後集・52〜

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2009−12−12   52章から59章
2010−02−13   60章から60章
2010−03−13   61章から62章 


後集52項

欲其中者、波沸寒潭、山林不見其寂。虚其中者、凉生酷暑、朝市不知其喧。

其の中を欲にする者は、波、寒潭に沸き、山林も其の寂を見ず。
その中を虚にする者は、凉、酷暑に生じ、朝市も其の喧を知らず。

その心の中を欲でいっぱいにしている人は、白波が澄んだふちに湧き上がるようで、静かな山林に住んでいても、
その静寂さを味わうことができない。(これに反し)、その心の中を空にしている人は、真夏にも涼風が生じ、
騒がしい町なかに住んでいても、その騒がしさを感じない。


  人間の想いは波動である。

  欲念で一杯の人の側に行くとギザギザでイライラした波動が伝わってくるが、
  虚心の人の側に行けば精妙で清々しい波動が伝わってくる。

  都会に行くと、欲念が渦巻いている波動が伝わってくるので疲れた感じになるが、
  田舎に行くとエネルギーが充電された感じになる。

  癒されたい時には田舎のひなびた温泉に行けば良い。
  ひなびた温泉に行けない時は、論語の例会に出席して波動の沐浴をしましょう。


後集53項

多蔵者厚亡。故知富不如貧之無慮。高歩者疾顛。故知貴不如賤之常安。


多く蔵する者は厚く亡う、故に富は貧の慮なきに如かざるを知る。

高く歩む者は疾く顚る、故に貴は賤の常に安きに如かざるを知る。


財産の多い者は、莫大な損をしやすい。だから金持ちよりは貧乏人の方が、失う心配もなくてよいことがわかる。
また、地位の高い者は、つまずき倒れやすい。だから身分の高い者よりは身分のない庶民の方が、
(つまずく心配もなく)、いつも安心していられてよいことがわかる。

  一度で良いから財産や地位を失う心配をしてみたいものだ。

  一燈園の創始者、西田天香氏が言っている。
  『儲けざるは恥なり 儲けてさんせざるはもっと恥なり』
  これで世の中のお金が回り社会が回るもので、商いの王道でしょう。
  http://www.ittoen.or.jp/index2.htm


後集54項

読易暁窓、丹砂研松間之露、談経午案、宝磬宣竹下之風。

易を暁窓に読んで、丹砂を松間の露に研く。経を午案に談じて、宝磬を竹下の風に宣ぶ。


夜明けの窓の下で易経を読みながら、松の葉末のしずくを受けて、朱ずみをする。また、昼の机に向かって経文の
教理を説きながら、宝磬を打って澄んだ音色を竹林をわたる風に響かせる。(朱ずみをするのは句読を施すため、
宝磬を打つのは澄んだ音色に心を澄ませるためであろう)。


  
書家は、葉についた朝露を硯に受けてゆっくりと墨を摺ると、
  精神が落ち着いてきて良い書が書けるという。
  墨汁ではダメで硯で摺ることが良いそうです。

  硯→石+見(ケン)  研→石+幵(ケン)   
 
  
共に「みがく」の意味であるが「硯」は見るに主体があり、
  「研」は石そのものに主体がある。

  墨を摺りながら自らの心を硯に投影して精神をみがくということか。



後集55項


花居盆内、終乏生機、鳥入籠中、便減天趣。
不若山間花鳥、錯集成文、翺翔自若、自是悠然会心。

花、盆内に居れば、終に生機に乏しく、鳥、籠中に入れば、便ち天趣を減ず。
若かず、山間の花鳥の、錯り集まって文を成し、翺翔自若、
自から是れ悠然として会心なるには。


花も植木鉢に植えると、だんだんに生気がなくなってしまい、小鳥も鳥かごで飼うと、次第に天然のよさがなくなっていく。
それよりもやはり、(天然のままに)、山間の花や小鳥が、混ざり集まって色どりを添え、思いのままに飛びまわって、
それぞれがのびのびとして、いかにも楽しげであるのには及ばない。


