前集・162〜191

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2008 −6−14 162章から169章
2008 −7−12 170章から176章
2008 −9−13 177章から183章
2008−10−11 183章から191章

前集
162

遇故旧之交、意気要愈新。処隠微之事、心迹宜愈顕。待衰朽之人、恩礼当愈隆。


故旧の交わりに遇いては、意気いよいよ新たなるを要す。
隠微の事に処しては、心迹よろしくいよいよ顕わすべし。
衰朽の人を待には、恩礼まさにいよいよ隆んにすべし。

昔なじみの友だちには、ますます気持を新たにして、親しむようにするがよい。人の目につかないことには、ますます心持を公明正大にして、対処していくようにするがよい。くだり坂の人には、ますます恩恵と礼遇を盛んにして、接していくようにするがよい。


  この章は、洪自誠交際術の極意である。
 
   関連した内容が論語にもある。
 http://rongo.jp/kaisetsu/rongo.php?109,1
                     http://rongo.jp/kaisetsu/c_rongo.php?109,1

   「仁・義・礼・智・信」の五徳はすべてが仁ベース。すべての徳の基礎は仁。
  仁にも階梯がある。詳しくはこちらを参照。
   satori.htm
  第三段階の「忠恵」を必達目標としよう。第四段階「寛恕」を努力目標としよう。
 
前集163
勤者敏於徳義、而世人借勤以済其貧。倹者淡於貨利、而世人仮倹以飾其吝。
君子持身之符、反為小人営私之具矣。
惜哉。


勤は徳義に敏し、而して世人は勤を借りてもってその貧を済う。
倹は貨利に淡し、而して世人は倹を仮りてもってその吝を飾る。
君子身を持するの符、かえって小人、私を営むの具となる。惜しいかな。

勤勉とはもと道徳の実践にはげむことである。それなのに世人は生活のために働くことであると思っている。倹約とはもと財貨に淡泊なことである。それなのに世人は逆に自分のけちんぼうを飾る口実にしている。君子が身を保って行くための勤倹という守り札は、かえって小人が私欲をはかる道具となってしまっている。まことに惜しいことである。

  
勤勉とは、道徳の実践にはげむこと。倹約とは、財貨に淡泊なこと。
  昔の日本では当然であった。ただ、戦後のアメリカの占領政策によって、
  勤勉・節約の意味が変わってきたようだ。

  人生75年とすると、25年は寝ている。25年は飲んで食っている。残りの25年が
  人間として創造的な活動に関わって輝いている時間かもしれない。

  デカルトの「人間機械論」、テーラーの「科学的管理法」は人類を幸せにしない。


前集164項)
憑意興作為者、随作則随止。
豈是不退之輪。
従情識解悟者、有悟則有迷。
終非常明之灯。

意の興るに憑りて作為するは、随ってなせば随って止む。あにこれ不退の輪ならんや。
情の識るに従って解悟するは、悟ることあれば迷うことあり。ついに常明の灯にあらず。

気がむけば行なうのでは、一方で行なえば一方で止めることになるので、これではどうして勇猛に前進することなど望めようか。また、情の動くままに悟るのでは、一時は悟ってもすぐまた迷うことになるので、これでは永久の悟りなど望めはしない。


  まるで自分の事を指摘されているようである。
  チャランポランは一番ダメということか。

前集165
人之過誤宜恕、而在己則不可恕。
己之困辱当忍、而在人則不可忍。

人の過誤はよろしく恕すべし、而して己れにありてはすなわち恕すべからず。
己れの困辱はまさに忍ぶべし、而して人にありてはすなわち忍ぶべからず。

他人のあやまちは許すがよいが、しかし自分のあやまちは決して許してはならない。また、自分のつらいことはじっと耐え忍ぶがよいが、しかし他人のつらいことは決して見逃してはならない。

   仁の第四段階「寛恕」の解説のような感じがする。 慈悲の心がないものはダメ。
  「慈」とは、かわいそうと思う気持ち。「悲」とは、ほっておかずに助けてあげようと
  いう気持ち。孟子は「惻隠の心」といった。「人にはみな忍びざるの心あり」。

  凡人は自分が傷つけられる事に関しては、大変敏感である。しかし、他人を
  傷つける事に関しては、鈍感である。だから孔子は「己の欲せざる所、
  人に施すことなかれ」と云った。

