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【174】
孔子日わく、益者三友、損者三友、直きを友とし、諒を友とし、多聞を友とするは益なり。便辟を友とし、善柔を友とし、便佞を友とするは、損なり。
【通釈】
孔子云う、「自己を益する友に三種、自己を損なう友に三種ある。直言してくれる友・誠実な友・博学多識な友は、自己を益する友である。体裁ぶる友・媚び諂う友・口達者な友は、自己を損なう友である」と。
【解説】
分かり易く云うと、つきあってプラスになる友は、正直な友・真心のある友・物知りな友。マイナスになる友は、上辺ばかり気にする友・ゴマスリの友・オベンチャラの友ってことでしょう。
20年前の古い資料にはどんなことを書いたのだっただろうか?と調べてみたら、これを「論語に学ぶ会交友三則」にするとして、
一、友の過ちには直言すべし!体裁作りに終始すべからず。
二、裏表なく誠実に友と会すべし!愛想笑いに終始すべからず。
三、必ず必ず友から学ぶべし!外交辞令に終始すべからず。
とありました。これは今でも変っていません。
【175】
孔子日わく、益者三楽、損者三楽。礼楽を節せんことを楽しみ、人の善を道うことを楽しみ、賢友多きを楽しむは、益なり。驕楽を楽しみ、佚遊を楽しみ、宴楽を楽しむは、損なり。
【通釈】
孔子云う、「自己を益する楽しみに三種、自己を損なう楽しみに三種ある。礼節と音楽によって自己を磨く楽しみ・人の美徳を噂する楽しみ・賢い友が多くいる楽しみ、これらは自己を益する楽しみである。享楽に耽(ふけ)る楽しみ・遊楽に耽る楽しみ・宴楽に耽る楽しみ、これらは自己を損なう楽しみである」と。
【解説】
「三楽・さんらく」を「三楽・さんごう」と読んでも結構です。
享楽・遊楽・宴楽は程々にしろ!と孔子は云う、「損なり」と。
だがしかし、「止めよ!」と云わない所がいかにも孔子らしくて、これが釈迦なら即座に「禁止!」となったでしょう。
一度耽ってみて飽きてしまうのと、一度もやらずに抑圧してしまうのとでは、どちらが精神衛生上宜しいかといえば、やるだけやって飽きてしまった方が、余程執着心を断ち易いのではないでしょうか。
飽きてしまえば、後は付き合い程度で済ますことが出来る。
清い水しか飲んだことのない人には、清い水の本当の美味しさは分からない。
濁った水しか飲んだことのない人には、濁った水の本当の不味さは分からない。
清濁併せ呑んでみて、初めて本当の美味い不味いが分かるものです。
人間の味もそれと同じです。
【176】
孔子日わく、君子に侍るに三愆有り。言未だ之に及ばずして言う、之を躁と謂う。言之に及びて言わざる、之を隠と謂う。未だ顔色を見ずして言う、之を瞽と謂う。
【通釈】
孔子云う、「目上の人の側に侍する際に犯しがちな過ちが三つある。その一は、まだ先方から話しかけられてもいないのにこちらから発言してしまう、これを慌て者の過ちと云う。その二は、話しかけられているのにきちんと受け答えしない、これを隠し事の過ちと云う。その三は、相手の顔色を察することなく唐突に発言する、これを明き盲の過ちと云う」と。
【解説】
場の空気が読めない人のことをKY(KuukigaYomenai)と云うそうですが、KYに話しかけられて閉口した覚えは有りませんか?
あれは困るね、無視する訳にも行かないし、ウンウンといい加減な相槌を打っていると図に乗って来るし。
そういう人に恥をかかせず何か良い撃退法はないものかと考えてやってみたら、二つ効果のある方法が見つかりました。
一つは、人差し指を一本立てて、笑顔で「ア・ト・デ」と小声で云う。
二つ目は、それでも効き目がない場合は、掌を相手に向けて「ト・イ・レ」と小声で云って席を立つ。大抵は戻って来た時には居なくなっている。
指を立てたり、掌を相手に向けたりした時は、不思議な効果があるもので、人差し指は「アテンション!(注意)」、掌は「ストップ!(やめ)」という万国共通の認識があるようです。
【177】
孔子日わく、君子に三戒有り。少き時は血気未だ定まらず、之を戒むること色に在り。其の壮んなるに及んで血気方に剛なり、之を戒むること闘に在り。其の老ゆるに及んでは血気既に衰う、之を戒むること得るに在り。
【通釈】
孔子云う、「君子たらんと欲する者が人生で自戒しなければならんことが三つある。若い時は勇気もやる気も元気も根気も旺盛で、セルフコントロールがきかず暴走しがちである。この時期は特に性欲に振り回されないようにしなさい。壮年になると勇気もやる気も元気も根気も出世欲にフォーカスして闘争心が強くなる。だからこの時期は人と争うことを避けなさい。年を取ると勇気もやる気も元気も根気も衰えて来るが、その分、死に欲が出て来る。だから年を取ったら執着心を捨てなさい」と。
【解説】
ちょっと意訳し過ぎましたかな?
