〔原文〕
子日、古者民有三疾。今也或是之亡也。古之狂也肆、今之狂也蕩。
古之矜也廉、今之矜也忿戻。古之愚也直、今之愚也詐而已矣。
〔読み下し〕
子日わく、古者民に三疾有り。今や或は是れ亡きなり。古の狂や肆、今の狂や蕩。古の矜や廉、今の矜や忿戻。古の愚や直、今の愚や詐のみ。
〔通釈〕
孔子云う、「昔の人達だっていくつも欠点はあったが、その反面いい所も併せ持っていた。今の人達は欠点ばかりでいい所がないようだ。喩えば、昔も大ボラ吹きはいたが、反面それなりにしまりがあった。今の大ボラ吹きは云いっ放しの垂れ流しだ。昔も一刻者はいたが、その反面律儀さを持っていた。今の一刻者は徒(いたずらに)に突っ張りあって人と争うばかりだ。昔も能天気はいたが、反面開けっ広げの素直さを持っていた。今の能天気は軽薄な上に嘘までつく」と。
〔解説〕
エッ?これ2500年前の話し?今のことじゃないの!?と思われた方、多いのではないでしょうか。「狂(きょう)」とは正確に云えば、志は大きいが実行が伴わない夢想的理想主義者のこと、「矜(きょう)」とは頑なに節義を守り通そうとするプライドの高い人、「愚」とは文字通り愚か者のことですが、分かり易いように「狂」を大ボラ吹き、「矜」を一刻者、「愚」を能天気と訳してみました。
孔子は、垂れ流しのホラ吹き、喧嘩腰の一刻者、嘘つきの能天気にはほとほと嫌気がさしていたのでしょう、泰伯第八203章でも、「狂にして直ならず、侗(どう・無邪気)にして愿(げん・真面目)ならず、悾悾(こうこう・馬鹿正直)にして信(誠実)ならずんば、吾は之を知らず」と述べている。
皆さんの身の周りにも一人や二人いるのではないでしょうか?懲りもせずホラを吹いて、相手にされなくなるとホラ話しを聞いてくれそうな人を探して渡り歩く人、安っぽい正義感を振り回して突っかかって来る人、お人好し面してちゃっかりしている人。いるでしょう? ただこれ、本人は少しも気付いていないんだね、自分がホラ吹きだの、一刻者だの、ちゃっかり屋だってことを。だから、嫌がられていることにも気がつかないで、しゃあしゃあとしていられる。
私達は、自分は客観的にものごとを見ているつもりでいるけれど、大なり小なり誰でも目にウロコを付けて見ているんですね。特に自分のこととなると、二倍〜三倍分厚いウロコを付けて見ている。ですから、ズバリと直言してくれる友が必要なんです、自分のこととなると明き盲だから。直言とは、口に苦く耳に痛いから効き目があるのであって、口に甘く耳に心地良かったら何の効き目もありません。口に甘く耳に心地良いのは直言とは云いません、オベンチャラと云うんです。直言を疎(うと)んずるようになったら、焼きが回ったと思って、そろそろ隠退の準備をした方が宜しい。
〔子供論語 意訳〕
孔子様がおっしゃった、「誰にだって欠点の一つや二つはあるものだ。昔の人達は自分の欠点を指摘されると、ちゃんとそれを認める大らかさがあったが、今の人達は言い訳をしたり怒ったりする。たとえば、昔の人は、できもしないことをいった時は、後でちゃんと反省して謝ったが、今の人は、云えば云いっ放しで反省もしなければ謝りもしない。昔の頑固者は自分が間違っていればいさぎよく認めたが、今の頑固者は間違いを指摘されると喧嘩腰でつっかかる。昔のお人好しは馬鹿正直であったが、今のお人好しはオタメゴカシのお人好しだ」と。
〔親御さんへ〕
「御為倒し」(おためごかし・表向きは相手の爲になるように見せかけて、実は自分の利益の爲にすること)などと云う言葉も、最近めっきり聞かれなくなりましたね。小学国語辞典に載っていない所を見ると、今は死語になってしまったのでしょう、余りにもオタメゴカシの商業主義が行き渡り過ぎて、当たり前になってしまいましたから。
「ギブ・アンド・テイク(相互利益)」とはっきり云えば良いものを、「カスタマー・サティスファクション(顧客満足・CS)」などと表現するものだから、益々ややこしくなって来る。孔子は「御為倒し」を嫌った人ですが、「思わせ振り(大した意味も無いのに意味があるように見せかけて期待を抱かせる)」ことも嫌っていたようです。次章では学而第一003章と同じ文章をわざわざ重出させて持ってきていますが、編者は「巧言令色、鮮し仁」とは、「御為倒しと思わせ振りな人間は、ロクなものではない!」と云いたかったのでしょう。
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