  Log500の壁を突き破るには、この章を熟読し行動する事。
    壁を突破するはデリカシーが必要。
  孔子もイエスもデリカシーを極限まで高めた人であった。 
 
前集166)
能脱俗便是奇、作意尚奇者、不為奇而為異。
不合汚便是清、絶俗求清者、不為清而為激。


よく俗を脱すればすなわちこれ奇なり、作意に奇を尚ぶ者は、奇となさずして異となす。
汚に合せざればすなわちこれ清なり、俗を絶ちて清を求むる者は、清とならずして激となす。

気を脱却できれば、それこそ非凡な人である。しかしわざと奇をてらうような者は、奇人ではなくして変人である。世俗の汚れに染まらなければ、それこそ高潔な人である。しかしすっかり世捨人になって高潔を求めるような者は、高潔ではなくして常軌をはずれた人である。


  この章を見て思い出すのは、前興銀の頭取「中山素平」さんである。
  彼は「すべては流れのままに」と述べた。対極にあるのは、
  オウム真理教の麻原彰晃であろう。

  「大人は飾らず、小人は飾る」、「小生は山に住み、大生は街に住む」とある。

前集167)
恩宜自淡而濃。先濃後淡者、人忘其恵。威宜自厳而寛。先寛後厳者、人怨其酷。


恩はよろしく淡よりして濃なるべし。濃を先にし淡を後にすれば、人はその恵を忘る。
威はよろしく厳よりして寛なるべし。寛を先にして厳を後にすれば、人はその酷を怨む。


人に恩恵を施すには、初め手うすくしてから後に手あつくするがよい。先に手あつくしてあとで手うすくすれば、人はその恩恵を忘れるものである。また、人に威厳を示すには、初め厳しくしてから後に緩やかにするがよい。先に緩やかにしてあとで厳しくすれば、人はその厳しさを恨むものである。


  洪自誠 が人間通であったことがうかがわれる。
  「恩は石に刻め、恨みは水に流せ」と言われるが、
  普通の人間は、逆の行動をする。

   この章は「出し惜しみをするな」という意味ではない。
     ものには順序があると教えている。


前集
168)
心虚則性現。不息心而求見性、如
波覓月。意浄則心清。
不了意而求明心、如索鏡増塵。


心虚なればすなわち性現わる。心を息めずして性を見んことを求むるは、波をひらいて月を覓むるがごとし。意浄ければすなわち心清し。意を了せずして心を明らかにせんことを求むるは、鏡を索めて塵を増すがごとし。

心が空虚になれば、自然に自己の本性が現われる。心を動くままにしておいて本性を見ようとするのは、波をかき分けて月を求めるのと同じである。また、意念が清ければ、自然に心も清らかである。意念を清く明らかにしないでおいて心の清きを求めようとするのは、鏡の明らかな光りを求めて、かえってそれにちりを積むのと同じである。


  洪自誠 はたとえが上手い。

  イエローハット相談役、 鍵山秀三郎さんは「便所掃除」を徹底して
  おこなう活動をしておられる。その関係者に「便所掃除の目的は何か」と
  質問したところ、「目的などない。意味がある」との答えだった。

  ひたすらにやるという事は、人間が無心になる事。心を空にしないと、
  人間は何も気がつかない。

 
前集
169)

我貴而人奉之、奉此
冠大帯也。我賤而人侮之、侮此布衣草履也。
然則原非奉我。我胡為喜。
原非侮我。我胡為怒。

われ貴くして人これを奉ずるは、この峩冠大帯を奉ずるなり。
われ賤しくして人これを侮るは、この布衣草履を侮るなり。
然らば、すなわちもとわれを奉ずるにあらず。
われなんぞ喜びをなさん。もとわれを侮るにあらず。われなんぞ怒りをなさん。

栄位のゆえに我を人が尊ぶのは、この身につけた高い冠や大きな帯のためである。微賤のゆえに我を人が侮るのは、この身につけたもめんの衣服とわらぐつのためである。そうとすれば、もともと我を人が尊ぶのではないから、どうして喜んでおられようぞ。もともと我を人が侮るのではないから、どうして腹を立てておられようぞ。


