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原文
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作成日 2005年(平成17年)10月から12月 |
顔淵死。子曰、噫、天喪予、天喪予。
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〔 読み下し 〕 |
顔淵死す。子日わく、噫、天予を喪ぼせり、天予を喪ぼせり。
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〔 通釈 〕 |
顔淵が死んだ。孔子は嘆き悲しんで、「ああ、天が私を亡ぼしたのだ、天が私を亡ぼしたのだ!」と云った。
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〔 解説 〕 |
孔子は密かに顔淵を自分の後継者にしたいと考えていたようで、その顔淵に先立たれて「噫、天予を喪ぼせり!」と二度も叫ぶ程の絶望感を味わったのでしょう。
孔子は元来楽天家で、滅多に弱音を吐くことなどない人ですが、この時ばかりは身に応えたようです。顔淵の死によって孔子教学(儒学)は絶えると思ったのかも知れませんが、その後門下から曽子が立派に育ち、曽子の門下から孫の子思が育ち、子思の門下から孟子が育ち、儒学はしっかりと後世に伝えられることとなりました。
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〔 子供論語 意訳 〕 |
顔淵が死んだ。孔子様は深く悲しんで、「ああ、これで私も終わりだ!生きがいを失った!」と嘆かれた。
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〔 親御さんへ 〕 |
楽天家の孔子も、この時ばかりはさすがにガックリ来たようです。我が子のように愛した弟子でしたからね。顔淵が亡くなる一年前には息子の鯉を亡くし、一年後には親分子分のような間柄だった子路が亡くなった。この他に、十哲の中で孔子よりも先に他界したのは、冉伯牛(癩病)・宰我(斉で田常の謀反に加担して落命)の二人がおります。
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