【056】
子日わく、徳の脩まらざる、学の講ぜざる、義を聞きて徙る能わざる、不善の改むる能わざる、是れ吾が憂なり。
【通釈】
孔子云う、「徳が身につかないこと、学問が進まないこと、正しいことを聞きながら実行に移せないこと、善からぬことと知りながら改めることができないこと、これが私の憂うる所である」と。
【解説】
これは一体孔子何才頃の話しでしょうか?
論語は、弟子達が孔子から聴いたこと教わったことを書き綴ったものですから、三十で私塾を開いてから以降のものであることは間違いありませんが‥‥。
孔子自身「四十にして惑わず」と語っておりますが、この文章は大いに惑い憂えている内容です。
聖人にも、若い頃はこういう悩みがあったんですね。
【057】
子日わく、道に志し、徳に拠り、仁に依り、芸に游ぶ。
【通釈】
孔子云う、「人生の王道を目指しなさい。その王道は徳を拠り所としなさい。徳はすべて仁を土台としなさい。その上で豊かな教養を身につける。これが人生の王道である」と。
【解説】
徳はすべて仁ベース(土台)、仁あっての義・仁あっての礼・仁あっての知・仁あっての信である!!と私が口を酸っぱくして云う理由がこれで分かったでしょう。
孔子はここではっきりと述べています、「徳に拠り、仁に依る」と。
芸とは六芸(りくげい)、礼・楽・射・御・書・数のことで、当時の基本的教養とされておったものです。
孔子は肝心要のことをサラッと云う癖があるから、うっかりすると、大事なことをサラッと読み飛ばしてしまうことがある!と何度か云ったことがありますが、この章なんかはその代表格でしょう。
孔子の人間観・人生観を知る上で、きちっと腑に落としておかなければならない大切な章です。
【058】
子日わく、憤せずんば啓せず、悱せずんば発せず。一隅を挙げて三隅を以て反らざれば、則ち復せざるなり。
【通釈】
孔子云う、「問題意識をもって自ら取り組もうという情熱のない者は、ヒントを与えてもピンとこない。解決の糸口を見出そうと粘り強く努力する根気のない者は、何を教えても身につかない。喩えて云えば、四角いものの一隅を教えたら、あとの三隅を試行錯誤しながら解明する位の意欲がなければ、何一つものにならないのだ」と。
【解説】
この章から「啓発」と云う言葉が生まれますが、啓も発もともに「ひらく」と云う意味です。
ひらくが二つ重なっておりますから、一つ開くと次から次へと連鎖反応が起きて、意識の拡大作用が起こることになる。
これが「啓発」の本当の意味です。
では、意識の拡大作用を引き起こす起爆剤は何か?といえば、これが「正しい問題意識」なんですね。
「間違った問題意識」では、起爆しないんです。
だから迷路にはまり込んで堂々巡りを繰り返す、どこも開きませんからね。
新約マタイによる福音書に、「求めよさらば与えられん。尋ねよさらば見出さん。門を叩け、さらば開かれん」とあって、真理はいつも開かれるのを待っているのだが、正しく叩かなかったら門は開かない。
これと同じ事なんですね、正しい問題意識を持つと云うのは。
間違った叩き方では真理の門が開かないのと同様、間違った問題意識では、意識の拡大作用は起こらない。叡知の宝庫の扉は開かないんです。
【059】
子日わく、疏食を飯い水を飲み、肱を曲げて之を枕とす。楽しみも而其の中に在り。不義にして富み且つ貴きは、我に於いて浮雲の如し。
【通釈】
孔子云う、「粗末な飯に水一杯、肱枕で寝るような貧しい状況にあっても、楽しみは尽きるものではない。不義を働いて得た富や地位など、私にとっては空に漂う浮雲のようにはかないものだ」と。
【解説】
かと云って、孔子は富貴を否定して貧賤を奨励している訳ではありません。
義に叶った富貴なら大いによし!義に叶って貧賤ならばこれも致し方なし!