  肩書きは関係ない。何の肩書もないのに偉大な人生を送った方は、安岡正篤先生

  有名  有力
  有名  無力
  無名  有力 ← これを目指すこと
  無名  無力

  有名になってしまうと、頻繁にマスコミ登場し、勉強の時間がなくなる。
  「out put」のみで「in put」の余裕がなくなる。あとはハッタリでごまかすしかない。
  
  忙しいという言葉は禁句としよう。「忙」を分解すれば、心が亡びるである。
  「はやっている」、「繁盛している」と言おう。


前集170)
為鼠常留飯、憐蛾不点灯。古人此等念頭、是吾人一点生生之機。
無此便所謂土木形骸而已。


「鼠のためにつねに飯を留め、蛾を憐れみて灯を点ぜず」と。古人のこれらの念頭は、
これ吾人の一点生々の機なり。これなければ、すなわちいわゆる土木の形骸のみ。

「ねずみが飢えないようにと常に飯つぶを残してやり、蛾が飛びこまないようにと燈火をつけないでおく」と、蘇東坡も歌っている。こうした古人の心ねが、実に我々人間がいささか万物の生々発展に参ずるはたらきである。この心ねがなければ、それこそ土や木と同じく非情で、ぬけがら同然である。


前集171)
心体便是天体。一念之喜、景星慶雲。一念之怒、震雷暴雨。
一念之慈、和風甘露。
一念之厳、烈日秋霜。何者少得。
只要随起随滅、廓然無碍。便与太虚同体。

心体はすなわちこれ天体なり。一念の喜びは、景星慶雲なり。一念の怒りは、震雷暴雨なり。一念の慈しみは、和風甘露なり。一念の厳は、烈日秋霜なり。何者をか少き得ん。ただ随って起これば随って滅し、廓然として碍りなきを要すれば、すなわち太虚と体を同じくす。

人間の心は宇宙と同体である。喜びの心はめでたい星やめでたい雲であり、怒りの心はとどろく雷やはげしい雨である。慈しみの心はのどかな風や甘い露であり、きびしい心は夏の日や秋の霜である。このように人間の心は宇宙の現象そのままであって、どれがなくてもすむものではない。ただ、一方で起こったかと思えば一方で消えて、からりとして少しのさわりもないようであれば、それで全く広大無辺の宇宙と同体になる。

前集172)
無事時心易昏冥。宜寂寂而照以惺惺。有事時心易奔逸。
宜惺惺而主以寂寂。

事なきの時は、心、昏冥なりやすし、よろしく寂々にして、而も照すに惺々をもってすべし。
事あるの時は、心、奔逸しやすし。よろしく惺々にして、而も主とするに寂々をもってすべし。

身辺無事のときには、えてして心がぼんやりしがちなものである。そのようなときには、心を静かに落ち着けて、澄んで明らかな本心で照らして行けばよい。また、身辺多忙のときには、えてして心がはやりがちなものである。そのようなときには、本心を澄まし明らかにして、落ち着くことを中心として行けばよい。


前集
173)
議事者、身在事外、宜悉利害之情。
任事者、身居事中、当忘利害之慮。

事を議する者は、身は事の外にありて、よろしく利害の情を悉くすべし。
事に任ずる者は、身は事の中に居て、まさに利害の慮りを忘るべし。

ものごとを相談するときには、わが身をその埒外に置いて、客観的に利害得失の実情を十分に見窮めるようにせよ。また、実行に当たるときには、わが身をその渦中に置いて、おのれの利害得失の打算を忘れるようにせよ。


前集
174)
士君子処権門要路、操履要厳明、心気要和易。毋少随而近腥羶之党。
亦毋過激而犯蜂蠍之毒。


士君子、権門要路に処すれば、操履は厳明なるを要し、心気は和易なるを要す。
少しも随にして腥羶の党に近づくことなかれ。また過激にして蜂蠍の毒を犯すことなかれ。

いやしくも君子たるものが、権力の座におり重要な地位につけば、言行はきびしく公明にして、しかも気持はおだやかでやさしくせよ。うかうかとして、腹黒いやからに近づいてはならないし、また、つい過激になって、はちやさそりのような小人どもの毒に刺されてはならない。


前集
175)
標節義者、必以節義受謗、榜道学者、常因道学招尤。
故君子不近悪事、亦不立善名。只渾然和気、纔是居身之珍。


節義を標する者は、必ず節義をもって謗りを受け、道学を榜する者は、つねに道学によって尤めを招く。ゆえに君子は悪事に近づかず、また善名を立てず。ただ渾然たる和気、わずかにこれ身を居くの珍なり。

