| |
【102】
顔淵、仁を問う。子日わく、己に克ちて礼に復るを仁と為す。一日己に克ちて礼に復れば、天下仁に帰す。仁を為すは己に由る。而して人に由らんや。顔淵日わく、請う、其の目を問わん。子日わく、礼に非ざれば視ること勿れ、礼に非ざれば聴くこと勿れ、礼に非ざれば言うこと勿れ、礼に非ざれば動くこと勿れ。顔淵日わく、回、不敏なりと雖も、請う、斯の語を事とせん。
【通釈】
顔淵が仁とはどういうことかを問うた。孔子は、「私心に打ち克って真(まこと)の道(礼)に立ち返ることが仁と云うものである。上に立つ者がもし一日でも私心に打ち克って真の道に立ち返るなら、天下の万民はこれを見習って仁に回帰することになるだろう。仁を実践するかどうかは本人の自由意志に由るのであって、他人の力でどうこうできるものではない」と答えた。顔淵は、「どうか実践の目当てをお教え下さい」と云った。孔子は、「真の道に悖(もと)ることを見ていてはならん!真の道に悖ることに耳を傾けてはならん!真の道に悖ることを言ってはならん!真の道に悖ることを行なってはならん!」と答えた。顔淵は、「私に出来るかどうか分かりませんが、今の先生のお言葉を終生の自戒としたいと思います」と云った。
【解説】
ここでは礼を、礼儀・礼節・礼制ととらず、「真(まこと)の道」と解釈しました。
ヤハウェの神がモーゼに授けた「十戒」はご存知ですね? 殺す勿れ!姦淫する勿れ!盗む勿れ!偽証する勿れ!‥‥と云う有名な言葉。
あれは全て「不可・べからず」集ですが、本章はさしずめ孔子が顔淵に授けた「四戒」と云った所でしょうか?真の道に非ざれば視ること勿れ!真の道に非ざれば聴くこと勿れ!真の道に非ざれば言うこと勿れ!真の道に非ざれば動くこと勿れ!と云うんですから。
これ、口で云うのは簡単だけれど、実践するとなると難しいですよ!
我々凡人は、何が真の道で何が偽りの道かよく分かっておりませんから、真の道に非ざることを真の道と勘違いして、「見て・聴いて・言って・為して」いることが結構ある。
偽りの道を為して、善いことをしたと思っていることもある。
だからダンテは云ったのでしょう、「地獄への道は、いつも善意で舗装されている」と。
厳しいね、自由意志と云うのは!?
物事を皮相的に捉えてはいけませんね。
【103】
仲弓、仁を問う。子日わく、門を出ては大賓を見るが如くし、民を使うには大祭に承えまつるが如くす。己の欲せざる所は、人に施すこと勿れ。邦に在りても怨み無く、家に在りても怨み無し。仲弓日く、雍、不敏なりと雖も、請う、斯の語を事とせん。
【通釈】
仲弓が仁とはどういうことかを問うた。孔子は、「一度門を出て世人と交わるからには、大切な賓客を迎えるように敬意を表しなさい。決して横柄な態度をとってはならん!又、上に立って人民を公役に使う立場になっても、重大な祭祀を執り行うように、慎み深く接しなさい。決して傲慢な態度をとってはならん!つまり、自分が嫌なことは人に仕向けてはならんと云うことだ!! かくすれば、邦に在って人民に怨まれることも無く、家に在って家人に怨まれることもないだろう」と答えた。仲弓は、「私に出来るかどうか自信はありませんが、先生の今のお言葉を終生の心掛けにしたいと思います」と云った。
【解説】
「己の欲せざる所は、人に施すこと勿れ」なる有名な言葉は、本章で仲弓に対してと、衛霊公第十五で子貢に対しての二ヶ所で語られています。
雍也第六の055番で述べたように、本章の「己の欲せざる所は人に施すこと勿れ」を、新約マタイによる福音書第七章第十二節の「すべて人にせられんと思うことは、人にも又その如くせよ」なるゴールデンルールになぞらえて、論語の黄金律と早合点している人がおられるようですが、そうではありません。
論語の黄金律は、雍也第六055番の、「己立たんと欲して人を立て、己達せんと欲して人を達す(自分がこうありたい!ああなりたい!と思うことは、先ず人にやってあげなさい)」です。
