述而第七 183

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原文                   作成日 2004年(平成16年)7月から11月
子曰、若聖與仁、則吾豈敢。抑爲之不厭、誨人不倦、則可謂云爾已矣。
公西華曰、正唯弟子不能學也。
 
〔 読み下し 〕
()(のたま)わく、(せい)(じん)との(ごと)きは、(すなわ)(われ)(あに)(あえ)てせんや。(そもそも)(これ)(まな)んで(いと)わず、(ひと)(おし)えて(うま)ずとは、(すなわ)()うべきのみ。(こう)西華(せいか)()わく、(まさ)(ただ)弟子(ていし)(まな)ぶこと(あた)わざるなり。
 
〔 通釈 〕
孔子云う、「聖人や仁者などというものに、どうして私が及びもつこうや。ただその聖人や仁者の道を学んで怠らず、その道を人に教えて飽きることがないという、それだけのことはあろう」と。これを聞いた公西華は、「私ども弟子達には、正にその学ぶことさえおぼつかないのです」と云った。
 
〔 解説 〕
述而第七152章にも「黙して之を識(しる)し、学びて厭わず、人を誨えて倦まず。何か我に有らんや」とありますから、孔子は弟子達にこういうことをよく云っていたのでしょう。「実るほど頭(こうべ)を垂れる稲穂かな」という俗諺がありますが、孔子という人は、本当は謙虚な方だったようです。
 
〔 子供論語  意訳 〕
孔子(こうし)(さま)がおっしゃった、「(わたし)自分(じぶん)聖人(せいじん)だとか人格者(じんかくしゃ)だとは一度(いちど)(おも)ったことがない。ただ、一歩(いっぽ)でもそれに(ちか)づきたいと(おも)って、日々(ひび)努力(どりょく)(おこた)らないだけなのだ」と。これを()いていた弟子(でし)(こう)西華(せいか)は「(わたし)たちは、その努力(どりょく)中々(なかなか)(つづ)かないのです」と()った。
 
〔 親御さんへ 〕

「学んで厭わず、教えて倦まず」は、指導者・教育者の絶対必要条件ですね。この世は「諸行無常」「変化常道」の真っ只中ある訳ですから、学ぶのを厭うようになったら、個人はそこでストップする。教えることを倦むようになったら、集団はそこでストップする。

年をとっても脳は退化しないということが、最近の脳神経科学で明らかになって来ましたから、生れつき頭が壊れているのでもない限り、年寄りはもっともっと学んだ方が良い。体力は衰えても、頭は死ぬまで衰えないんですよ。

厚生省では65才以上を高齢者としておりますが、新聞社の調査では、73.4才までは殆どの人が自分は高齢者だとは思っていない、という調査結果が出ている。つまり、74才以下は
年寄りではないと云うことですね。〈子供論語〉ホームページの対象は、主に小学生とその両親ですが、最近はオジイチャン・オバアチャンからの問い合わせが多く来ますので、ちょっとサービスしてみました。

小学生のオジイチャン・オバアチャンというと、50代後半〜60才代でしょうかね?「いつ本にするのか?」という問い合わせが結構ありますが、もうちょっと待って下さい。郷党第十(前半)が終わったら考えてみますから。
 

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