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【047】
子曰わく、回や其の心三月仁に違わず。其の餘は則ち日に月に至るのみ。
【通釈】
孔子云う、「顔回は、誰に対してもいつも思いやりの心を(仁)を忘れることが無かったが、他の者達は、時々その心境にはなっても、すぐ又自分本位に戻ってしまうのだ」と。
【解説】
仁とは、人を思いやる心・与える愛・利他の愛と解釈してもらって結構です。
もらう愛・奪う愛・利己の愛は、仁とは云いません。
自分のことばかり考えず、半分位は、否、三割でもいい、人のことを考えて行動するようにしたら、もう少しマシな世の中になると思うのですが、いかがでしょうか。
ジコチュー(自己中心・自分本位)も、もうそろそろ卒業しないといけませんね。
【048】
伯牛、疾有り。子、之を問う。牖より其の手を執りて日わく、之を亡ぼせり、命なるかな。斯の人にして而も斯の疾あるや、斯の人にして而も斯の疾あるや。
【通釈】
門人の伯牛が癩病(らいびょう)に罹って床に伏した。孔子はこれを見舞い、窓越しに手をとって、「何とも理不尽なものよなあ。これも天命によるのか。こういう立派な人がこのような病に罹るとは。こういう立派な人がこういう病に罹るとは」と云って愛弟子を慰めた。
【解説】
伯牛は初期のころからの門人で、徳に優れた十哲の一人。孔子より7才年下。
原文には癩病とはありませんが、「之を亡ぼせり」と云っているところを見ると、当時の医術では治る見込みの無い病に犯されていたのでしょう。
又、窓越しに見舞ったとありますから、感染する恐れのある病気でもあったのでしょう。
そう思って病名を癩病とさせてもらいました。
現代は、「プロミン」と云う特効薬がありますから、ハンセン病は不治の病ではなくなりましたが、人類は随分長いことこの病に悩まされて来たようです。
聖書にも癩病のことが載っておりますから、二千年以上前から世界中で怖れられていた病だった訳ですね。
【049】
冉求日わく、子の道を説ばざるに非ず、力足らざればなり。子日わく、力足らざる者は中道にして廃す。今女は画れり。
【通釈】
冉求が、「先生の教えを喜ばない訳ではありませんが、力不足でどうもついて行けそうにありません」と云った。孔子は、「本当に力が足りないのであれば、喜ぶどころか学ぶこと自体が苦痛であって、途中で投げ出してしまうものだ。今お前はやってもみないうちからあきらめている。自己限定し過ぎるものではない!」と諭した。
【解説】
冉求は政治に優れた十哲の一人で、孔子より29才年少。
ちょっと引っ込み思案のところがあったようで、しばしば孔子に「一歩踏み出せ!」・「良いと思ったことは即実行せよ!」等々と諭されております。画(かぎ)るとは「自己限定」することですが、自己限定にも三通りがあるようです。
一は、やるだけはやってみたけれど、経験則から自分には向いていないと覚った上での自己限定。
二は、万事に引っ込み思案で、やる前から気後れして腰が引けてしまう自己限定。
三は、やってもみないうちから面倒くさがって「出来ません!」と、力の出し惜しみをする自己限定。
一のタイプは、ガンバレ!ガンバレ!と励ますのは酷ですね。程々にやらせながら、他に向いたものが無いか探すのが賢明。
二のタイプは、ガンバレ!やれば出来る!と励まし続けてやれば、何とかものになります。
三のタイプはどうしようもない。怠け者につける薬は今の所ありません。
皆さんの身の周りにもいませんか?三のタイプの人が。
案外多いんですよ、このタイプが。
やってもみないうちから「出来ません!」などと画るものではないんですよ。画ったつもりで逆に見限られるのは自分なんですから。
やれるかやれないか分からない時は、「精一杯やってみます!」と勇気を持って引き受けてみるものです。
結果はどうあれ、経験と云う宝物を手にすることができるのだから。
【050】
子日わく、質、文に勝てば則ち野。文、質に勝てば則ち史。文質彬彬として、然る後に君子なり。
【通釈】
孔子云う、「中身(実質)が外見(文飾教養)より勝った者はどこか野暮ったい。外見が中身より勝った者はスマートだが実がない。外見と中身がバランスよく調和しているのが、本物のジェントルマンである」と。
【解説】
ここでの君子は、ジェントルマン(紳士)と訳した方が良いでしょう。
中身さえしっかりしていれば外見はどうでもいい!と云う人がいるかと思えば、中身を疎かにして外見ばかり磨く人もいる。
孔子は、中身か?外見か?ではなくて、中身も外見もどっちもだ!と云う。
そう云えば孔子は、酒も飲むし歌も歌う、オシャレでもありグルメでもありました。
普段私達が人と接触して、「この人は気品があるな!?」と感じる場合、どのような所に目をつけているかと云うと、殆ど意識せず三つ位の物差しで見ている。
その一は、「応対辞令」のしっかりした人か?
