前集・23〜39

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2006−2−4

23)人の悪を攻めるは
他人の悪を責めて善に向かわせようとするとき、あまり厳しすぎてはならない。その人が、それを受け入れられるかどうかの程度を考える必要がある。また、人を教えて善をさせようとするとき、あまりに高すぎてはならない。その人が、それを実行することができるかどえかの程度を考えて、実行できるようにしなければならない。

  軍隊での教育を例にとっても、一兵卒ならマニュアルどおりで良いが、
  将校クラスになると、対機で行わないと効果がない。  
  対機についてはこちらを参照 http://www.hongwanji.or.jp/minna/2005/min051001.htm

  人間の力を伸ばすには「6掛・2割増」の法則が有効
    ・100点満点の試験で、50点しかとれない子供に、いきなり100点を目指せと言っても無理
    ・まず100点の6割の60点がとれるよう、励ます。
    ・60点が取れたら、60点の2割増しの72点がとれるよう励ます。
    ・72点がとれたら、72点の2割増しを目指させる。           

24)糞中は至穢(シワイ)なるも

糞土から生ずるうじ虫は、きわめて穢いものではあるが、後に変じて蝉になり、白露を飲みつつ秋風によい声で吟ずるようになる。また、腐草はもと光がないが、後に化して蛍になり、夏の夜に美しい光彩を輝かすようになる。これによっても、なるほど、潔いものは常に汚れたものの中から生まれ出るし、光り輝くものは常に暗やみの中から生まれ出るということがわかる。

  この章の主題は「潔は常に汚より出で、明は常に晦より出ずるを」。
  「艱難、汝を珠にす」とも同義
  釈迦は蓮を好んだ。その訳は、蓮はヘドロの中に根をはり、綺麗な花を咲かせるから。
    人間も、植物も、動物も、すべてが「潔は常に汚より出で、明は常に晦より出ずる」
  純粋培養の温室育ちでは、ダメ。


25)矜高倨傲(キョウコウキョゴウ)は

誇り高ぶったり、他を見くだして威張ったりするのは、すべて勝心客気の仕業でないものはない。この空元気をすっかり押さえつけてしまうことができて、そこで初めて真の元気が伸びてくる。愛憎や欲望、利害打算の知恵などは、すべて妄信の仕業である。この妄信をすっかり消滅させてしまうことができて、そこで初めて真心が現われてくる。

  客気とは、から元気の事
  
与謝野鉄幹がつぎのように言った
     妻をめとらば才たけて みめうるはしくなさけある
     友をえらばば書を読みて 
六分の侠気四分の熱

  だが、
六分の侠気では多すぎる。三分でよい。
  
過去、客気にとらわれた例は、ナチス、文化大革命
  「妄」という文字を漢和辞典でひくと、女に心を奪われて、正気を失った状態のこと
  一般的に、「客気」も「妄信」も若いときは盛んであるが、年をとるにつれて落ち着く。
  しかし、年齢を重ねても、「客気」「妄信」がとれない人間がいる。その者は26章を見る事。 
   

26)飽後に味を思えば
食欲を満たした後に味のことを思ってみると、うまいまずいの区別もすっかりなくなり、情事を満たした後に色欲のことを思ってみると、男女の欲もすっかり消えてなくなる。それ故、人は常にその事が終わったあとの気まずさを思い浮かべて、その事に臨んで、その場で起こる愚かな心の迷いを醒ますようにすれば、本心がしっかりと定まって、行動にまちがいがなくなる。

  この章で言いたい事は、「その事に臨んで、その場で起こる愚かな心の迷いを醒ますようにすれば、
  本心がしっかりと定まって、行動にまちがいがなくなる」。原文は「破臨事之痴迷、則性定而動無不正」。

  私はまだ年を重ねても、この心境にはなっていないのかもしれません。豪華な料亭料理、フランス料理も、
  三日続ければ飽きるでしょうが、すてきな女性ならば、欲が消えることはないような気がします。
  でも、その前に腰を治さなければなりません。・・・妄言です。  

27)軒冕(ケンベン)の中に居りては
高位高官の地位にある者には、一面において、山林に隠退しているようなおもむきがなくてはならぬ。(さもないと、地位に恋々としているようで、人柄が鄙俗[ヒゾク]になってしまう)。また、世を逃れて山林に閑居している者には、天下国家を経綸するような見識をもっていなくてはならぬ。(さもないと、全くの非社会的な田父野老になってしまう)。

  22章の補足。  

 28)世に処しては
世渡りでは、必ずしも功名を立てなくてもよい。大過なく過ごせれば、それがすなわち功名だ。また、人と交わるときは、わが恩恵に感謝することを求めてはならない。怨まれなかったらもそれがすなわち恩恵だ。

  練れている人物が、このように言うと、味がある。  

 29)憂勤はこれ美徳なり
苦心して仕事に励むのは、たしかに美徳である。しかしあまり苦心してあくせくしすぎると、本性をたのしませ心情を喜ばせることができなくなってしまう。また、さっぱりして執着がないのは、たしかに風格が高い。しかし、あまり枯れて干からびすぎると、人を救い世に役立つことがなくなってしまう。