2500年前も今も、人間はちっとも変っていませんね。本当に耳が痛い。「死に欲」などという言葉は、今はあまり使われなくなりましたねえ。
死が近づいた為に益々欲深くなることを云いますが、地位も名誉も財産も権力も、どれ一つとしてあの世には持って帰れないのにねえ‥‥。
そう云えば、昔は「死に恥かきの業突張(ごうつくばり)」とか、「生き恥晒しの業突く張」ってのが町内に一人か二人いたものですが、今はすっかり見掛けなくなりました。
中にはいるんでしょうね、今でも。
【178】
孔子日わく、君子に三畏有り。天命を畏れ、大人を畏れ、聖人の言を畏る。小人は天命を知らずして畏れず、大人に狎れ、聖人の言を侮どる。
【通釈】
孔子云う、「覚醒したる人物には畏敬するものが三つある。その一は、天命(神の御心)を畏れ敬い、その二は、天命を体した大人物を畏れ敬い。その三は、天命を伝える聖人の教えを畏れ敬う。これに対して愚かな人物は、すべては偶然の産物と勘違いして、天命によりて生かされていることも知らず畏れ敬おうともしない。天命を体した大人の存在にも気付かず馴れ馴れしく接する。真理を伝える聖人の教えに耳を傾けようともせず、そんなことがあるものか!?と嘲笑う」と。
【解説】
孔子の云う「畏天命」・「畏大人」・「畏聖人之言」の三畏は、仏教で云う「三帰」つまり、「帰依仏」・「帰依法」・「帰依僧」と同じことを云っているのではないかと思うことがあります。
三帰とは正確には「三宝帰依」のことで、
一、帰依仏‥‥仏(神)に帰依せよ
二、帰依法‥‥仏の説く法(仏法)に帰依せよ
三、帰依僧‥‥仏法を伝える僧団に帰依せよ
と云うものですが、畏を帰依に置き換えてみると、
一、帰依天命‥‥天命に帰依せよ
二、帰依大人‥‥天命を体した大人に帰依せよ
三、帰依聖人之言‥‥天命を伝える聖人の教えに帰依せよ
となる。逆に、帰依を畏に置き換えてみると、
一、畏仏‥‥仏(神)を畏れ敬え
二、畏法‥‥仏の説く法を畏れ敬え
三、畏僧‥‥仏法を伝える僧団を畏れ敬え
となって、全く違和感がありません。
決してこじつけた訳ではありませんが、不思議なことがあるものです。
イエスといい釈迦といい、大聖人の云うことは、皆似て来るものなのでしょうかね。
【179】
孔子日わく、生まれながらにして之を知る者は、上なり。学びて之を知る者は、次なり。困しみて之を学ぶは、又其の次なり。困しみて学ばざるは、民斯を下と為す。
【通釈】
孔子云う、「生まれながらにして道理を知っている者は、最上の人物である。学んで道理を知る者は、その次の人物である。物事に行き詰まって、困窮する現実の中から道理を学び取る者は、又その次の人物と云ってよかろう。行き詰まって困窮しても、その中から何も学び取ろうとしない者は、人として最低だ!」と。
【解説】
人生は、日々応用問題を解かされているようなもので、毎日が学びの連続ですが、日々遭遇する現実は、絶妙なタイミングでその人に与えられた課題と捉えて良いのではないでしょうか。
「神はその人に解決できないような試練は与えない」と申しますが、我々凡人は目の前に現実を突きつけられても、中々それが人生の課題であることに気付きません。
出来ればその現実から逃げたい、パスしたいと思うけれども、どういう訳か逃れようがない状況に置かれてしまう。
悪戦苦闘しながらやっと何とか解決してみて、初めて気がつきます、「ああ、これは試練(自分に与えられた課題)だったのか!?」と。
云ってみれば、人生とは日々種蒔きをし、日々刈り取りをやらされているようなものなのではないでしょうか。
良い種を蒔けば良い実がなり、悪い種を蒔けば悪い実がなる。
良い実も悪い実も、自分が蒔いた種ならば、自分で刈り取らなければならないような仕組みになっている。これが道理です。
原因・結果の法則から逃げる訳には行かないんですね。
仏教ではこれを「カルマの法」と云いますね。
【180】
孔子日わく、君子に九思有り。視るには明を思い、聴くには聡を思い、色には温を思い、貌には恭を思い、言には忠を思い、事には敬を思い、疑わしきには問を思い、忿には難を思い、得るを見ては義を思う。
【通釈】
孔子云う、「君子としての心掛けに九ヶ条がある。その一は、ものごとを観察するには、枝葉末節に囚われず本質を見抜くよう心掛ける。その二は、人の意見を聞く際には、先入観に囚われず虚心坦懐を心掛ける。その三は、顔つきはいつも温和であるように心掛ける。その四は、人と接する際の態度は、恭しくするように心がける。その五は、ものを言う際は、口先だけにならぬよう誠実を心掛ける。その六は、仕事に臨む際は、慎重であるよう心掛ける。その七は、疑わしいことについてはそのまま放置せず、よく問うて質(ただ)すことを心掛ける。その八は、腹が立つときは、腹立ち紛れに当り散らした後の災難を考えて自重を心掛ける。その九は、利益を前にした時は、すぐ飛びつかずその利が義に叶ったものであるかどうかをよく考えるよう心掛けること」と。
【解説】
これなどは「リーダー心得九ヶ条」として使えるのではないでしょうか。
もう少し噛み砕いて列挙してみましょうか。
一、枝葉末節に囚われず、物事の本質を見抜くべし。
二、先入観に囚われず、虚心坦懐に聴くべし。
三、表情は常に和やかに。
四、物腰は常に柔らかに。
五、言葉は常に真心込めて。
六、仕事は常に慎重に。
七、疑わしきことはとことん調べよ。
八、忿(いか)るは百毒、許すは百薬。
九、損得よりも善悪を優先せよ。
となりましょうか。
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