  荘子の「応帝王編」 <混沌>

    南海の帝を儵(シュク)といい、北海の帝を忽(コツ)といい、中央の帝を混沌といった。
    儵
(シュク)と忽(コツ)とは、ときどき混沌の土地で出会ったが混沌はとても手厚く彼らを
    もてなした。
    儵
(シュク)と忽(コツ)とは、その混沌の恩に報いようと相談し「人間にはだれでも
    〔目と耳と鼻と口との〕七つの穴があってそれで見たり聞いたり
    食べたり息をしたりしているがこの混沌だけがそれがない。
    ためしにその穴をあけてあげよう」ということになった。
    そこで一日に一つずつ穴をあけていったが七日たつと混沌は死んでしまった。


    儵(シュク)も忽(コツ)もつかの間という意味。

    儵(シュク)と忽(コツ)を人間にたとえ混沌を人間になる前の原生命体にたとえた。
    好意によるものであっても人間の作為の愚かさを痛烈に語っている。


後集56項


世人只縁認得我字太真、故多種種嗜好、種種煩悩。
前人云、不複知有我、安知物為貴。又云、知身不是我、煩悩更何侵。真破的之言也。

世人は只だ我の字を認め得ること太だ真なるに縁るが故に、種々の嗜好、種々の煩悩多し。前人云う、
「復た我あるを知らざれば、安んぞ物の貴しとなすを知らん」と。 又云う「身は是れ我ならざるを知らば、煩悩更に
何ぞ侵さん」と。真に破的の言なり。

世間の人々は、ただもう「我」という一字を、あまりにも真実なものと考えすぎている。それで、いろいろな好みや
煩悩が多くなってくる。古人も言っているが、「我のあることもまた知っていないと、どうして、(その我に対してある)
物の貴いことを知ることができようか」と。また言うに、「わが肉身は(仮身であるから)、我ではないことを知っておれば、煩悩などどうして我を悩ますことがあろうか」と。これらは真理を看破した名言である。(我にして我にあらずの真理を
看破している)。


  前段は、「我のある事を知らなければものの貴さがわからない。」
  後段は、「我が身が我が身でない事を知っていれば煩悩に振り回される事はない。」と、
  2つの我について述べている。

  「我」は「真我」と「偽我」の2つある。2つあるが同じものである。梵我一如の考え方。

  「偽我」は、椰子の実の図の、外皮=肉体我、繊維=感情我、殻=思考我である。
  この図には書かれていないが、もう一枚しぶとい皮がある。殻の内側にへばりついている「渋皮」である。
  これは、なかなか取れない。宗教的信条・科学的信条で、本人の魂の光が出てこないようにする
  最後の砦となっている。

 
 「真我」は、<魂>


後集57項

自老視少、可以消奔馳角逐之心。自瘁視栄、可以絶紛華靡麗之念。

老より少を視れば、以て奔馳角逐の心を消すべし。
瘁より栄を視れば、以て紛華靡麗の念を絶つべし。

老年になったときの心持で若い者をながめれば、互いに馳けまわり追い争っている功名を求める心持を、消すことが
できよう。また、落ちぶれたときの気持で栄えている暮らしをながめれば、うわべだけのはなやかな栄華を求める気持を、絶ちきることができよう。(人は年少にして老後を思い、盛んな時に衰えた後を思うべきである)。


  座標軸をずらしてみる。

  何が何でもと意気込むことも必要だが、時には立ち止まって観点を変えて
  自己を振り返って見ることも必要である。肩に力が入っているとポカをやるものだが
  肩の力を抜くと案外うまくいくもの。


後集58項

人情世態、倐忽万端、不宜認得太真。堯夫云、昔日所云我、而今却是伊。
不知今日我、又属後来誰。人常作是観、便可解却胸中罥矣。

人情世態は、倐忽万端、宜しく認め得て太だ真なるべからず。
堯夫云う、「昔日、我と云いしところは、而今却って是れ伊。
知らず今日の我は、また後来の誰にか属せんを」と。
人常に是の観を作さば、便ち胸中の罥を解却すべし。

人情や世相は、たちまちにしていろいろに移り変わるものであるから、あまりその一端だけを真実なものと考えすぎない
方がよい。邵堯夫も言っている、「昔、我であると云ったものが、今ではそうでなくて彼(第三者)であった。従って、
今日の我が、また後日の誰になるかもわからない」と。人は常にこのような見方をしておれば、それで胸中のわだかまりを解くことができよう。