その二は、「出処進退」のさっぱりした人か?
その三は、「反省改過」の素直な人か?
その中でも、初対面で分かってしまうのが「応対辞令」・応対接遇の際の言葉づかいや態度ですから、ここがしっかりしておりませんと、どんなに中身が立派でも、「こりゃダメだ!」となってしまいます。
ですから、文質彬彬・外見も中身もバランスよく調和していることは大切なんですね。
【051】
子日わく、人の生くるや直し。之を罔いて生くるや、幸いにして免るるなり。
【通釈】
孔子云う、「人がこの世に生かされているのは、素直に生きるからであって、ヒネクレて生きるのは、まぐれに幸運を得て災難を免れているだけだ」と。
【解説】
徳の解字は、彳+直+心でありまして、本来は素直な心で素直に生きる(行う)と云う意味です。
彳(テキ)とは適(かな)う、則ち行為・実践を表す言葉です。
ですから、素直さを欠いていたら、そもそも徳など身につかない。
仁も義も礼も知も信も、すべては言葉遊びの絵空事に過ぎません。
前に、「徳はすべて仁ベース(土台)」と申しましたが、人を思いやるに素直であれ!と云うことですね。
【052】
子日わく、之を知る者は、之を好む者に如かず。之を好む者は、之を楽しむ者に如かず。
【通釈】
孔子云う、「頭で知るだけでは、経験を通して好きになることに及ばない。好きになるだけでは、一体となって楽しむことに及ばない」と。
【解説】
自己と対象(人でも物でも事でも)との間には、「心理距離」則ち、心理的距離感と云うものがあります。
知らない事柄(対象)に対しては、心理距離は無限に遠いものですが、知ることによってその距離は自分の視界に入る所となる。
知って好きになれば、心理距離はぐっと縮まり、至近距離まで接近する。好きを通り越して、人生の楽しみの一つになれば、自己と対象は一体となって、心理距離はゼロとなる。
私達は、様々なものを見たり・聞いたり・触れたりしているうちに、ある特定の物事に興味や関心を抱くようになり→もっと詳しく知りたくなり→段々好きになり→習慣化して来る。
習慣化して来ると、もう好きとか嫌いとかを通り越して、自己と対象が一体となる。
これが、「楽しむ」と云うことなのではないでしょうか。
【053】
子曰わく、中人以上には、以て上を語るべきなり。中人以下には、以て上を語るべからざるなり。
【通釈】
孔子云う、「中根以上の人には、高尚なことを語っても理解できるだろうが、下根の人には、高尚なことを語っても理解できないものだ」と。
【解説】
上根・中根・下根とは元々仏教用語ですが、根(こん)とは機根つまり、資質や能力のことです。
分かり易く云うとすれば、
上根とは‥‥云われなくても分かる人。
中根とは‥‥云われれば分かる人。
下根とは‥‥云われても分からないし、又分かろうともしない人。
と考えて良いのではないでしょうか。
「老子」も似たようなことを述べておりまして、「上士(じょうし)は道を聞いては勤めて之を行わんとし、中士(ちゅうし)は道を聞いては存するが如く亡きが如く、下士(かし)は道を聞いては大いに之を笑う」、訳しますと「上根の人は実相(真理)を聞くと努力して実践しようと勤める。中根の人は実相を聞いても半信半疑だが、それでも頭から否定はしない。下根の人は、実相を聞いても、そんなことがあるものか!と嘲笑う」。
そして次に止めを刺します、「笑われざれば、以て道とするに足らず(下根の人に笑われるくらいでなければ、本物の実相とは云えまい)」と。
以下に例題を書いてみますから、分かるか? 半信半疑だが信>疑か?
信<疑か? 全くの作り話しと思うか? 自分で判定してみて下さい。
『人間の本質は魂である。肉体は魂の乗り舟である。魂は神の種(神性・仏性)を宿した永遠不滅の存在であって、生まれ変わり死に変わり則ち輪廻転生を繰り返しながら、無限の進化を遂げて行く。これが人間存在の実相、本当に本当の姿である』と。
さあいかがですか?