ただ、不義を働いてまで富貴を求めるような卑しい人間になるな!魂を腐らせるな!!と云うことですね。
【060】
子日わく、我は生まれながらにして之を知る者に非ず。古を好み、敏にして之を求めたる者なり。
【通釈】
孔子云う、「私は生まれながらものの道理を知っていた訳ではない。古の聖賢の書を読み、一途に真理を探究した結果なのだ」と。
【解説】
「量が質を作る」と云いまして、経験の量が質を高めて行くのは紛れもない事実です。
ただ、一人の人間が一回の転生で直接経験できる量などたかが知れておりますから、未経験の分野で高度な判断を下すには、経験の絶対量が足りません。
これを何で補うかといえば、歴史や古の聖賢の書(古典)を読むことによって補う他はありません。
脳科学では、実際に体験しなくとも、イメージトレーニングによって、実際に体験したと同じ脳の回路が形成されることが分かっているそうですから、読書による疑似体験でも、実体験と同じ思考回路が形成されることになります。
人類が叡知を蓄えられるようになったのは、文字の発明によってでありますし、時代を超え国を超えて叡知が伝達されるようになったのも、文字情報として伝えられるようになったからです。
人間が思考による疑似体験ができるのは、文字情報として蓄えられているものを読むからなんですね。
猿と人間の決定的な違いは、文字情報を介して思考の疑似体験ができるか否か?ではないでしょうか。
だとすれば、読書をするのが人間で、読書をしないのは、猿及び猿化した人間と云うことになるのかな?
【061】
子日わく、三人行なえば、必ず我が師あり。其の善き者を択びて之に従い、其の善からざる者にして之を改む。
【通釈】
孔子云う、「三人が共に行動すると、必ずその中にお手本とすべき者がいるものだ。善なる者を択んで之を善きお手本とし、不善なる者を見たら、自分にもそのようなところがないか、悪しきお手本として反省して改める。かくすれば、師たる人はどこにでもいるものだよ」と。
【解説】
「人の振り見て我が振り直せ」と云う俗諺があるけれども、本章はその元になったような文章ですね。
私達は、分かっているようで一番分かっていないのが自分自身のことではないでしょうか。
ですから、他人の言動を見聞きして、善いと思ったこと、善くないと思ったことを自分に置き換えて反省してみる。
こうすると、ハッとすることばかりで、人様のことをとやかく云えなくなります。
「我以外皆師也」とは本当によく云ったものだと思います。
見聞皆師・見るもの聞くものみな師ですね、人生も世の中も。
好い気になってはいけませんね、いくつになっても。
【062】
子、四を以て教う。文・行・忠・信。
〈通釈〉
孔子の教育方針は、一、古典の教養を身につける。二、徳を実践する。三、何ごとにも誠実に対処する。四、言を違えない。の四つであった。
【解説】
この四項目を、
一、読書の習慣を身につける。
二、口先だけでなく実行を重んじる。
三、人には親切丁寧に。四、約束を守る。
と読み替えれば、現代でも「家庭教育の基本方針」として立派に通用するし、百年後にも通用すると思います。
一、読書は不要。二、口達者であれば良し。三、その時の気分次第で対処する。四、その場限りの口約束。など通用するはずがありません、過去も・現在も・未来も。
【063】
子日わく、蓋し知らずして之を作る者有らん。我は是れ無きなり。多く聞きて、其の善き者を択びて是に従い、多く見て之を識すは、知るの次なり。
【通釈】
孔子云う、「世の中には、充分な基礎知識がなくても、閃きや勘だけで自説を創作する人もいるだろう。しかし私はそうはしない。出来るだけ多くのことを聞いた上で、その中から善いものだけを択んでこれを手本とする。又、出来るだけ多くの書物を読んで、その中からこれはと思うものを覚えておく。これが私のやり方で、知者とは云えないかも知れないが、まあその次位の者であろう」と。
【解説】
前にも述べましたが、高度な判断を下すには、今世一回の転生では経験の絶対量が足りないんですね。
それを何で補うかと云えば、歴史や古典に学ぶ、つまり、読書により疑似体験を通じて、認識力を養って行く訳です。
認識力とは、分かり易く云えば、「物事の受け止め方」のことですが、般若心経で云うところの、眼・耳・鼻・舌・身・意の「意」に当ります。
脳科学で云う「脳の認識作用」ですね。
