花則思培之、遇草則欲去之。
但是以形気用事。若以性天視之、何者非自鳴其天機。非自暢其生意也。
人情、鴬啼を聴いてはすなわち喜び、蛙鳴を聞いてはすなわち厭い、
花を見てはすなわちこれを培わんことを思い、草に遇いてはすなわちこれを去らんと欲す。
ただこれ形気をもって事を用うるのみ。
もし性天をもってこれを視れば、何者か、おのずからその天機を鳴らすにあらざん。
おのずからその生意を暢ぶるにあらざらん。
人情としては、鶯が美しい声で鳴くのを聴くと喜び、蛙が騒がしく鳴くのが聞こえるといやになる。また、美しい花を見ると栽培したいと思い、むさくるしい雑草を見付けると抜きたいと思うものである。だか、これはただ表面的な見かけからだけで、差別したものである。もし、その天性という面から見れば、どれ一つとして、(鶯も蛙も)、天のはたらきによる声で、自然に鳴いていないものがあろうか。どれ一つとして、(花も草も)、天の万物を発生する生意で、自然に生育していないものがあろうか。
このような心境に達すれば、人間卒業であろう。
菜根譚の各章は、年代別に編纂されているわけではない。年代順に並べ替えてから
読むと、洪自誠の精神の変化が分かり、またあたらしい発見があるかもしれない。
ただ、文字の奴隷となってはいけない。書かれていない事を行間からよみとることが必要。
「鉛槧の傭」はダメ。
後集51項
髪落歯疎、任幻形之彫謝、鳥吟花咲、識自性之真如。
髪落ちて歯疎らにして、幻形の彫識に任せ、鳥吟じ花咲いて、自性の真如を識る。
人は老年になるにつれ、髪は抜け歯もまばらになるが、しょせん、仮幻の肉体であるから、それはむしぼみ滅ぶにの任せておくしかない。しかし、小鳥が楽しげに歌い、花が美しく咲くのを見て、この肉体に宿る一切万有の真性なるものを悟ることができる。
「諸行無常」の世にあって、変わらないものを「真如実相」という。
真なる実在とは魂のこと。
すべての魂には神の種が宿されている。・・・「一切衆生悉有仏性」
すべての存在は神の意識が個別化したもの。
人霊ならばLog1000の種を宿す。
自由意思が与えられているので、みなさんは人間を選択し、いまここにいる。
地・水・火・風・空を自由にあやつれる人を仙人という。実際にいるらしい。