  緊張の連続をしいられる立場にいる人は、ふっと息を抜く事が必要。
  淡々とした生活をしている人は、キラッと輝く意気が必要。
  淡々した生活のみでは「担板漢」となってしまう。
    担板漢についてはこちらを参照  
         http://www.tcn-catv.ne.jp/~sugizaki/tontinkan/wotoko.htm    

30)事窮まり勢ちぢまるの人は
仕事に行きづまり形勢が全くきわまった者は、よろしくそれに志した初心に立ち返って考え直すべきである。(反対に)、すでに功成り名遂げた人は、ゆく末のことを見定めておくことが必要である。

  行き詰まった時は、原点に戻ろう。人の弱みに付け込む事件屋が多くいる。
    間違っても実印を渡してはならぬ。
魯迅が「水に落ちた犬はたたけ」という
    非情な言葉を残しているが、このとおり行動する輩は多くいる。
  でも、
行き詰まる前に、折にふれ原点に戻ろう。

  金儲けは善でも悪でもない。中立である。マスコミは、薄っぺらい正義感で常に金持ちを批判する。
  損益計算書でしか会社を判断出来ない記者は、貸借対照表のビジネスを理解できない。
  ただ、ライブドアは金の亡者なので、論外。

31)富貴の家は
金持ちで地位の高い人は、当然、おっとりして手厚いはずであるのに、かえって猜疑心が強く無慈悲である。これは物質的には富貴であっても、精神的にその行為を貧賤にしている。これではどうして真の幸福を受けることができようか。また、聡明な人は、当然、その才智を収め隠し控えめにするはずであるのに、かえってこれ見よがしに利口ぶる。これは才智の方では聡明であっても、欠点のほうでは暗愚の人に異ならない。これではどうして失敗せずにおられようか。(富貴に捉われ聡明に淫するのは、人間の弱点である。後集の33,34参照) 

  例@ スターリン    最高権力者になると、側近をつぎつぎに粛清していった

  例A キッシンジャー すばらしい頭脳の持ち主だったが、ユダヤ人のため、ドイツと同盟国であった
                                日本には怨念をもってたようだ。幼いころの体験が心に刷り込まれたのであろう。
               子供の時の刷り込み現象(インプリンティング)は恐ろしい。
               キッシンジャーの頭脳のすばらしさは十分に理解されているが、ドイツと日本に
                                対する異常な思いと行動は、これから研究されるべき分野であろう。     

32)卑(ヒク)きに居りて後
低いところに安んじていると、初めて、高いところへ登ることが、いかに危険であるかがわかる。また、暗いところに慣れると、初めて、明るいところへ出ることが、あまりあらわれすぎることがわかる。(これと同じ理由で)、静虚をあつく守っていると、初めて、世俗的な活躍ばかりを好むのは、ついに徒労にすぎないことがわかる。また、寡黙を養い守っていると、初めて、多弁が、いかにさわがしく無駄なことであるかがわかる。

  10年前の社会党がよい例。自民党と連立し政権与党となったら、すぐに立場を変え、
    「自衛隊賛成」「日米安保堅持」「原発推進」を宣言した。平成17年2月、また態度を変え、
    「自衛隊は憲法違反」と言い始めた。
  こちらを参照  http://banmakoto.air-nifty.com/blues/2006/02/post_6adf.html

  たまに、テレビは見ない、新聞も見ない、誰とも会わない、という一日をつくったらどうか。
    そして心行くまで古典を読むこと。まさに慎独 http://meigen.poke1.jp/w-morinobuzoh28.html

 

2006−3−11

33)功名富貴の心を
功名を立て富貴を願うのは人情であるが、その心を放下してしまえば、初めて凡俗の域を脱することができる。(功名富貴に捉われていては、それ以上に貴いものが人生にあることを見失ってしまうからである)。同様に、道徳仁義の心を放下してしまえば、それでこそ真に聖人の域に入ることができる。(道徳仁義の捉われていては、融通の利かない人間になり、悠々として自適する達人とはなれないからである)。

 功・・・手柄
 名・・・名をあげる
 富・・・金持ち
 貴・・・高い身分

 功名富貴は、善でも悪でもない。中立の価値である。人間の自然の感情でもある。
 功名富貴は、個人においては、ほどほどにすべきだか、組織にとっては絶対に必要な要素である。

 
里仁第四で、孔子も言っている http://rongo.jp/kaisetsu/rongo.php?71,1
 「富と貴とは、是れ人の欲する所なり」「貧しきと賤しきとは、是れ人の悪む所なり」

 陽貨第十七 「
・鄙夫(ヒフ)は與(トモ)に君に事(ツカウ)べけんや」
 https://rongoni-manabukai.jp/rongo.htm  ここの2/4を参照
 人間は退き際の潔さで、その大きさが計られる。


