憲問第十四 347

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〔原文〕
子曰、有徳者必有言。有言者不必有徳。仁者必有勇。勇者不必有仁。

〔読み下し〕
()(のたま)わく、(とく)()(もの)(かなら)(げん)()り。(げん)()(もの)(かなら)ずしも(とく)()ず。
仁者(じんしゃ)(かなら)(ゆう)()り。勇者(ゆうしゃ)(かなら)ずしも(じん)()らず。

〔通釈〕
孔子云う、「徳の備わった人物は必ず良いことを言うが、良いことを言う人に必ずしも徳が備わっているとは限らない。仁者には必ず勇気が備わっているが、勇者に必ずしも仁の心が備わっているとは限らない」と。

〔解説〕
これは宰我や子張を指して云ったものか?当時の一般論として云ったものか?よく分かりませんが、今も全く変わりがありませんね。この人は志の立派な人だなあ!?と普段から感じている人物の発言は、仮令(たとい)口下手ではあっても味があるし、逆に、志の卑しい人だな!?と感じている人の発言は、どんなに良いことを云っても嘘っぽく感じられる。

喩えば、二年前の中越大地震の際の旧山古志村長(現衆議院議員)長島忠美氏の素朴な語り口調の中に、村民を心から気遣う真心を感じ取った全国の人々から、あれだけ多くの支援・救援が寄せられたのに対し、地元選出田中真紀子(現衆議院議員)のハイヤーによる数十分間の被災地訪問は、誰の目にもパフォーマンスとしか映らなかった。志の卑しさを見抜かれてしまった。

天皇皇后両陛下が、マイクロバスを使って一日がかりで被災地を慰問された様子がテレビ放映されるに及んで、真紀子のパフォーマンスは地元のみならず、全国民の顰蹙を買ってしまった。

「粗にして野なれども卑ならず」という俗諺があるけれども、粗(行き届かず)野(野暮ったい)であるが、志は卑しくない、つまり貴(き)・気高いものがあるかどうかを見抜く能力は、誰にでも備わっているのではないでしょうか。大衆の目を節穴だと思ったら大間違いです。これは政治の世界だけでなく、商売・事業・仕事・人生のすべてに当てはまる黄金律と云っていいのではないかと思います、志の尊卑は。

最善は、「緻(緻密)にして史(スマート)にして貴(気高い)」となるのでしょうが、これは滅多におりません。最低でも親—子—孫の三代百年を要する。
次善は、「粗にして野なれども卑ならず」、これは滑ったり転んだりと悪戦苦闘しながらも、必ず成功を掴み取る。創業者に多いですね。
三善は、「緻にして史なれども貴ならず」、これは親の存命中は何とかやって行けるが、親が死ぬと「売り家と唐様で書く三代目」となる。但し、バカ息子にしっかり者の女房か、出来た番頭がつけばやって行ける。最悪は、「粗にして野にして卑でもある」、これは創業者であろうが、二代目三代目であろうが、しっかり者の女房をもらおうが、出来た番頭がつこうが、まず成功することはありません。生きているうちから過去の人となる。

どんな人にも7年に一度は大きなチャンスが巡って来るものですが、一度や二度は見逃すことはあるかも知れないが、三度目の正直もモノに出来ない、つまり、同じ仕事で21年間もパッとしないようであれば、最早そこ迄!志が卑しかったのだ!!と思って間違いないでしょう。年令にすると、4045才が一つの目安と云ったところでしょうか。

志の卑しい人間は、どんなにヒト・モノ・カネに恵まれても、成功することはありません。ヒトもモノもカネも、生かしてもらえない人の所からは、みな逃げて行ってしまうんです。孔子もこのことを良く知っていたのでしょう、子罕第九231章で、「後生畏るべし、焉(いずく)んぞ来者の今に如かざるを知らんや。四十五十にして聞くこと無くんば(パッとしないようであれば)、これ亦畏るるに足らざるのみ(最早そこ迄)」と云っている。要は志の尊卑がその人の人生を決める!ということです。

過去7年間を振り返ってみてどうでしたか?過去14年間を振り返ってみてどうでしたか?過去21年間を振り返ってみてどうでしたか?運気は上がりましたか?下がりましたか?常々皆さんに、リーダーシップの要諦は、一に人望・二に手腕・三に先見性・四に運と述べておりますが、運の最大のエネルギー源が「志」なんです。尊い志(プラスのエネルギー)は運気をあげ、卑しい志(マイナスのエネルギー)は運気を下げる、これが盛運か衰運かを決めるのです。

