〔
原文
〕
作成日 2003年(平成15年)3月から
4月 |
有子曰、其爲人也、孝弟而好犯上者、鮮矣。
不好犯上而好作亂者、未之有也。
君子務本、本立而道生。孝弟也者、其爲仁之本與。
|
〔 読み下し 〕 |
有子曰わく、其の人と為りや、孝弟にして上を犯すを好む者は鮮なし。上を犯すを好まずして乱を作すを好む者は未だ之れ有らざるなり。君子は本を務む、本立ちて道生ず。孝弟なる者は、其れ仁を為すの本か。
|
〔 通釈 〕 |
有子(孔子の弟子の有若(ゆうじゃく))云う、「その人柄が、親に孝行で兄に悌順(ていじゅん・従順)な性格であれば、好んで目上の人にたてつく者など、滅多にいないものだ。目上の人にたてつくことが嫌いな性格であって、それでいて社会の秩序を乱すことが好きだなどという者は、未だかつてあったためしがない。立派な人物は、まず根本をしっかりと押さえるものである。何事も根本が定まれば、道は自ずと開けるものだ。この親に孝行で目上に悌順であるということが、思いやりのある人づくりの第一歩と云って良いだろう」と。
|
〔 解説 〕 |
有子とは有若のこと。容貌が孔子にそっくりだったそうで、孔子が亡くなってから弟子達は、有若を孔子の身代わりに仕立てて仕えたと云います。子(し)とは先生の意味ですから、直訳すれば「有先生が云った」となりますので、この文章は有若の弟子、つまり孔子の孫弟子にあたる人が記録していたものでしょう。
孔子教学(孔子の教えを体系化した学問)を一般に儒学或は儒教と云いますが、儒教の際立った特徴は、集団を丸ごと救済しよう、社会を丸ごと救おうという「集団救済・社会救済」の思想にあります。儒教以外、喩えば仏教でもキリスト教でもイスラム教でも、すべて個人救済の思想でありまして、集団救済・社会救済の教えはありません。
家庭のユートピアを地域社会のユートピアに。地域社会のユートピアを国家のユートピアに。国家のユートピアを天下(世界)のユートピアに、秩序と調和を以て増幅拡大して行こうというのが、儒教の基本的な考え方なんですね。その第一ステップ、家庭ユートピアの根本が親を敬い(孝)目上に従う(悌)ことにあると、有若は述べておりますが、どうして孝と悌が家庭ユートピアの根本なのでしょうか?
普段私達は、自分一人で大人になったかのように錯覚しがちですが、お乳を与えてくれたのは誰でしょうか?おむつを取替えてくれたのは誰でしょう?食事をさせてくれたのは誰でしょう?服を着せてくれたのは誰でしょう?言葉を教えてくれたのは誰でしょう?善悪の判断を教えてくれたのは誰でしょう?一体誰のお陰で、今日こうして人間として生きていく事ができるようになったのでしょうか?
そう!親のお世話・目上の人のお世話にならずして、一丁前の人間生活を送れるようになった人など、一人もいないんですね。これは三大聖人と云われる、釈迦・孔子・イエスと雖(いえど)も例外ではありません。喩え生まれた時は人間であっても、猿に育てられれば猿になってしまいますし、狼に育てられれば狼になってしまう他はないのです。
百年程前だったでしょうか、インドのミトナプールという所で、狼に育てられた姉妹が発見されたことがありました。妹の方はすぐに亡くなったそうですが、姉の方は教会の牧師さんに引き取られて、人間社会に復帰できるよう養育・訓練されたそうですが、ダメだったと云います。
人間は人間に育てられなければ「人間」にはなれません。あなたは、親に育てられ目上の人に導かれたからこそ、現在こうして何喰わぬ顔で人間生活を送っていられるのです。こんなこと考えたことがなかったでしょう?
でもこれは、れっきとした事実です。この事実に対して、問答無用で感謝するというのは、当たり前のことではないでしょうか。この(親や目上の人の)大恩に報いる、感謝・報恩の気持が「孝」であり、「悌」である訳です。繰り返しますが、自分一人で大人になれたと思ったら大間違いです。親の子に対する無条件・無前提・無所得の深い愛情を噛みしめてみれば、親を悲しませる行為がどれ程罪深いことか、きっと分かるでしょう。親を悲しませて平気でいられる人間なんて、この世にいないんです。
子が親を悲しませることを「親不孝」と云いますが、親不孝の中で最低・最悪のものは何だか、分かりますか?親よりも先に死ぬこと、それも自殺で。これが最大の親不孝です。親が一番悲しむことなのです。さんざん親の世話になって、やっと一丁前の人間にしてもらったのに、自殺して親を悲しませるなんて・・・、恩を仇で返すようなものでしょう?これは。
ただ、孝悌とは云っても、何でもかんでも親の言いなり・目上の言いなりになれ、ということではありませんから、勘違いしないように。主体性をもって自主的にやるのを孝悌というのでありまして、催促されてからやるのは孝悌とは申しません。
|
〔 一言メッセージ 〕 |
『人は人に育てられるから人間になる』
|
〔 子供論語 意訳 〕 |
有先生が云った、「その人の人柄が、親や兄さん姉さんの云うことを素直に聞く性格の人ならば、家族以外の目上の人に対しても、きっと素直に接することができるだろう。目上の人に素直に接することができる人で、学校や町内会の決まりごとを平気で破る人など昔からいたためしがない。立派な人は基本をしっかりと身に付けている。どんなことでも、基本がしっかりと身に付いていれば、あとの応用は思いのままだ。親や目上の人の云うことを素直に聞く。これが立派な人になる為の第一歩だね」と。
|
〔 親御さんへ 〕 |
親に孝行、目上に悌順などと云うと、随分時代遅れのことを云う人だ、今は年齢に関係なく、弱肉強食・適者生存の実力主義の時代ではないか?と思われるかも知れません。しかし、ちょっと待って下さい。私達はともすれば、自分一人で大人になった・今の自分になったと、錯覚してはいないでしょうか?
お乳を与えてくれたのは誰でしょうか?おむつを取替えてくれたのは誰でしょうか?食事をさせてくれたのは誰でしょうか?服を着せてくれたのは誰でしょうか?言葉を教えてくれたのは誰でしょうか?叱って正してくれたのは誰でしょうか?褒め励まし勇気付けてくれたのは誰でしょうか?一体、誰のお陰で今こうして人間として生活して行くことができるのでしょうか!?
そう!人間として生きて行く為の基本は、みんな親や兄弟が作ってくれたものなんですね。
人は人に育てられなければ人間にはなれません。たとえ生まれた時は人間であっても、狼に育てられれば狼になってしまう他はないのです。(百年程前、インドのミトナプールという所で発見され、狼に育てられたアマラとカマラ姉妹のように)私達は、親に育てられ目上の人に育てられたからこそ、今こうして人間社会で生活していられるのです。このまぎれもない事実に対して、感謝するというのは、人として当たり前のことではないでしょうか。
孝悌と云うと何だか難しい感じがしますが、人間の基本を作ってくれた親の大恩に報いる報恩の気持が、孝であり悌であると考えていいでしょう。もう一度繰り返しますが、自分一人で大人になれたと思ったら大間違いです。基本はみんな親が作ってくれたものです。親の子に対する無条件・無前提・無所得の愛をじっくりと噛みしめてみれば、問答無用「お父さん
お母さんありがとう!」と思わずにはいられませんね。
|