大義名分を表看板に掲げる者は、必ずその大義名分のためにそしりを受けることになり、道学を振りまわす者は、いつもその道学のためにとがめを招くことになる。そこで君子の心がけとしては、悪事に近よらないだけでなく、またよい評判も立てないようにして、ただ円満な和気だけを守っておれば、それでもう身をおく最上の道である。

前集176
遇欺詐的人、以誠心感動之。遇暴戻的人、以和気薫蒸之。
遇傾邪私曲的人、以名義気節激礪之。天下無不入我陶冶中矣。


欺詐の人に遇わば、誠心をもってこれを感動し、暴戻の人に遇わば、和気をもってこれを薫蒸し。傾邪私曲の人に遇わば、名義気節をもってこれを激礪す。天下、わが陶冶中に入らざることなし。

口上手なくわせ者に会ったならば、真心をもって感動するようにし、力自慢の乱暴者に会ったならば、温和な心をもって感化するようにし、心のねじけた小悪党に会ったならば、正義と意気の人の道をもって励まし導くようにする。(このように心がけると)、この世の中には、教化できない者はないようになる。


前集177項)
一念慈祥、可以醞醸両間和気、寸心潔白、可以昭垂百代清芬。

一念の慈祥は、もって両間の和気を醞醸すべく、寸心の潔白は、もって百代の清芬を昭垂すべし。

わずかな慈悲の心が、天地の間のおだやかな和気を醸し出すことができるし、また、潔白な心が、百代の後までも清く芳しい名を明らかに伝えることができる。


  醞と醸とは、ともに酒をかもすという意味である。酒をかもしてさらにかもす。
  じゅっくり熟成してさらに熟成をさせる。熟成したものを蒸留して、
  洗練した味わいを目指すことか。

  醞醸の人物というと、安岡正篤先生が唱えた東洋宰相の7ケ条を思い出す。
    1)その地位には淡々と
    2)敬虔で慢心なく

    3)自信を温容に包み
    4)慈愛と信頼を秘め
    5)おかしがたい威厳をそなえ
    6)どこか、ユーモアがあって
    7)一抹の哀愁を感ずる 
 
  
 

前集178項

陰謀怪習、異行奇能、倶是渉世的禍胎。只一個庸徳庸行、便可以完混沌而召和平。


陰謀怪習、異行奇能は、ともにこれ世を渉るの禍胎なり。ただ一個の庸徳庸行のみ、すなわちもって混沌を完くして和平を召くべし。

陰謀や奇習、風変わりな行為やふしぎな芸当などは、いずれも世間を渡る上での災のたねである。(これらではなく)、ただ平々凡々の徳と行いを積むことだけが、本来のすがたを全うして、平和を招くものである。


  良き慣習が決め手となる。慣習には思い(意)、言葉(口)、行い(身)の三つがある。
  悪しき慣習、良き慣習にも、それぞれ、思い(意)、言葉(口)、行い(身)の三つがある
  悪しき慣習、良き慣習もカルマ(業)を残す。

  この世は原因と結果の法則で貫かれている。
  自らまいた種は、自分で刈り取らねばならない。
  
前集179項
語云、登山耐側路、踏雪耐危橋。
一耐字極有意味。
如傾険之人情、坎坷之世道、若不得一耐字撑持過去、幾何不堕入榛莾坑塹哉。

語に云う、「山に登りては脇路に耐え、雪を踏んでは危橋に耐う」。一の耐の字、極めて意味あり、傾険の人情、坎坷の世道のごとき、もし一の耐の字を得て、撑持し過ぎ去らずんばいかんぞ、榛莾坑塹に堕入せざらんや。

語に「山に登ったならば険しい坂道でもしんぼうして耐え進み、雪を踏んで行ったならば危ない橋でもしんぼうして耐えて進め」とある。この「耐」の一字がきわめて大切である。世上の険しい人情の坂路や、行きなやむ不遇な境遇で、とりわけ、この「耐」の一字を大事な支えとしなければ、どれだけ多くの者が、やぶや穴の中に落ちこまないであろうか。たいていは落ちこんでしまう。