前にも云ったかと思いますが、漢学者で聖書をよく読んでいる人は滅多におりませんし、聖書学者で論語をよく読んでいる人も殆どおりませんから、このような早とちりが生じたのではないかと思います。
もしかすると、「己立たんと欲して人を立て、己達せんと欲して人を達す」を杓子定規に「自分が立ちたいと思う時に、まず他人を立たしめる、自分が到達したいと思うことは、まず他人を到達せしめる」と訳してしまった為に、気がつかなかったのかも知れません。
これって、「自分がこうありたい!ああなりたい!と思うことは、まず人にやってあげる」と同じことでしょう。
こう訳せば、「アッ!これはゴールデンルールと同じだ!!」と気付いたかも知れませんね。
【104】
司馬牛、君子を問う。子日わく、君子は憂えず懼れず。曰く、憂えず懼れず、斯れ之を君子と謂うか。子日わく、内に省みて疚しからざれば、夫れ何をか憂え、何をか懼れん。
【通釈】
司馬牛が、君子とはどういう人物を云うのかと問うた。孔子は、「憂えず懼れないのが君子である」と答えた。司馬牛は、「憂えず懼れないだけで、本当に君子と云えるのでしょうか?」と重ねて問うた。孔子は、「ああそうだ!自ら省みて、心に少しも疚しい所がないならば、何でクヨクヨしたりビクビクしたりする必要があろうか」と答えた。
【解説】
クヨクヨするのを「持ち越し苦労」、ビクビクするのを「取り越し苦労」と云いますが、司馬牛は心配性で臆病な性格だったようです。
「論語」ではなく「孟子」の公孫丑(こうそんちゅう)に、昔曽子が孔子から教わった話しが紹介されています。
「自ら反(かえ)りみて縮(なお)からずんば、褐寛博(かつかんぱく・どてらを着た卑しい身分の人の意)と雖も吾懼れざらんや。自ら反りみて縮くんば(少しも疚しい所がないならば)、千万人と雖も吾往かん」と。
残念ながら論語には、「千万人と雖も吾往かん」なる勇ましい言葉は残されておりませんが、しいて挙げるとすれば、本章がそれに相当するでしょうか。
【105】
子貢、政を問う。子日わく、食を足し、兵を足し、民之を信にす。子貢日わく、必ず已むを得ずして去らば、斯の三者に於て何れをか先にせん。日わく、兵を去らん。日わく、必ず已むを得ずして去らば、斯の二者に於て何れをか先にせん。日わく、食を去らん。古自り皆死有り、民信無くんば立たず。
【通釈】
子貢が政治の要道を問うた。孔子は、「食糧を増産し、軍備を増強し、人民に信義を持たせることだ」と答えた。子貢は、「国状からして三つ同時進行が無理だとしたら、何を後回しにすべきでしょうか?」と問うた。孔子は、「軍備の増強をやめよう」と答えた。更に子貢は、「国状からして残りの二つさえ同時進行が無理だとしたら、どちらを後回しにすべきでしょうか?」と問うた。孔子は、「食糧の増産を後回しにしよう。食糧が不足すれば、餓死する者も出て来ようが、食い物が有ろうが無かろうが、人はみないつかは死ぬものだ。もし人民が信義を失ってしまったら禽獣と同じで、人間社会は成り立つものではない」と答えた。
【解説】
孔子は政治の要道を、「食を足し、兵を足し、民之を信にす」と三点挙げておりますが、これを今日的に解釈すれば、
一、食を足し‥‥経済発展による国民生活の向上。
二、兵を足し‥‥国防と外交の強化。
三、民之を信にす‥‥教育による人材の育成。
となるでしょうか。
孔子は三番目の「民之を信にす」、つまり、教育による人材の育成がすべてに優先する、と述べている訳ですが、経済も国防・外交も、優秀な人材あったればこそですから、国づくりの前に人づくりが優先する、立派な国づくりの前には立派な人づくりが優先する!と云うことでしょうか。
これは、万世共通・万国共通のようですね。
【106】
