憲問第十四 387

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〔原文〕
原壌夷俟。子曰、幼而不孫弟、長而無述焉、老而不死。是爲賊
以杖叩其脛

〔読み下し〕
原壌(げんじょう)()して()つ。()(のたま)わく、(よう)にして(そん)(てい)ならず、(ちょう)じて()ぶること()く、()いて()せず。(これ)(ぞく)()す。(つえ)(もっ)()(すね)(たた)く。

〔通釈〕
孔子の幼なじみの原壌が、孔子が来るのをしゃがんだままで待ち受けた。孔子はそのだらしない様を見て、「子供の頃は目上に逆らい、大人になってからもこれといった善行もなく、年をそっても死ぬに死ねず世の厄介者となっておる。この穀潰し!お前は一体何をしにこの世に生まれて来たのか!?さあ立て!」と云って持っていた杖で原壌の脛を叩いた。

〔解説〕
これは強烈な叱責だ。原壌がどんな人物であったかは分かりませんが、子供の頃からよく知っていて、何かと面倒を見てやった人だったのではないでようか?他人ならば、「是を賊と為す・この穀潰し」などとは面と向かって云えませんから。

これはもう皆さん耳にタコが出来る程聞かされて来て、充分腑に落ちていると思いますが、人は何をしにこの世に生まれて来るのか?と云えば、「魂進化・魂を磨く為」に一人一人が使命を持って、わざわざ肉体を着て出て来る訳ですから、「ガキの頃から生意気で、大人になっても世をスネて、年をとったら鼻つまみ者」の人生であったら、魂を磨くどころか魂を曇らせてしまう、場合によっては魂を腐らせてしまいます。

これも何度も云うように、「人間の本質は魂である。肉体は魂の乗り舟である。魂は神の種(神性・仏性)を宿した永遠不滅の存在であって、生まれ変わり死に変わり(輪廻転生)を繰り返しながら、無限に進化を遂げて行く」という真理がわからず、三次元の肉体がすべて、この世がすべて、物質がすべてと勘違いして生きていると、間違った不幸の観念から抜け出せず、一生肉体煩悩から来る苦しみに振り回されることとなる。三次元の肉体など、脱いでしまえばただの抜け殻に過ぎません。

人生やるべきことをやって使命を果たしたら、さっさとあの世(魂の故郷)に帰った方が、余程苦しみは少ない。無理矢理この世にしがみついて、周りに迷惑をかけ、反感を買う必要などどこにもありません。無理に長生きした為に却って魂を曇らせてしまうことはあるんです。魂にこそ本来の価値がある!と分かっていれば、当たり前のことなんですね、こんなことは。

こういう云いかたをすると、「随分冷たいことを云うじゃないか!?」と思われるかも知れませんが、そう思うこと自体むしろ無明からくる冷たさ、肉体にこそ本来の価値がある!死んでしまえばジ・エンド!永久にオサラバ!と思っているからでしょう?それこそ冷たいじゃないですか!?

肉体などなくても魂は永遠不滅、永久に生き続けているというのに、あっても無きものにしてしまうなんて。数十年しかもたない肉体と永遠不滅の魂と、どっちが大事だと思っているのか?まあ、孔子は原壌にこのようなことを云いたかったのではないかと思います。

〔子供論語 意訳〕
おさななじみの原壌(げんじょう)という(ひと)が、しゃがみこんだまま孔子(こうし)(さま)()()けた。そのだらしないかっこうを()孔子(こうし)(さま)は、「子供(こども)のころから(なま)意気(いき)で、大人(おとな)になったらヒネクレて、(とし)をとったら野暮(やぼ)をこく。そういうのをヘソ()がりというのだ。どうしてお(まえ)はもっと素直(すなお)になれないんだ!サア(まっ)(すぐ)()きてみなさい!!」と原壌(げんじょう)(しか)った。

〔親御さんへ〕
素直でない人程自分は素直だ!と自信満々で、素直な人程自分は素直ではないんじゃなかろうか?と反省しきりのようですね。これはどうしてなんでしょうか?


私達は自分のこととなると全く明き盲ですから、本当のことをズバリと指摘された時、「ああ有難い!よく云って下さった!」と感謝して受け入れられるか?「何を?偉そうなことを云って!お前は何様のつもりだ!?」と撥ね付けてしまうか?つまり、受け止める力・受容力の大小が、人間の器の大小を決める!と云って良いのではないかと思います。

受容力の差で人物のスケールが決まってしまうようです。受容力というのは、知識や理屈によらず、瞬時に物事を受け止める力、即ち、問答無用でバッと全体を掴み取る感性そのものと云って良いでしょう。

21世紀は感性の時代と云われるけれども、ではどうやって感性を磨くのか?これがいまいちはっきりしない。一流と云われるものを見ろ!一流と云われる人と付き合え!一流と云われるものを身につけろ!程度のことは誰でも云うけれど、それではいつ迄経っても擬我(他人に擬した我れ)の殻はブチ破れない。

二流も見、三流も見、番外も見て、初めて一流を見る眼が養われ、一流を超える超一流というものが分かって来る。それぞれにそれなりの良さと限界が分かるから。つまり、〜といわれるものではなくて、〜であると云う眼が養われて来る訳ですね、人物でも、音楽でも、芸術でも、料理でも、技術でも。

この感性を磨くポイントが「受容力」にある訳ですが、受容力の決め手は何か?と云えば、これが「素直さ」ということです。神の子人間としての本性に素直であるから受容力が生まれ、受容力があるから感性が磨かれ、感性が磨かれるから品格がにじみ出る。素直→受容力→感性→品格は一直線につながっている訳ですね。

これは考えてみれば当たり前のことです、品格とは気品と人格、つまり、徳のこと。徳の原字は直+=悳、素直な心で素直に生きるのが徳=悳。ですから、素直でなかったら→受容力は生まれず→受容力がなければ感性は磨かれず→感性が磨かれなければ品格などとは無縁、徳とは無縁の存在となる訳です。

社民党や共産党の政治家を見て、どうしてああ迄貧相になれるのだろうか?あそこ迄品格を無くして卑しくなれるのだろうか?と感じておられる方も多いかと思いますが、これで納得できたのではないでしょうか?そもそもの出発点である「神の子人間としての本性に素直であること」を否定、つまり、自己存在の本質を否定しているからなんですね、唯物主義で。自らを偶然の産物、肉の子人間と勘違いして。
 

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