五感を通じて知覚された物事を受け止める認識作用が正常に作用しませんと、判断を誤り→意志決定が狂うことになる。
孔子がここで、「多く聞きてその善き者を択んで是に従い、多く見て之を識す」と云ったのは、とても大切なことですね。
認識力に劣れば→判断を誤り→意志決定が狂う、と云うことでしょう。
【064】
子日わく、仁遠からんや。我仁を欲すれば、斯に仁至る。
【通釈】
孔子云う、「仁とは人から遠く離れた所にあるものだろうか。いやそうではない。仁とは元々誰の心にも宿っているもので、自分が仁であろうと欲すれば、その身そのまま仁に至ることが出来るのだ」と。
【解説】
胚乳のことを仁と云いますが、全ての種子に胚乳(仁)があるように、全ての人に仁の心が宿っていると孔子は云います。
ここで云う仁とは、神性或は仏性、つまり、神仏と同じ心と考えて良いでしょう。
この章は、仏教で云うところの「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」と同じことを云っているのではないでしょうか。
何度も云いますが、孔子は重大なこと程サラッと云うんですね。
【065】
子日わく、文は吾猶人のごとくなること莫からんや。躬もて君子を行なうことは、則ち吾未だ之を得ること有らざるなり。
【通釈】
孔子云う、「学問のことなら私もどうにか人並みに出来ぬこともないが、身をもって君子の行いを示せるかとなると、まだまだだね」と。
【解説】
孔子はかなり謙遜して云っておりますが、確かに学ぶことは誰でもできるけれども、実行できるか?となると、これが中々難しい。
実行できるか?思っているだけか?が、どうも君子と凡人の分かれ目のようですね。
【066】
子日わく、奢れば則ち不孫、倹なれば則ち固し。其の不孫ならんよりは寧ろ固しかれ。
【通釈】
孔子云う、「贅沢すればするほど高慢ちきになり、倹約すればするほど頑固者となる。どっちもどっちだが、高慢ちきであるよりは、頑固者の方がましだろう」と。
【解説】
贅沢していると、それに便乗しようとする輩に取り囲まれ、おだてられて、いつの間にか自分が偉くでもなったかのように錯覚する。
取り巻きの中だけで尊大ぶっているのならまだかわいいのですが、本人は自分は偉くなったと勘違いしておりますから、関係のない第三者に対しても尊大な態度を取るようになる。
こうなると「なんだアイツは!」となって、周りから顰蹙(ひんしゅく)を買うことになります。
肩書きや財産や家柄などは外物ですから、本人の人徳とは何の関係もないのですが、ここを勘違いしてしまうんですね、大方は。
一方、度の過ぎた倹約はどうかといえば、あれもダメ!これもダメ!とやっていると、付き合ってくれる者がいなくなって、段々世界が狭くなって来る。
特に信仰深い訳でもないくせに、いつの間にか自分がストイックな求道者にでもなったかのように錯覚して、周囲が汚らわしいもののように見えてしまう。
これが高ずると、自分の世界に陶酔して、周りの意見は一切聞かなくなる。
時々いますよ、こういう人が。
倹約は美徳だけれども、倹約し過ぎるのは悪徳ですね、金は天下の回り物なんだから。
孔子が、「高慢ちきであるよりは、頑固者の方がまだましだ!」と云ったのは、高慢ちきは周囲に悪臭を撒き散らすけれども、頑固者は自分の蛸壺にはまっているだけで、周囲に悪臭を撒き散らす訳ではないからまだましだろう、と云うことなのではないかと思います。
自惚れれば生意気になり、殻に閉じ籠れば頑固になる。
謙虚且つ柔軟でありなさい!と云うことですね、孔子の云わんとする所は。
【067】
子、温にして厲し。戚にして猛からず。恭にして安し。
【通釈】
孔子は、穏やかな中にも激しい情熱があり、威厳があるが猛々しい所がなく、慎み深いがおどおどした所がなく、ゆったりとしておられた。
【解説】
普通は長所と短所を背中合わせに持っているものですが、孔子は、長所に伴う短所を自ら克服して、あの偉大な人格を作り上げて行ったんですね。
我々凡人ですと、務めて温和であろうとすれば、一本芯の抜けたか弱き善人になりかねない。
威厳を保とうとすれば、妙にいかつくなってしまう。
慎み深くあろうとすれば、変にギスギスしてしまう。
中庸を得るというのは、難しいものですね。
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