  戦後の日本人が失ったものに「矜持」「廉恥」「忍耐」がある。
  日本人は物質的には豊かになったが、精神的には弱くなったのではないか。

  安岡正篤先生が言った「四耐、四不」を思い出す。
     耐冷、耐苦、耐煩、耐閑
     不激、不躁、不競、不随
     可以為大事

  
   冷に耐え、苦に耐え、煩に耐え、閑に耐え、
     激せず、躁(さわ)がず、競わず、随わず、
       もって大事を成すべし
 

前集180項
)
誇逞功業、R燿文章、靠皆是外物做人。
不知心体螢然、本来不失、即無寸功隻字、亦自有堂堂正正做人処。


功業に誇逞し、文章をR燿するは、みなこれ外物に靠りて人となるなり。知らず、心体螢然として、本来失わざれば、すなわち寸功隻字なきも、またおのずから堂々正々、人となるのところあるを。

自分の功業に得意になり、自分の学問を見せびらかすのは、みな自分以外の外の物にたよって人間として生きているにすぎない。この人たちは知らないのだ、心の本体が玉の輝くように明らかで、本来の光りを失わなかったならば、たとえ少しの功績もなく、一字も読めなくとも、正々堂々たる人間として生きて行けるということを。

 
  この内容に共感するのなら、人生の目的の半分は達成した。
  しかし、分かっただけでは半人前。

  王陽明の「四句経」がよい参考資料となる。
     無善無悪 是心之体
     有善有悪 是意之動
     知善知悪 是良知
     為善去悪 是格物


前集181項)
忙裡要偸閨A須先向闔椏「個欛柄。
閙中要取静、須先従静処立個主宰。
不然、未有不因境而遷。
随事而靡者。

忙裡に閧偸まんことを要せば、すべからくまず闔魔ノ向って個の欛柄を討ぬべし。
閙中に静を取らんことを要せば、すべからくまず静処より個の主宰を立つべし。
然らざれば、いまだ境に困って遷り、事に随って靡かざるものあらず。

忙しい時に暇をぬすみたいと思うなら、まず暇な時に、心の置きどころというものを尋ね求めておくがよい。また、騒がしい所で静かさをえたいと思うなら、まず静かな所で、心の主体性というものをうち立てておくがよい。そうでないと、必ず環境によって心が動いて、暇はぬすめないし、事件によって心がなびいて、決して静かさはえられない。


  前段は「六中観」の「忙中閑あり」。後段は「壺中天あり」か。

前集182項)
不昧己心、不尽人情、不竭物力。三者可以為天地立心、為生民立命、為子孫造福。


己れの心を昧まさず、人の情けを尽くさず、物の力を竭くさず。
三者、もって天地のために心を立て、生民のために命を立て、子孫のために福を造すべし。

おのれの本心を物欲で曇らせることもなく、人の情をわがために出しきらせることもなく、いかなる物でも、その力を用い尽くすこともない。この三つの心がけがあれば、天地のためには、その心にかない、人民のためには、その生活を安定し、子孫のためには、その福を造っておくことができよう。


  これは名言。ぜひ原文と読み下し文を覚えるように。
  三者以降の天地を顧客にかえ、生民を会社にかえ、子孫を社員に変えれば
  すばらしい基本方針となる。

前集183項)
居官有二語、曰惟公則生明、惟廉則生威。居家有二語、曰惟恕則情平。
惟倹則用足。

官に居るに二語あり、曰く、「ただ公なれば明を生じ、ただ廉なれば威を生ず」。
家に居るに二語あり、曰く、「ただ恕なれば情平らかに、ただ倹なれば用足る」。

官位をえて役人であるときの戒めに二語がある。「公平であれば明朗が生まれ、清廉であれば威厳が生じてくる」と。家庭にあるときの戒めに二語がある。「思いやりが深ければ不平不満がなく、倹約であれば費用に不足しない」と。


  恕の意味を調べると、赦す・思いやる・憐れむ・慈しむ・おしはかる、という意味がある。

  恕の文字を分解すれば、「如」と「心」となる。
  如・・・ごとしとは、天のごとし、神のごとしという意味である。
  如心とは、Log800以上の如来の心。相手の気持ちが手に取るようにわかる。

