憲問第十四 370

上へ

〔原文〕
曾子曰、君子思不出其位。


〔読み下し〕
曽子(そうし)()わく、君子(くんし)(おも)うこと()(くらい)(いで)

〔通釈〕
曽子云う、「君子(出来た人物)は、分不相応な思いなど抱かぬものだ」と。

〔解説〕
身分制度のない現代にあって、分相応・分不相応をどう解釈したら良いかと云うと・・・そうですねえ・・・、身の丈に合っているか?合っていないか?キャパシティー(器)とアビリティー(能力)に相応しいか?相応しくないか?と捉えたら良いのではないかと思います。

つまり、社会に於ける自分の位置と、自分自身の力量がちゃんと見えているかどうか?ということですね。これ、簡単なようで非常に難しい。自己限定し過ぎて「引っ込み思案」になるか、自信過剰で「脳天気」になるか、大概はどちらかに偏って中庸を見失ってしまうものです。

蟹は自分の甲羅に合わせて穴を掘ると云います。小さ過ぎれば窒息するし、大き過ぎれば這い上がれない。曽子は反省の大家で、日々身・口・意の点検を怠らなかった人ですが、我々凡人はどうも反省が苦手です。その時は一つ「蟹の穴」を思い出して、身の丈に合っているか?合っていないか?という物差しで自己を点検してみてはどうでしょうか。自分の身の丈が分からない時は、キネシオロジーテストで測定してみれば良い。只今現在のあなたの魂の器が正確に出ますから、ログ○○と。これはごまかしようがありません。

〔子供論語 意訳〕

弟子
(でし)
曽子(そうし)()った、「君達(きみたち)は、まず(いま)(あた)えられた環境(かんきょう)ベストをつくしなさい!
ないものねだりをしてはいけません!」と。

〔親御さんへ〕
えられた環境・与えられた条件でベストをつくす習慣を、子供のうちこら身に付けさせて下さい。我が儘を許してはいけません。この習慣を身に付けているかいないかで、その子の将来に月とスッポンの差が生じます。与えられた環境・条件でベストを尽くす習慣を身に付けさせるとは、心の足腰を鍛えるようなものなんですね。


小さいうちから心の足腰を鍛えられて来た子は、力の出し惜しみをしませんから、将来どんな職場に行っても重宝がられ愛されます。否、それどころか、環境や条件は自分の心が作り出すものだ!とハッと悟る時が来て、自分のみならず周りの人達をも幸せにして行きます。

これとは逆に、我が儘放題に甘やかされて育った子は、心の足腰が鍛えられておりませんから、何をやらせても中途半端で、自分の失敗を外部のせい・社会のせい・環境のせい・人のせいにする。所謂心の卑しい人間になってしまう。こういう子はどこへ行っても嫌われます、否、むしろ居ない方がいい!とされます。心の卑しい者は、自分のみならず周りの人達をも不幸せにしてしまうからです。こんな子供になって欲しくないでしょう?

子供に対する愛情には、優しい面と厳しい面の両方が必要なんですね。優しいだけでもダメ、厳しいだけでもダメ、褒めるだけでもダメ、叱るだけでもダメ、自分の子と思わず、神の子を預かって訓育しているのだと思ってやってごらんなさい。

孔子やイエスのような子を授かって育てているのだと思えば、少しは身も引き締まるのではないのでしょうか。「イヤ、うちの子はそんな大それた者ではない」などとは云わせません!どんな子にも、孔子やイエスと同じ神の種が宿されているのですから。
 

憲問第十四 369 憲問第十四 370 憲問第十四 371
新論語トップへ