  
一つの事に固執せず「行雲流水」の如く生きなさい。

  昔、禅僧が弟子と旅をしていた。小川で乙女が着物の裾を捲り上げて
  野菜を洗っていた。禅僧は乙女の脚線美に見とれていたが、また何事も
  なかったかのように旅を続けた。
  それを見た弟子は、こんな人について行って良いのかと3日3晩悩み
  師匠に質問したら、「おまえの心は3日前で止まったままだ」と一喝されて
  自分の愚かさを悟った。という話がある。

  3日などならまだ良いが、1年前、10年前、30年前の事に囚われ、
  心を縛り付けたままという場合がある。特に恨みがそうであり、それでは
  生き地獄のようなものである。

  恨みの念などを、思考我の場所では「しょうがない」と思っても、感情我の場所では
  いつまでも悔しいと思ってしまうもの。「タラ・レバ」をやめて、「まあいいか。しょうがない」と
  自分に言い聞かせるしかない。

  孔子も「己(ヤ)んぬるかな!(しょうがない!)」「宜(ウベ)ならずや!(まあいいか!)」と言っている。
 


59項


熱閙中、着一冷眼、便省許多苦心思。冷落処、在一熱心、便得許多真趣味。

熱閙の中に一冷眼を着くれば、便ち許多の苦心思を省く。
冷落の処に一熱心を存すれば、便ち許多の真趣味を得。

目まぐるしく多忙なときに、(のぼせ上がらずに)、一点の冷静な目をすえておれば、それで多くの苦しい思いをしないですむ。(これに反し)、不景気になったところで、(沈みこんだりせずに)、一点の熱情を存しておれば、それで
多くのまことの趣を味わうことができる。

  不景気になるとあの手この手を考えて安売り競争するが、
  何処も同じようにやるので決め手となるものが無く、オール負け組となる。

  企業の業績というものは、トップの注ぎ込んだ情熱の量に比例する。
  情熱は、方向を定めて一点に集中した時に巨大な威力を発揮する。
  情熱を支えるものは、「自分は斯くありたい」という使命感である。


後集60項

有一楽境界、就有一不楽的相対待。
有一好光景、就有一不好的相乗除。
只是尋常家飯、素位風光、纔是個安楽的窩巣。

一の楽境界あれば、就ち一の不楽的の相対待するあり。
一の好光景あれば、就ち一の不好的の相乗除するあり。
只だ是れ尋常の家飯、素位の風光のみ、纔に是れ個の安楽的の窩巣なり。

楽な境界があると、相対に楽でない境界が待っているものである。また、よい暮らし向きのときがあると、その次によくないときが続いて、差し引きしてしまうものである。ただ、ありふれた食事を楽しみ、無位の境遇に甘んじて、それでこそ安楽な住居というものである。

  
あの世では、「光一元」「善一元」であるのに、この世はすべて相対的である。      
   右 ー 左
   上 ー 下
   暑いー 冷たい
   男 ー 女
   善 − 悪

  この世が相対的であるわけは何故か。人生の意味を解く神のはからいなのかもしれない。
  Cい水しか飲んだことがない人は、濁った水の不味さを知らないので、真の意味で清い水の
  うまさを知らない。濁った水しか飲んだことがない人は、Cい水の美味さを知らないので
  真の意味で濁った水の不味さをしらない。

  人生とは、魂をリクリエイトする場なのかもしれない。

  八中練・・・高野大造作
   @ 一疑一信  中練知 (知性) 
 
   A 一喜一憂   中練感 (感性)
   B 一虚一実   中練識 (見識)
   C 一勝一負   中練
 (膽力)  
   D 一進一退   中練機 (機略)
   E 一長一短   中練個 (個性)
   F 一
一笑   中練相 (相貌 人相)
      (ぴん)
   G 一苦一楽   中練人 (人物)