棘子成曰わく、君子は質のみ、何ぞ文を以て為さん。子貢曰わく、惜しいかな、夫子の君子を説くや。駟も舌に及ばず。文は猶質のごとく、質は猶文のごときなり。虎豹の鞹は、猶犬羊の鞹のごときなり。
【通釈】
衛の大夫棘子成が、「君子は中身が充実していればそれで良い。何も文飾教養など要らん!」と云った。これを聞いた子貢は、「残念ながら貴殿の君子論はちと見当違いですな。一旦口から出た失言は四頭立ての馬車と雖も取り返すことが出来ないと云います。文と質は表裏一体のものでありまして、もし質だけで良いとするなら、喩えてみれば、貴重な虎や豹のみごとな毛並みをわざわざ剃り落して、なめし革にしてしまうようなものでありまして、月並みな犬や羊のなめし革と何ら変わらなくなるではありませんか!?」と云った。
【解説】
「駟も舌に及ばず」(一旦口から出た失言は取り消すことが出来ないの意)の出典がここ。
駟とは馬+四で四頭立ての馬車のこと。
当時としては最速の乗り物でした。
文質彬彬が孔子の君子論でしたから、中身も外見もともに立派にバランスがとれていないとダメと云うことでしょう。
さすがは言語の人(頭が切れて弁の立つ)子貢、駟も舌に及ばずのみならず、虎豹(こひょう)の革と犬羊(けんよう)の革の対比もみごとです。
【107】
子張、徳を崇くし惑を辨ぜんことを問う。子日わく、忠信を主として義に徒るは、徳を崇くするなり。之を愛しては其の生を欲し、之を悪みては其の死を欲す。既に其の生を欲して、又其の死を欲するは、是れ惑なり。
【通釈】
子張が、人格を高め、惑いを取り除くにはどうしたら良いかを問うた。孔子は、「如何なる時も誠実であるように心掛け、道義にかなうように行動すれば、人格が磨かれて自ずと徳が高まるものだ。人を愛した時はずっと元気でいて欲しいと願った筈なのに、一旦嫌いになったら早く死んでくれたらいいのにと願う。相手は変らないのに、その場その時の感情に振り回されて、道義を見失ってしまう。これが惑いというものだ」と云った。
【解説】
人間は感情を持った生き物ですから、喜怒哀楽があるのは当たり前ですが、問題なのはこれに振り回されて、事の善し悪しと好き嫌いとを混同してしまうことですね。
孔子はこれ、善し悪しと好き嫌いの混同が惑いだと言う。
「惑う」(自体を見極められず混乱して対応を決めかねる)と、「迷う」(物事の整理がつかなくなる)は、元来違う意味の言葉ですが、今は同義語として使われておりますから、「どう違うの?」と問われたら、そうですねえ‥‥物事を判断する時に使われる言葉が「迷う」、対応を決断する時に使われるのが「惑う」と考えて良いのではないでしょうか。
「判断に迷う」とは云うけれど、「判断に惑う」とは云いませんし、「決断を惑う」とは云うけれど、「決断を迷う」とは云いませんからね。
【108】
子日わく、訟を聴くは、吾猶人のごときなり。必ずや訟無からしめんか。
【通釈】
孔子云う、「訴えを聴いて間違いのない判定を下すことは、私も人並みに出来ると思う。ただそれよりも、訴えたり訴えられたりと争うことのない世の中にしたいものだ」と。
【解説】
これが大司寇(だいしこう・法務大臣と最高裁長官を兼ねたようなもの)を務めたことのある孔子の本音でしょう、争いのない世の中にしたいと云うのが。
普通私達は、争いには必ずその種・原因があるから、結果として争いが起きるものだと考えておりますが、実は争いは結果ではなく原因なんですね。
エッ?と思った方がおられるかもしれませんが、「争う心」があるから争いが起きるのであって、「争う心」がなかったら争いは起きません。
争う心のある人にとっては、原因などどうだっていいんです、すべてを争いの種にしてしまう妙な才能がありますから。
戦争もそうです、戦争したい奴がいるから戦争が起きるんです。
争いは結果ではなく原因、争う心があるから争いが起きる!争う心がなければ和解する!!
