【091】
子曰わく、先進の礼楽に於けるや、野人なり。後進の礼楽に於けるや、君子なり。如し之を用うれば、則ち吾は先進に従わん。
【通釈】
孔子云う、「昔の人達の礼楽に於ける態度は、野暮ったいが実があった。今の人達の礼楽に於ける態度は、垢抜けしているが実がない。もしどちらを選ぶかとなれば、私は昔の人達の流儀に従おうと思う」と。
【解説】
先進とは先輩の意、後進とは後輩の意。
今は、先進国といえば、垢抜けて進んだ国を云い、後進国といえば、野暮ったく遅れた国のイメージがありますが、孔子は、先進が野暮ったく、後進が垢抜けた意として使っています。
礼楽の大家孔子の本音としては、垢抜けていてしかも実が籠(こも)っているのを最良としたかったのでしょう。
「文質彬彬(ぶんしつひんぴん)」が孔子の君子の条件ですから。
【092】
徳行には、顔淵・閔子騫・冉伯牛・仲弓。言語には、宰我・子貢、政事には、冉有・季路。文学には、子游・子夏。
【通釈】
孔子門下では、徳の実践に優れた者として、顔淵・閔子騫・冉伯牛・仲弓の四名。弁論に優れた者として、宰我・子貢の二名。政治手腕に優れた者として、冉有・季路(子路)の二名。学問に優れた者として、子游・子夏の二名。計十名が高弟とされていた。
【解説】
以上の十名を、「孔門の四科十哲」と云います。
季路とは子路のことです。
十哲の特徴を掻い摘んで説明しますと、
一、納得の行くまで努力精進する顔淵。
二、親孝行で清廉潔白な閔子騫。
三、温厚篤実な冉伯牛。
四、南面して政治を執るに足る仲弓。
五、奔放で常軌では律し難い宰我。
六、頭が切れて弁が立つ子貢。
七、六芸に通じ政治手腕に長けた冉有。
八、一本木で勇敢な子路。
九、礼楽に習熟している子游。
十、いかにも学者然としている子夏。
この十名は、論語の中に度々登場しますから、名前位は覚えておいたら良いでしょう。
釈迦には十大弟子、イエスには十二使徒がおりましたが、高弟と云われるのは十名前後なんでしょうか?聖人は。
【093】
子曰わく、孝なるかな閔子騫。人其の父母昆弟の言に間せず。
【通釈】
孔子云う、「親孝行者だなあ閔子騫は。父母兄弟が閔子騫の孝行ぶりを自慢しても、世間の誰一人として口を差し挟む者はいない」と。
【解説】
孔子が弟子を呼ぶ時は必ず名で呼んでいましたから、本来ならば「孝なるかな損(閔子騫の名)や」と云う筈ですが、どうしてこの時に限ってフルネームで呼んだのでしょうか?
恐らく、閔子騫の孝行ぶりは街中に知れ渡っていて、巷では孝行者の話しになると決まって「孝なるかな閔子騫」と云う言葉が、標語のように人口(ジンコウ)に膾炙(カイシャ)していたのではないでしょうか。
【094】
顔淵死す。子之を哭して慟す。従者曰く、子慟せり。日わく、慟すること有るか。夫の人の為に慟するに非ずして、誰が為にかせん。
【通釈】
顔淵が死んだ。弔問に行った孔子は、身体を震わせ声をあげて泣いた。お供の弟子達は、「先生が慟哭(どうこく)しておられる」とささやいた。これを聞いた孔子は「私が慟哭したって?いかにもその通り。この人の為に慟哭せずして、一体誰の為に慟哭しろと云うのかね!?」と云った。
【解説】
慟哭とは、身を震わせ声をあげて泣くことを云います。
弔問に行った際に声をあげて泣く「哭・こく」は、士喪(シソウ)の礼と云って、当時の儀礼の一つとされておりましたが、「慟・どう」は近親者のみに限られておりました。
それで弟子達はびっくりしたのでしょう、身内でもない孔子が「哭」のみならず「慟」する姿を見て、「先生が慟哭しておられる」とささやいた。
普段から礼にうるさい先生が、自ら礼を無視して慟哭した訳ですが、弟子の声を耳にして、我を忘れて嘆き悲しんでいる自分にハッと気が付いた。
後段は言い訳とも取れますが、これが真情だったのでしょう。
後継者にと思っていた顔淵に、41才の若さで先立たれたのですから。
私達は、普段人前で声をあげて泣くことを恥ずかしいと思っておりますが、本当に悲しい時は声をあげて泣いたって良いのではないでしょうか?正直な真情の発露だと思います。
【095】
季路、鬼神に事えんことを問う。子日わく、未だ人に事うること能わず、焉んぞ能く鬼に事えん。日く、敢えて死を問う。曰わく、未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん。
【通釈】
子路が、「神霊に仕えるにはどうしたら良いでしょうか?」と質問した。孔子は、「まだ充分人に仕えることができないのに、どうして神霊に仕えることなどできようか」と答えた。期待外れの答えに子路は、「ならば敢て問いますが、死後の世界はどのようなものでしょうか?」と重ねて問うた。孔子は、「まだ本当に生きることも知らないで、どうして死後のことなど分かろうか」と答えた。
【解説】