  
後集61項


簾櫳高敞、看青山緑水呑吐雲煙、識乾坤之自在、
竹樹扶疎、任乳燕鳴鳩送迎時序、知物我之両忘。

簾櫳高敞にして、青山緑水の雲煙を呑吐するを看て、乾坤の自在なるを識る。
竹樹扶疎として、乳燕鳴鳩の時序を送迎するに任せて、物我の両つながら忘るるを知る。

高楼のすだれ窓から眺めると見晴らしがよくて、青い山々や緑の流れが、雲やかすみを自由に出入りさせているのが
見え、天地の自在なはたらきがよくわかる。また、竹や木々が枝葉を茂らせて、つばめがひなを育て、はとが鳴いて、
時節をたがえず送り迎えしているのが見え、(わが心はこの自然と一体になって)、物と我との区別もすっかり忘れて
しまう。

   この世は二元相対である。
   死があるから、生を確認出来る。創造があるから、破壊を確認できる。

   この世を貫く原則は「諸行無常」。すべてが変化してゆくことである。
   変化のありようは「乾坤の自在なるを識る」。つまり陰と陽の関わりである。
   造化の妙を感ずること。

   「万物斉同 自他一如」と感ずることが出来ればよいのだが・・・。

後集62項

知成之必敗、則求成之心、不必太堅。知生之必死、則保生之道、不必過労。

成の必ず敗るるを知れば、則ち成を求むるの心は、必ずしも太だ堅からず。
生の必ず死するを知れば、則ち生を保つの道は、必ずしも過労せず。

でき上がったものは、いつかは必ず壊れるものであることを悟れば、でき上がることを求める気持は、必ずしもそれほど
強くはならないであろう。また、生きているものは、いつかは必ず死ぬものであることを悟れば、できるだけ長生きしようと
する方法は、必ずしも過度に苦労するほどのこともないであろう。

   形ある物は必ず壊れる。生ある者は必ず死ぬ。
   吉田松陰の句に「
かくすれば かくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」とある。
   諸行無常ではあるが、「やむにやまれぬ心」は必ずある。

   マズロー
     @生存欲求    生理的本能
     A安全欲求    自己保存本能

     B集団欲求    社会的本能・・・序列をつける    ここまでが生物学的本能

     C尊重欲求    差別化本能・・・自他の別      ここからは精神的本能
     D自己実現欲求 創造本能

後集63項

古徳云、竹影掃堦塵不動。月輪穿沼水無痕。
吾儒云、水流任急境常静。花落雖頻意自閨B
人常持此意、以応事接物、身心何等自在。

古徳云う、「竹影、階を掃うも塵動かず。月輪、沼を穿つも水に痕なし」と。
吾が儒云う、「水流、急に任せて境常に静かなり、花落つること頻りなりと雖も意自から閧ネり」と。
人常に此の意を持して、以て事に応じ物に接すれば、身心何等の自在ぞ。

昔の名僧も言っているが、「風に吹かれて竹の揺れる影が、しきりにきざはしを掃くが、(もとより影であるから)、
きざはしの塵は少しも動かない。月の光が、(沼の底まで達して)、沼を穿っているようであるが、(もとより月影であるから)、水に跡を残さない」と。
また、わが北宋の儒者も言っているが、「水の流れは急であるが、あたりは常に静かである。また、花はしきり落ちるが、眺めている心は自然にのどかである」と。この外境に煩わされない心境で、物事に対応して行けば、なんと身も心も
自由自在であろう。


後集64項

林間松韻、石上泉声、静裡聴来、識天地自然鳴佩。
草際煙光、水心雲影、闥観去、見乾坤最上文章。

林間の松韻、石上の泉声、静裡に聴き来たりて、天地自然の鳴佩を識る。
草際の煙光、水心の雲影、闥に観去りて、乾坤最上の文章を見る。

林の中に聞こえる松風のひびきや、岩の間を流れる泉の声は、心静かに聴き入ると、天地自然の妙なる音楽であることがわかる。また、野末にたなびくかすみや、澄んだ水の中に映る雲の影は、心のどかに見入ると、天地自然の最上の絵画であることがわかる。


後集65項

眼看西晉之荊榛、猶矜白刄。身属北邙之狐兎、尚惜黄金。
語云、猛獣易伏、人心難降。谿壑易満、人心難満。信哉。

眼に西晉の荊榛を看て、猶白刄を矜る。身は北邙の狐兎に属して、尚黄金を惜しむ。
語に云う、「猛獣は伏し易く、人心は降し難し。谿壑は満たし易く、人心は満たし難し」と。
信なるかな。