「その通り!」と思った方は上根。
「へえ〜?」と思いながらも、信>疑の人は中根。
「まさか?」と思って、信<疑の人は下根。
「そんなことがあるものか!?」と思った人は最下根。
実相を語らず、魂進化を前提にしない人生論・人生哲学など、本当は子供騙しみたいなものなんだけれど、未だにこの星ではこう云うものが語られたり読まれたりしているんですね。
残念だけど仕方がないね、自由意思は尊重しなければなりませんからね。
【054】
子曰わく、中庸の徳たるや、其れ至れるかな。民鮮きこと久し。
【通釈】
孔子云う、「中庸の徳と云うのは、人として至高のものである。この徳が人々の間で廃れてしまってから久しくなる。残念なことだ」と。
【解説】
中庸とは、「ニュートラルなハイブリッド進化論」のことでありますが、その中庸の徳には二つのポイントがあります。
一つは、「不偏不倚(ふへんふい)過不及無し」つまり、偏らず、寄りかからず、過ぎることなく及ばぬこともなく、中正(ニュートラル)を得ること。
極端を避けること。
今一つは、相対立するものを混成(ハイブリッド)し、統一止揚してより高い次元に持って行くこと。
大調和をはかりながら、無限に進化して行くこと。
この二つですが、足して二で割る妥協論のことではありません。
【055】
子貢曰わく、如し博く民に施して、能く衆を済う有らば何如。仁と謂うべきか。子曰わく、何ぞ仁を事とせん。必ずや聖か。堯舜も其れ猶諸を病めり。夫れ仁者は、己立たんと欲して人を立て、己達せんと欲して人を達す。能く近く譬を取る。仁の方と謂うべきのみ。
【通釈】
子貢が、「もし人民に遍(あまね)く恩恵を施し、よく衆生を救済することが出来たなら、仁と云うべきでしょうか?」と質問した。孔子は、「それが出来たら仁どころではない。聖人と云ってよかろう。堯(ぎょう)・舜(しゅん)ほどの聖天子でさえ、中々それが出来ないと云って気をもんでおられたのだ。仁者とは、自分がこうありたい!ああなりたい!と思うことは先ず人にやってあげる。つまり、よく我が身に置き換えて身近な所から実践して行く。これが仁者のやり方である」と答えた。
【解説】
堯も舜も中国古代の帝王で、帝堯・帝舜と称され聖天子と云われた人物です。
私事で恐縮ですが、学校がミッションスクールだったこともあって、論語よりも聖書に親しんでおりました。
新約マタイによる福音書第七章第12節に、「すべて人にせられんと思うことは、人にも亦その如くせよ」と云う有名なイエスの言葉、黄金律(ゴールデンルール)があります。
初めて論語を読んで本章の「己立たんと欲して人を立て、己達せんと欲して人を達す(自分がこうありたい!ああなりたい!と思うことは、先ず人にやってあげなさい!)」なる文章に接した時、全身を電流が突き抜けるような衝撃を受けました、「孔子はイエスのゴールデンルールと同じことを云っている!!」と。
正直云ってこの時からなんです、本気で論語を読む気になったのは。
それまでは、教養として一通り読んでおかないといかんかな?程度の軽薄な気持でした。
以後、論語は百回以上読んでおりますが、読めば読むほど、孔子とイエスは考え方が似ているなあ!?と感じます。
大方の論語読みは、顔淵第十二及び衛霊公第十五にある、「己の欲せざる所は人に施すこと勿れ」を聖書のゴールデンルールになぞらえて論語の黄金律としているようですが、「自分が嫌なことは人に仕向けるな!」と云うのは、新約では第12節ではなく、その前の第9節〜第11節「汝等のうち、誰かその子パンを求めんに石を与え、魚を求めんに蛇を与えんや。さらば汝等悪しき者ながら、善き賜物をその子らに与うるを知る」がこれに対応します。
論語をよく読む人で聖書もよく読む人など滅多におりませんし、聖書をよく読む人で論語もよく読む人なども滅多にいない。
だから、最初に早とちりした人の言説がずーっと伝わって来たのでしょうね。
論語のゴールデンルールは本章の「己立たんと欲して人を立て、己達せんと欲して人を達す」・自分がこうありたい!ああなりたい!と思うことは、先ず人にやってあげなさい!!です。
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