この章の孔子の言葉を皮相的に受け取って、孔子は無神論者であった、霊の存在など認めていなかったと云う人がおりますが、そうではないんですね。
前に述べたかも知れませんが、孔子の母は霊能者(巫女)で、女手一つで育てられた孔子は、小さいときから母の側で心霊現象を目の当たりにしていました。
その中で、憑依されて気が狂ったり、早死にしたり、性格が一変したりする人がいるのを時々目撃していたのでしょう。
現に、母顔徴在(がんちょうざい)は、孔子が16才の時に30前後の若さで早死にしています。
物心付く頃に孔子は、こう云うことに興味本位で近づくことは危険だ!と覚ったのでしょう、学問の道で身を立てることを決意する。
丁度この当時、今で云うオカルトブームのようなものがあったようで、弟子の中でも子路がオカルト好きだったようです。(論語の中ではこの他に、子路が孔子に、御祓いしようかと云ったり、祈祷しようかと云ったりしている場面があります)
そういう子路に対してオカシナ興味を抱かぬよう、ピシャリと釘を刺すような答え方をした。
それにしても孔子の釘の刺し方には味がありますね、「未だ人に事うること能わず、焉んぞ能く鬼に事えん」・「未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん」と云うのですから、全くその通りでこれ以上突っ込んでみようがありません。
霊の存在や心霊現象を認めた上での発言なんです。
だから味のある釘の刺し方ができた。
本当に無神論者・唯物論者であれば、「迷信迷信!人は死ねば一巻の終わり!!」で終わっていたでしょう。
【096】
閔子騫、側に侍す。ァァ如たり。子路、行行如たり。冉有・子貢侃侃如たり。子楽しむ。日わく、由の若きは其の死を得ざらん。
【通釈】
閔子騫(孔子の15才下)・子路(9才下)・冉有(29才下)・子貢(31才下)の四人の弟子達が孔子の側に侍っていた。閔子騫は穏やかに行儀よく、子路はいかにも厳つく、冉有と子貢はにこにことしていた。孔子は楽しそうであったが、一言「由(子路の名)のような男は、畳の上では死ねないだろうな?」と、心配そうにポツリと漏らした。
【解説】
孔子が心配したとおり、子路は衛で内乱に巻き込まれ、主人の孔斟(こうかい)が敵に捕らえられてしまった為、単身救出に向かいますが、待ち構えていた敵に切り殺され、死骸が塩漬けにされて孔子の元に送られてきました。子路この時64才、孔子が亡くなる一年前・73才の時の出来事です。
【097】
子貢問う、師と商とは孰れか賢れる。子日わく、師や過ぎたり、商や及ばず。日わく、然らば則ち師は愈れるか。子日わく、過ぎたるは猶及ばざるがごとし。
【通釈】
子貢が、「師と商の器量は、どちらが優っているでしょうか?」と問うた。孔子は、「師は何でもやり過ぎる傾向があるし、商はちょっとし足りない所がある」と答えた。そこで子貢は、「では師の方が上ですね!?」と重ねて問うと、孔子は、「過ぎたるは猶及ばざるが如しで、どちらもどっこいどっこいと云った所だな」と答えた。
【解説】
「過ぎたるは猶及ばざるが如し」の出典がここです。
師とは子張(陳出身で48才年下)、商とは子夏(衛出身で44才年下)のことで、同世代のよきライバルだったようです。
子貢は孔子の31才年下ですから、子夏や子張より一回り先輩と云うことになる。
子張は十哲の中には入っておりませんが、ちょっと生意気なところがあったようで、先輩として、孔子が二人をどのように評価しているのかを知りたかったのでしょう。
「過ぎたるは猶及ばざるが如し」の孔子の答えに、子貢自身ドキリとしたのではないでしょうか?子貢もやり過ぎの傾向がありましたからね。
【098】
柴や愚、参や魯、師や辟、由や喭。
【通釈】
柴(子羔・しこう)は愚直。参(曽子)はのろま。師(子張)は見栄坊。由(子路)は武骨。
【解説】
本章は伝承の途中で冒頭の「子曰」が抜け落ちたものと思われます。
どんな場面でこの言葉が発せられたのか分かりませんが、孔子は弟子達の性格を知り尽くしておりましたから、恐らく四人の性格や特徴はこのようなものだったのでしょう。
曽子がのろまだったとはちょっと意外です。
論語の中では随分立派なことを云っておりますから、俊敏な人かと思っておりましたが、きっと、ゆったりとしていて、ちょっと融通がきかない所があったのでしょう。
孔子の門下は、ほのぼのとして、何となくユーモラスで、どこか懐かしい感じがしますが、弟子の曽子の門下は、重たくて、ユーモアが通じない、堅苦しい雰囲気だったのではないかと云う感じがします、論語の中で語られる曽子の言葉からすると。
本章は恐らく子路が先輩風を吹かせて、「先生、一つ先生から見た我々の欠点を教えてくれませんか?人様の欠点はよく分かるけど、自分自身のこととなると中々分かりませんから」とか何とか云ったことに対して、孔子が答えたものではないでしょうか。