世人は、西晉が亡んで、その都の跡に雑草が生い茂っているのを見ていながら、なお武力を誇り戦うことをやめない。
また、その身は北邙に葬られて、きつねやうさぎの餌となるのを知っていながら、なお黄金を惜しんであくせくしている。
古語にも、「猛獣を降服させるのはまだ易しいが、人の心を降伏させるのはかえって難しい。深い谷をうずめるのはまだ易しいが、人の心を満足させるのはなかなか難しい」と言っている。全くその通りである。



後集66項

心地上無風濤、随在皆青山緑樹。性天中有化育、触処見魚躍鳶飛。

心地の上に風濤なければ、在るに随いて、皆青山緑樹なり。
性天の中に化育あれば、処に触れて、魚躍り鳶飛ぶを見る。

この心の上に波風さえ立てなければ、どこにいても、(心は動揺せず)、いつも青い山々や緑の木々に囲まれた心境になれる。また、この本性の中に万物を生育するはたらきを自覚すれば、どこででも、魚躍りとび飛ぶの活潑な生意を
見ることができる。



後集67項

峨冠大帯之士、一旦睹軽蓑小笠飄飄然逸也、未必不動其咨嗟。
長筵広席之豪、一旦遇疎簾浄几悠悠焉静也、未必不増其綣恋。
人奈何駆以火牛、誘以風馬、而不思自適其性哉。

峨冠大帯の士も、一旦、軽蓑小笠の飄々然として逸するを睹れば、未だ必ずしも其の咨嗟を動かさずんばあらず。
長筵広席の豪も、一旦、疎簾浄几の悠々焉として静かなるに遇えば、未だ必ずしも其の綣恋を増さずんばあらず。
人奈何ぞ、駆るに火牛を以てし、誘うに風馬を以てして、其の性に自適するを思わざるや。

高い冠に幅広い帯をつけた礼装の士人も、ふと、軽いみのに小さなかさをつけた微服の漁夫や農夫たちが、いかにも
気楽に過ごしているのを見て、(気苦労の絶えないわが身と比較して)、うらやましいと思わないでもなかろう。また、豪華なじゅうたんの上で暮らしている富豪も、ふと、竹すだれの下で小ぎれいな机に向かって読書している人が、いかにも悠然として静かに過ごしているのを見て、(気苦労の絶えないわが身と比較して)、慕わしい気持を起こさないでもなかろう。それにもかかわらず、世人はどうして、尻尾に火をつけた牛を駆り立てるように、また、さかりのついた馬を誘い寄せるように、(功名富貴を求めることに血まなこで)、そうしてばかりいて、自分の本性にかなった悠々自適の生活をすることを思わないのであろうか。

後集68項

魚得水逝、而相忘乎水、鳥乗風飛、而不知有風。識此可以超物累、可以楽天機。

魚は水を得て逝き、而して水に相忘れ、鳥は風に乗じて飛び、而して風あるを知らず。これを識らば、もって物累を
超ゆべく、もって天機を楽しむべし。

魚は水を得て泳ぎまわり、いかにも自由で、水のあることも忘れているし、鳥は風に乗って飛びまわり、いかにも自在で、
風のあることも忘れている。人もこの道理を悟れば、(世の中を泳ぎまわり飛びまわって、しかも世の中を忘れることができれば)、外物に煩わされることから超越することもでき、自然の妙なるはたらきを楽しむことができるであろう。


後集69項

狐眠敗砌、兎走荒台。尽是当年歌舞之地。
露冷黄花、煙迷衰草。悉属旧時争戦之場。
盛衰何常、強弱安在。念此令人心灰。

狐は敗砌に眠り、兎は荒台に走る。ことごとくこれ当年歌舞の地。
露は黄花に冷やかに、煙りは衰草に迷う。ことごとく旧時争戦の場に属す。
盛衰なんぞつねあらん、強弱いずくにかある。これを念えば、人心をして灰ならしむ。