 おまけのクイズ  ○に漢字を入れて、四文字熟語を完成させる・・・早稲田大学の試験より

         一般的な正解        思わず笑う解答
 ○肉○食    弱肉強食          焼肉定食
 品○方○    品行方正          品川方面
 一○○中    一発必中 一極集中   一口最中  
 首○一○    首尾一貫          首狩一族

34)利欲は未(イマ)だ尽(コトゴト)くは心を
利欲の心は、まだことごとくは本心を害するものではないが、それよりもかえって我意我見の方が、本心をむしばむ害虫である。また、愛欲の心は、まだ必ずしも道に入る邪魔となるとは限らないが、それよりもかえって小ざかしく聡明ぶる方が、道に入るのを妨げる障害物である。

 著者の洪自誠は、仏教、儒教、道教をすべてマスターしていた。
 自我欲はとは「オレが、オレがという心、自分の思い通りにならなければ、気がすまない態度」すべてダメ。
 
 仏教では「諸法無我」・・・すべてのものには実体がない
 キリスト教では「自らを高しとする者は、低くせらるる、自らを低しとする者はあげられる」
 孔子は「その智は及ぶべきなり、その愚は及ぶべからざるなり」   

35)人情は反復し
人情は掌(テノヒラ)を反するように変わりやすく、人生の行路はまことに険しい。(そこで人に譲る心掛れが必要になる)。たやすく通れない小路にさしかかったら、まず自分の方から一歩退いて他人に先に行かせるようにするがよい。また、楽に通れるところでも、つとめて十分のうち三分は他人に譲る工夫を積むようにするのがよい。(たやすく通れないところでは一歩、たやすく通れるところでは三分という。たやすくないところでは、その一歩を争っているがためであり、たやすいところでは、争わないからではあるが、人に譲るという心掛けの点では少しも変わらない。前集17と同意)。

  「退一歩、譲三分」まさに格言。

36)小人を待つは
小人に対しては、(その欠点を責めて)、いくらでもきびしくすることはたやすいが、それによってその人まで憎みやすいので、その人を憎まないという点がむずかしい。(これに反して)、君子に対しては、(その美点長所を尊敬して)、へりくだって恭しくすることはたやすいが、過不及のないよう礼を尽くすという点がむずかしい。

  このような行いができるのは、魂が練れているからである。凡人にはなかなか難しい。
 
 
話が、東京裁判に及んで・・・合同例会の2005−01に、東京裁判、
盧溝橋事件、通州事件、
  などの参考サイトが紹介されています。
 https://rongoni-manabukai.jp/goudou2005-01.htm

37)寧(ムシ)ろ渾噩(コンガク)を守って
処世の態度としては、むしろ朴直を守るようにして、利口ぶることをしりぞける方がよい。そして天地の正気だけは我が身に留めて死ぬときには天地にかえすがよい。また、むしろ華美な生活をしりぞけて、淡白な生活に甘んじる方がよい。そして、一個の清き名だけは世の中に残しておくがよい。


 正気  正しい心栄え
 清名  すがすがしい人格

 
正気をセイキと読めば、反対語は邪気。ショウキと読めば、反対語は狂気。
 清名の反対語は、汚名。
 
 
 

38)魔を降す者は、先ず自心を降せ
魔性のものを降伏せしめんとする者は、何よりもまず自己の心にうち勝つようにせよ。自己の心にわだかまる煩悩や妄想を退治すれば、本心が明らかになり、さまざまな悪魔も退散し、かしこまってしまうものである。また、横着なものを制御せんとする者は、何よりもまず自己の気持を制御するようにせよ。自己の気持に勝心や客気を制御すれば、気持ちは平静になり、さまざまな外道も侵入せず恐れ入ってしまうものである。

 

39)弟子を救うるは
弟子を教育するのは、ちょうど箱入娘を養育するのと同じで、最も大切なことは、その出入りを厳重に監督し交友に注意することである。もしこの点をおろそかにして、一度、よからぬ者に近づいたら、必ずその悪風に染まってしまう。それは清浄な田地に一個の不浄な種子をまくようなもので、必ず不浄な種子がはびこって、それこそ一生、よい稲の苗など植えられなくなるのと同じである。

 人は環境と習慣の生き物。人は環境と習慣によって育まれる。

 環境は、精神的環境と物質的環境がある。 
 習慣には、思考の習慣(意)、言語の習慣(口)、行動の習慣(身)がある。

 風とは、環境と習慣が一体になったもの。 家風、校風、社風、郷土風、国風

 話変わって、中国人を怒らせるには「メンツをつぶす事」、韓国人を怒らせるには「無視する事」
 日本人を怒らせるには「理不尽な事を三度繰り返す事」。

 日本人は、理不尽な事を三度繰り返されると義憤が生じて、堪忍袋の緒が切れる。日清戦争、
  日露戦争、太平洋戦争の開戦をみると、すべて証明される。