前集184項
)
処富貴之地、要知貧賤的痛癢、当少壮之時、須念衰老的辛酸。


富貴の地に処しては、貧賤の痛癢を知らんことを要し、
少壮の時に当たっては、すべからく衰老の辛酸を念うべし。

人は富貴の地位にいる時に、貧賤の地位にある者の苦痛を思いやることが必要である。また、若く盛んな時に、年老い衰えた後のつらさを思いやるべきである。


前集185項
)
持身不可太皎潔。一切汚辱垢穢、要茹納得。与人不可太分明。
一切善悪賢愚、要包容得。


身を持するには、はなはだ皎潔なるべからず。一切の汚辱垢穢、茹納し得んことを要す。
人に与するには、はなはだ分明なるべからず。一切の善悪賢愚、包容し得んことを要す。

世渡りで身を保って行くには、あまり潔ぺきすぎてはならない。一切のよごれやけがれをも、すべてのみこむようでありたい。人と交わるには、あまりきちょうめんすぎてはならない。一切の善人悪人、賢者愚者をも、すべて包容することができるようでありたい。


前集186項
)
休与小人仇讐。小人自有対頭。休向君子諂媚。君子原無私恵。


小人と仇讐することを休めよ。小人おのずから対頭あり。
君子に向かって諂媚することを休めよ。君子もと私恵なし。

つまらぬ小人どもを相手にするな。小人には小人なりの相手があるものである。また、りっぱな君子にこびへつらうな。君子はもともとえこひいきなど、してくれないものである。

前集187項)

縦欲之病可医、而執理之病難医。事物之障可除、而義理之障難除。


縦欲の病いは医すべし、而して執理の病いは医しがたし。
事物の障りは除くべし、而して義理の障りは除きがたし。

欲にこりかたまった病は直すことができるが、りくつにこりかたまった病は、なかなか直せない。物事についての障害はとり除くことができるが、道理についての障害は、なかなかとり除けない。


前集188項
)
磨蠣当如百煉之金。急就者非邃養。施為宜似千鈞之弩。
軽発者無宏功。

磨蠣はまさに百煉の金のごとくすべし。急就は邃養にあらず。
施為はよろしく千鈞の弩に似たるべし。軽発は宏功なし。

修養を志すなら、なん度も煉り鍛えた金のように、じっくりとするがよい。速成では深い修養はえられない。また、事業を行なうなら、強い石弓を発するように、慎重にするがよい。軽々しく発しては大きな成果はえられない。

前集189項)

寧為小人所忌毀、毋為小人所媚悦。寧為君子所責修、毋為君子所包容。


むしろ小人の忌毀するところとなるも、小人の媚悦するところとなることなかれ。
むしろ君子の責修するところとなるも、君子の包容するところとなることなかれ。

つまらぬ人間に、憎みそしられてもよいが、こびへつらわれるようであってはならない。りっぱな人物に、きびしく責められてもよいが、見放されてお情けを受けるようであってはならない。


前集190項
)
好利者逸出於道義之外。其害顕而浅。好名者竄入於道義之中。
其害隠而深。

利を好むは道義の外に逸出す。その害顕われて浅し。名を好むは道義のうちに竄入す。
その害隠れて深し。

利欲を好む者は、初めから道義の外にはしり出て不義理を働くので、それは明白でだれの目にもつき、その害はむしろ浅い。(これに反して)、名声を好む者は、初めから道義の中にもぐりこみ仮面をかぶっているので、それはちょっと見るとわからず、それだけにその害はかえって深い。

前集191項)

受人之恩雖深不報。怨則浅亦報之。聞人之悪雖隠不疑。善則顕亦疑之。
此刻之極、薄之尤也。宜切戒之。


人の恩を受けては、深しといえども報ぜず。怨みはすなわち浅きもまたこれを報ず。
人の悪を聞いては、隠れたりといえども疑わず。善はすなわち顕わるるもまたこれを疑う。
これ刻の極、薄の尤なり。よろしく切にこれを戒しむべし。

人から受けた恩は、たとえ深くても報いようとせぬくせに、受けた恨みはどんなに浅くても、必ず仕返しをする。また、人から聞いた他人の悪い評判は、たとえはっきりしていなくても信じるくせに、善い評判はどんなにはっきりしていても、なかなか信じようとはしない。(人の情としてありがちなことだが)、これはまことに冷酷きわまることで、深く自分を戒めておくがよい。