きつねは壊れたきざはしの上で眠っており、うさぎは荒れ果てた高殿を走りまわっている。(全く荒涼たる光景であるが)、このあたりこそ、その昔、はなやかな宮女が歌い舞った宮殿のあった所である。また、露が冷ややかに菊の花におき、霧が枯れ草の上にさ迷っている。(まことに物寂しい景色であるが)、このあたりこそ、その昔、英雄たちが争い戦った古戦場である。
(このようなすがたを見ると)、人の世の栄枯盛衰など、(全くはかない一場の夢であって)、長く続くものではないし、
その昔の強者も弱者も、(すべて亡んでその姿を見ることもできない今)、一体、どこにいるのであろうか。これらのことを
思い浮かべると、人の心を冷えきった灰のように味けなくさせる。


後集70項

寵辱不驚、闃ナ庭前花開花落。去留無意、漫随天外雲巻雲舒。

寵辱驚かず、閧ゥに庭前の花開き花落つるを看る。去留意なく、そぞろに天外の雲巻き雲舒ぶるに随う。

名誉を得ても恥辱を受けても、ともに心を驚かすようなことをしない。あたかも、心静かに庭さきの花が開いたり散ったりするのを眺めているように。また、地位を去ることもとどまることも、ともに意にかけることをしない。あたかも、なんとなく大空の雲が巻いたり延びたりするように。(運命の自然に随順する)。


後集71項

晴空朗月、何天不可翺翔。而飛蛾独投夜燭。
清泉緑卉、何物不可飲啄。而鴟鴞偏嗜腐鼠。
噫、世之不為飛蛾鴟鴞者、幾何人哉。

晴空朗月、いずれの天か翺翔すべからざらん。而も飛蛾はひとり夜燭に投ず。
清泉緑卉、いずれのものか飲啄すべからざらん。而も鴟鴞はひとえに腐鼠を嗜む。
ああ、世の飛蛾鴟鴞たらざるはいくばく人ぞや。

晴れた空に明るい月が出て、この広々とした大空はどこでも自由自在に飛びまわれるのに、飛んで火に入る蛾ばかりは、ことさらに我から燈火に身を投じて焼け死んでいる。また、清らかな泉が流れ緑の草が生えて、飲むもの、ついばむものがいろいろとあるのに、いかもの食いのふくろうばかりは、わざわざ腐ったねずみの肉だけを好んで食べている。ああ、世間には、この蛾やふくろうのような真似をしていない者が、一体、幾人あるであろうか。


後集72項

纔就筏便思舎筏。方是無事道人。
若騎驢又復覓驢、終為不了禅師。

わずかに筏に就いてすなわち筏を舎てんことを思う。まさにこれ無事の道人。
もし驢に騎ってまたまた驢を覓むれば、ついに不了の禅師とならん。

やっと筏に乗ったと思うと、もう筏を降りる算段をする人であってこそ、十分に悟りすました人である。
(筏は彼岸に達するための乗り物で手段に過ぎないから。これと反対に)、ろばに乗っていながら、そのろばを捜し
求めるようでは、結局、悟れぬ禅僧である。(己自身に具足する仏性を見ようとせずに他に求めているから)。


後集73項

権貴竜驤、英雄虎戦。以冷眼視之、如蟻聚羶、如蠅競血。
是非蜂起、得矢蝟興。以冷情当之、如冶化金、如湯消雪。

権貴竜驤し、英雄虎戦す。冷眼をもってこれを視れば、蟻の羶に聚まるがごとく、蠅の血に競うがごとし。
是非蜂起こし、得矢蝟興す。冷情をもってこれに当たれば、冶の金を化するがごとく、湯の雪を消すがごとし。

権門貴顕は竜が躍り上がるように、英雄豪傑は虎が荒れ狂うように、互いに竜虎の戦いをしている。
(まことに壮絶なことであるが)、冷静な目で見ると、蟻が生臭いものに群がり、蠅が生きものの血にたかるのと、
少しも変わりはない。また、よしあしの議論は蜂の群れのように群がり起こり、利害得失は、蝟の毛のように一斉に
起こる。(まことに騒がしい有様であるが)、冷静な心で対処すると、鋳型に入れて金属を溶かすようで、湯が雪を
かき消すようである。(たちまちに解決することができる)。