孔子はこういうことを誰よりも良く知った人ですが、だからと云って、人の心は万人の自由意志に委ねられておりますから、どうすることもできない。
そこで孔子は、争いの心を正すには、義でもない!礼でもない!知でもない!信でもない!仁の心以外にはない!!と考えていたのではないでしょうか。
論語には「仁」と云う文字は百ヶ所位出て来ますが、その仁について説いている所は58章もあります。
全部で約510章ありますが、一割以上が仁を語ったものです。
【109】
子曰わく、君子は人の美を成し、人の悪を成さず。小人は是に反す。
【通釈】
孔子云う、「君子と云うものは、人の美点や長所に光を当てて、欠点や失態などは見て見ぬ振りをするものだ。小人物はこれと逆で、殊更欠点や失態を暴き立て、美点や長所に蓋をする」と。
【解説】
我々凡人は、どういう訳か長所よりは欠点に、美点よりは失態に目が向きがちですが、欠点のない人などいる訳がありませんし、美点の全くない人もいる訳がありませんから、要はどちらに光りを当てるか?本人の心掛け次第と云うことですね。
孔子は、人の美点にスポットを当てるか、欠点にスポットを当てるかで、君子か小人かが分かれると言います。
君子とは出来た人物、小人とは下種野郎と考えて良いかと思いますが、欠点やミスをほじくり出してワァーワァー騒ぐなどと云うのは、下種野郎のすることなんですね。
週刊誌の殆どがこれじゃないのか!?と思いながらも、新聞の広告欄に載っている週刊誌の刺激的な見出しについつい目が行ってしまう。
あのキャプションは一体どんな人が書いているんでしょうかね?買って読んでみたくなりますもの。
【110】
季康子、政を孔子に問うて曰わく、如し無道を殺して、以て有道に就かば、何如。孔子対えて曰わく、子、政を爲すに、焉ぞ殺を用いん。子、善を欲すれば、民善ならん。君子の徳は風なり、小人の徳は草なり。草、之に風を上うれば、必ず偃す。
【通釈】
魯の大夫季康子が政について、「国をうまく治める為に、無道の者(悪人)を殺して有道の者(善人)だけにしてしまってはどうだろうか?」と問うた。孔子は、「政治を行うのにどうして人民を殺す必要がありましょうや。もしあなたが率先して善政を心掛けるならば、人民は自然に感化されて自ら善道を行うようになるでしょう。上に立つ者の徳は喩えてみれば風のようなものであり、下にある人民の徳は草のようなものです。善い風を吹きかければ善い方になびき、悪い風を吹きかければ悪い方になびくものです」と答えた。
【解説】
「君子の徳は風なり、小人の徳は草なり。草之に風を上うれば必ず偃す」とは名言ですね!