【099】
子日わく、論の篤きに是れ与せば、君子者か、色荘者か。
【通釈】
孔子云う、「なるほど!と思わせるようなもっともらしいことを説いても、その人が本物の君子か?見せ掛けだけの君子か?即座に判断できないこともある」と。
【解説】
色荘者(見せ掛けだけの人)とは面白い言葉です。
明代末期の儒者で呂新吾(りょしんご)と云う人は、見せかけ君子を次のように定義しています。
「見せかけ君子とは、老獪にして言葉巧みに上辺を飾り、大きな悪事を働きながら名声を勝ち得る。しかも悪事が露見しないので、今の人のみならず後世の人も騙されて、それに気付く者はいないというような人物」と。
【100】
子路問う、聞くままに斯れ諸を行わんか。子日わく、父兄の在すこと有り、之を如何ぞ、其れ聞くままに斯れ諸を行わんや。冉有問う、聞くままに斯れ諸を行わんか。子日わく、聞くままに斯れ諸を行え。公西華日く、由や問う、聞くままに斯れ諸を行わんかと。子日わく、父兄の在すこと有りと。求や問う、聞くままに斯れ諸を行わんかと。子日わく、聞くままに斯れ諸を行えと。赤や惑う。敢えて問う。子日わく、求や退く、故に之を進む。由や人を兼ぬ、故に之を退く。
【通釈】
子路が、「善いことを聞いたら、そのまま実行に移しても良いでしょうか?」と問うた。孔子は、「父兄が居られるのだから、その意見をよく聞いてからにしなさい。どうして勝手に実行してよかろうや!」と答えた。冉有も同じように、「善いことを聞いたらすぐさま実行してよろしいでしょうか?」と質問した。孔子は、「善いと思ったことはすぐさま実行しなさい!」と答えた。これを側で聞いていた公西華は、同じ質問に対して孔子が正反対の答え方をしたのを不思議に思い、「由先輩が善い事を聞いたらすぐ実行してもよろしいかと質問した時、先生は、父兄の意見をよく聞いてからにしなさい!とお止めになり、求先輩が同じ質問をした時は、すぐ実行しなさい!と進められましたが、先生が何故正反対のお答えをされたのか、私にはさっぱり分かりません。敢てお教えいただけませんでしょうか?」と尋ねた。これに対して孔子は、「求は引っ込み思案の所があるから、すぐやれ!と進めた。由はでしゃばる所があるので、ちょっと待て!と引き止めたのだよ」と答えた。
【解説】
相手の機根や性分に合わせて説き聞かせることを「対機話法」或は「対機説法」と云いますが、孔子は対機話法の名人でした。
正反対のことをいったからと云って、二枚舌ではないんです。
性格や能力の違う人にワンパターンのことを云ってもダメなんですね。
人を見て法を説かなければ。難しいですね。
そう云えば、釈迦も対機説法の名人でした。
【101】
子路、子羔をして費の宰たらしむ。子日わく、夫の人の子を賊わん。子路日わく、民人有り、社稷有り、何ぞ必ずしも書を読みて、然る後に学と為さん。子日わく、是の故に夫の佞者を悪む。
【通釈】
子路が後輩の子羔を費の代官に抜擢した。これを知った孔子は、「人一倍とろい(柴や愚)子羔をそのような要職に就けるのはまだ早い。未熟な代官に治められる人民もたまったものではない。あの子は大器晩成型なのだから、もう少し学問修養を積ませてからにしなさい。将来のある子も人民も、共にダメにしてしまうぞ!」と子路を叱った。子路はムッとして、「又そんなことをおっしゃる。既にここに治べき人民がおり社会があります。実務を通して学ぶのも、立派な学問修養だと思います。何も机上で書物を読むだけが学問ではないと思いますが」と反論した。孔子は、「これだから口達者な奴は嫌いだよ。口では何とでも屁理屈をこねられるからな!」と云った。
【解説】
かなり文言を補って通釈してみました。
孔子に向かってこんな口答えができるのは、孔子門下では子路位のものでしょう。
098番に「柴や愚」とあるように、子羔(しこう)は愚直で機転の利かない性格でしたから、子路は何とかしてこの後輩に自信をつけさせてやりたいと思い、自分がバックアップしてやれば何とかなる、と判断して抜擢したのでしょうが、「夫の人の子を賊なわん!」と一喝されてしまった。
孔子に、「おお、それは良いかもしれない。後の面倒は見てやれよ!」と褒めてもらえると思っていたのに、叱られてしまったものですから、ムッとして、こんな口答えをしたのではないかと思います。
ただ、この会話で面白いのは、子路自身子羔には荷が重過ぎることを充分知っており、又、孔子の云うこともちゃんと分かっていた。
又、孔子は孔子で、子路が後輩の為を思ってやったことも充分わかっていた点です。
だから、「夫の佞者を悪む」と、子路の口答えに対して、わざわざ第三人称を使ってはぐらかすような云い方をした訳ですね。
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