「ツイてるツイてるありがとう!」と呪文を何万回唱えても、志がそれでなかたらすべて空念仏、ツキは回って来ないんです。あなたの志(心の向かう所)・・・、夢と希望、想いと願いは一体何ですか?志が尊(たか)ければ、気持も健康になり、財布も健康になり、体も健康になる。志が卑(ひく)ければ、気持も不健康になり、財布も不健康になり、体も不健康になる。これが天地自然の法則です。あっちが痛いこっちが痛いと云う前に、一度己の志を点検してみて下さい。

〔子供論語 意訳〕

孔子(こうし)(さま)がおっしゃった、「(おこな)いの(ともな)った(ひと)発言(はつげん)はいつも説得力(せっとくりょく)があるが、(おこな)いの(ともな)わない(ひと)発言(はつげん)どこかウソっぽい。他人(たにん)(おも)いの(ひと)普段(ふだん)(おだ)やかで(やさ)しいが、いざという(とき)勇気(ゆうき)(ふる)って(よわ)(もの)(まも)ろうとする。(ぎゃく)に、普段(ふだん)から(いさ)ましいことばかり()(ひと)は、いざという(とき)はえてして自分(じぶん)のことしか(かん)えないものだ」と。

〔親御さんへ〕
いじめを苦にした子供の自殺が、大げさにマスコミで報道されておりまして、当会ホームページをご覧の親御さんの中にも、気が気でない方がおられるかも知れません。

自殺を予告する手紙が伊吹文科大臣に届いたりして、一層不安を掻き立てているようですが、国がそこまで面倒をみなければならん問題なのかどうか?気になったのでちょっと調べてみましたら、昨年(2005年)全国小・中・高の児童生徒数約1500万人のうち、一年間で自殺した子供の数は105人。自殺理由の<その他分類>60%の中にいじめによる自殺が含まれるそうですから、最大でもその半分と見て、105人×0.6×0.531人位がいじめによる自殺でしょう。

昨年一年間のいじめによる自殺者は、全児童生徒数に対して0.000002%、百万人に2人、500000人に一人の割合。全人口に対するいじめによる自殺者は0.00000025%、一千万人に2.5人、四百万人に一人の割合。これを多いと見るか少ないとみるか?主観は別にして、数字の上からだけ判断すれば、宝クジに当るより確率の低い非常に稀なことでしょう。最悪今の十倍に増えたとしても、人口40万人に一人の極めて珍しいケースでしょう。病気の場合は奇病と云うんではないですか?こういう確率の症例を。

マスコミは、鬼の首でも取ったかのように、教師の無責任・校長の事なかれ主義・教育委員会の無能を糾弾しているようだが、よした方がいい。連鎖反応が起りさえすれ、何の解決策にもならないような報道は慎むべきです。

子供のケンカは子供同士で解決させる、大人が余計な口を挟まない!というのが、昔からの社会通念でしょう。いじめ問題は子供達同志で解決させたら良い。学校がやるべきことは、児童会・生徒会にはどこにも「風紀委員」というものがある筈だから、ここを拡充強化して「いじめ監視委員会」を設置する。いじめ監視委員会には「駆け込み寺」の機能も持たせる。いじめの通報があった場合、委員会はすぐさま当事者を呼んで真偽を糺す。事実であったら、その日の放課後生徒全員を招集して全校集会を開く。

全校生徒の前で、加害者には「ごめんなさい!もうしません!!」と誓わせ、被害者には「分かってくれてありがとう!今までのことは許します!!」と誓わせ、全校生徒の前で生徒会長が、「皆さん全員が証人です!これにて一件落着!!」と宣して両者に握手をさせる。最後に全員で「私達は、いじめをしない!させない!見逃さない!」と唱和して全校集会を終了する。こうすれば、いじめによる自殺はなくなります。皆が見守ってくれている!という安心感がありますからね。それでも死にたい子は死ねば良い。全校生徒のバックアップを裏切って。子供のトラブルは子供同士で解決させる。教師や校長や教育委員会の出る幕ではない。
 

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