季子第十六 441

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原文

孔子曰、見善如不及、見不善如探湯。吾見其人矣、吾聞其語矣。
隠居以求其志、行義以達其道。吾聞其語矣、未見其人也。
 

〔 読み下し 〕

孔子(こうし)(のたま)わく、(ぜん)()ては(およ)ばざるが(ごと)くし、不善(ふぜん)()ては()(さぐ)るが(ごと)くす。(われ)()(ひと)()る、(われ)()()()く。隠居(いんきょ)して(もっ)()(こころざし)(もと)め、()(おこ)ないて(もっ)()(みち)(たっ)す。(われ)()()()く、(いま)()(ひと)()ざるなり。
 

〔 通釈 〕

孔子云う、『善行を見たら、及ばずながらも良きお手本とせよ! 不善な行いを見たら、熱湯に手を突っ込んでとっさに手を引くように、気を引き締めよ!』という言葉があるが、私は実際にこの目でそういう人を見たことがあるし、話しで聞いたこともある。又、『俗世を捨てて我が道(志)求め、厳しい修行を積んで悟りを開いた人がいる!』という話しもあるが、噂では聞いたことがあっても、まだこの目でそういう人を見たことがないのだ」と。
 

〔 解説 〕

孔子は一体何を云いたかったのでしょうか?後段の「義を行ないて以て其の道を達す」なる文章は何とも訳し辛く、直訳すれば「正道を踏み行なって、其の志を達成する」となるけれども、孔子はそういう人には未だに出会ったことがないと云う。

431章の解説でも述べたように、本編に集録されている孔子の言葉は、晩年に入門
したその他大勢の弟子の記述したものではないかと思われますので、本章は孔子が衛の大夫蘧伯玉に出会う前の話しではない。蘧伯玉はここで直訳した通りの立派な人物でしたし、孔子と親しかった。勿論何度も会っている。(衛霊公第十五395章参照)

つまり、孔子がここで云う未だに出会ったことのない人物像とは、蘧伯玉をはるかに凌ぐ程の大人物のことを云っているのであろうと思われますから、直訳しただけでは物足りないことになります。孔子が出会ったことのない大人物とは一体どんな人だろうか?と考えあぐねた末、フッと頭に浮かんだことは、もしかして遠く印度の地に住む釈迦の噂を伝え聞いたのではないか?

孔子と釈迦は同時代の人で、釈迦は孔子より15才年上です。釈迦の姓はゴータマ名はシッダールタ、シッダールタとはサンスクリット語で「目的を達成したる者・悟りたる者」の意だそうです。釈迦は29才の時に我が道を求めて出家し(俗世を捨て)、六年間苦行の末、35才の時ブッダガヤーの菩提樹の下で悟りを開いたと云われる。

孔子は晩年になってこの噂を聞き、「これはすごい人がいたものだ!できることなら生きているうちに会ってみたいものだ!!」と感じてポツリと本章の言葉を語ったのではなかろうか?どうもそんな気がします。これが孔子71〜2才頃の話しだとすれば、釈迦は既に亡くなっておりましたが(80才で入滅)、孔子は死ぬ迄好奇心旺盛な方でしたからね。

尚、本章の解釈には先人も随分頭を悩ませたようで、百人百様の捉え方をしています。中には「で、どういうことなの?」と問われたら答えに窮してしまうような、ちゃんとした日本語になっていないものもある。興味のある方は図書館で調べてみて下さい。孔子は晩年に釈迦の噂を聞き、一度会ってみたいものだ!と思ったのではないか!?などと勘繰った解説書は、一冊もありません。


もっとも、釈迦の生没年代は、BC566〜486年の他に、BC463〜383年とする説もありますから、時代考証を重んずる学者さんには、思っても書けなかったのかも知れませんが。盲蛇に怖じずって所かな?私は。そんな気がする!というだけで書いてしまうのだから。
 

〔 子供論語  意訳 〕

孔子(こうし)(さま)がおっしゃった、「(ひと)のふり()()がふり(なお)せ!ということわざがあるが、これは大切(たいせつ)なことだから、日々(ひび)(こころ)がけとしなさい。(つぎ)は、自分(じぶん)将来(しょうらい)どんな人間(にんげん)になりたいのか?一人(ひとり)でじっくりと(かんが)えて、自分(じぶん)将来像(しょうらいぞう)(おも)(えが)いてごらん。これだ!(かく)(しん)するものがあったら、目標(もくひょう)()かって人一倍(ひといちばい)努力(どりょく)をしなさい。マリナーズのイチローのように。(ひと)()みの努力(どりょく)では、(ひと)以下(いか)にしかなれないんだからね」と。
 

〔 親御さんへ 〕

そうですか、人並みの努力では人以下にしかなれませんか?人一倍やってやっと人並みですか‥‥。そう云われてみれば、確かにその通りですね。世の中上には上があり、下には下がある。

不思議なことに、出来の良い子ほど上には上があると思って人一倍努力するけれども、出来の悪い子に限って、下には下があると思って人並みか人並み以下の努力しかしないようです。だから必然的に出来る子と出来ない子の差が益々開いてしまう。

これは大人の世界でも同じです。子供時代の習い性を持ち越してしまうんですね。子供の時に頑張屋だった子は、大人になっても頑張屋、子供の時にちゃらんぽらんだった子は、大人になってもちゃらんぽらんです。

エッ?どうしたら家の子のちやらんぽらんを直せるだろうかですって? 残念ながら直せません!感染源はあなたですから、あなた自身がそれを直さない限り、子供は親元を離れるまで感染し続けます。ちゃらんぽらんな人に限って、自分はちゃらんぽらんではないと思っているし、頑張屋ほど、もしかして自分はちゃらんぽらんではないだろうか?と憂えているものなんですね。

まずはあなたが子供の前で劇的に変身してみせなさい!毎朝一時間早く起きて、論語の素読を始めてみなさい!わざと子供に聞こえるように。一ヶ月続けてみなさい、必ず我が家に変化が起きるから。一ヶ月でダメなら三ヶ月続けてみなさい、三ヶ月でダメなら一年続けてみなさい。

ほ〜ら、劇的な変化が起きたでしょう?ちゃらんぽらんなあなたが、一年間毎朝欠かさず実践し続けた習慣など、今迄にあったでしょうか? やればちゃんとできたじゃないですか!?生まれ変わったじゃないですか!! 心配いりません、子供はあなたのその姿を見て、必ず何かを感じ取っていますから。子は親の鏡、親は子を照らす光りです。
 

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