家風・校風・社風・国風‥‥、善くも悪くも人は皆この「風」によって育まれるものです。理屈抜きです。
親は風・子は草、教師は風・生徒は草、経営者は風・社員は草、政治家は風・国民は草、上司は風・部下は草‥‥、上にある者がどんな風を吹きかけるかによって、下の者はどちらにでもなびく。
親は家庭に善い風を、校長は学校に善い風を、社長は会社に善い風を、政治家は国に善い風を吹きかけ続けるのが使命ってことですね。
【111】
子張問う、士何如なれば斯れ之を達と謂うべき。子曰わく、何ぞや、爾の所謂達とは。子張対えて曰わく、邦に在りても必ず聞え、家に在りても必ず聞ゆ。子曰わく、是れ聞なり、達に非ざるなり。夫れ達なる者は、質直にして義を好み、言を察して色を観、慮りて以て人に下る。邦に在りても、必ず達し、家に在りても必ず達す。夫れ聞なる者は、色に仁を取りて行ないは違い、之に居りて疑わず。邦に在りても必ず聞え、家に在りても必ず聞ゆ。
【通釈】
子張が、「政治に関わる者として、どのような人を達人と云うのでしょうか?」と問うた。孔子は、「何のことだね、お前の云う達の意味とは?」と聞き返した。子張は、「政府の役人にも、地元の人にも、評判がよいと云う意味での達でありますが」と答えた。孔子は、「何だそういうことか。それは達と云うのではなく聞(聞こえのいい人)というのだ。本物の達人は、実直で道義を重んじ、人の言葉を聞いて胸中を察し、態度を見て人物を見抜く、しかも配慮が行き届いていて人に遜(へりくだ)る。世間の評判など気にせず、国であろうが地元であろうが、達道(人の拠るべき道)を貫く人、これを達人と云うのだ。これに対して聞というものは、外見は仁者らしく装っているが云うこととやることがちぐはぐで、しかも本人はそれを気にかけることもなく、国でも地元でも世間受けだけ気にかける。世人はこれに晦まされて凄い人だと噂する。こういうのを聞・有名無実の人というのだ」と云った。
【解説】
何だか分からないけれど、その人がいると不思議とうまく行き、居るのか居ないのか分からないようにしているけれど、何となく場が和み、目立たないけれど存在感のある人。
普段は気付かなかったけれど、居なくなって初めて偉大さが分かる人って、いますよね。
空気のような存在といったら良いでしょうか、こういう人を達人と云うんですね。
普通は中々こうは行かなくて、用もないのにでしゃばってみたり、頼まれもしないのに取り仕切ってみたり、柄でもないのに天下国家を論じてみたり‥‥、目立ちたがり屋の中に達人はいないってことでしょうか。
【112】
子貢、友を問う。子曰わく、忠やかに告げて善く之を道き、不可なれば則ち止む。自ら辱めらるることなかれ。
【通釈】
子貢が交友のあり方を問うた。孔子は、「誠意を尽くして率直に告げ、善い方向に導いてやりなさい。どうしても耳を貸さないようであれば、忠告は一旦中止しなさい。しつこくすると却って反発をくらって逆に逆恨みされることがあるから、本人が気付くまで待つしかない」と云った。
【解説】
忠告とは、忠(まめ)やかに告げること、つまり、誠意を尽くして率直に告げる、と云う意味です。
真の交友にはこれが大切なんですね、「率直に!」と云うのが。
普通は、相手の気分を害さないようにと遠慮して、言うべきことも言わない場合が多いものですが、孔子は、ズバリと云ってあげなさい!と云う。
但し、人によっては「あんたにそんなこと言われる筋合いはない!」とか、「何をこしゃくな!」などという人もおりますから、その場合は深入りせず、相手が気付くまで待ってやれ、とも云う。
あまりしつこく云うと、逆に逆恨みされて、情けが仇となることがあります。
私にもそういう経験がありまして、特に、オカシナ宗教にはまっている人に対しての忠告は難しい。
邪教にやられている人は、必ず目を吊り上げて反論して来ます。
まず聞く耳を持ちませんから、やはり本人が気付くまで待つしかないようです。
【113】
曽子曰わく、君子は文を以て友を会し、友を以て仁を輔く。
【通釈】
曽子云う、「君子は学問を通じて交友を結び、交友を通じて人格を高め合うものである」と。
【解説】
交友関係にも、飲み仲間・釣り仲間・ゴルフ仲間・趣味仲間・仕事仲間・メール仲間等々いろんなものがありますが、すべては出会いの縁を通じて交友関係が結ばれるものばかりです。
ああそうそう、肝心なものを一つ忘れていました、「勉強仲間」ってものがありましたね!
論語の素読会をやろう!などと云うのは、立派な勉強仲間です。
論語を通じて交友を結んだのならば、どうか交友を通じて人格を高め合って下さい。
勿論、お酒が入ってもいいですよ!孔子もお酒は好きでしたからね!
先進第十一 ← 顔淵第十二 → 子路第十三
|
|