2006−9−9
・子夏曰く、仕えて優なれば則ち学ぶ・・・・・
子夏言う「既に公務に従事している者は、与えられた職務にベストを尽くして、
それでも余力があったなら、学問をして見聞を広めるがよかろう。又、
現在学問をしている者は、充分に学んで余力があったなら、世に出て
仕えるがよかろう」と。
学而第一に「・・・行いて余力あれば、即ち以って文を学べ」という教えを、
子夏なりに述べ伝えたもののであろう。
http://rongo.jp/kaisetsu/rongo.php?6,1
・子游曰く、喪は哀を致して止む
子游言う「喪に服するに当っては、心から哀悼の誠を尽くせばそれで良いのであって、
それ以外のことに気を使う必要はない。
八イツ第三 044を参照 http://rongo.jp/kaisetsu/rongo.php?44,1
;礼楽に習熟した子游は、当時形式主義でやたら大げさになり過ぎていた
喪礼のあり様を見て、警告を発したのであろう。これは2500年前に限った
ことでなく、そのまま現代にも通用する言葉である。
ただ最近葬儀屋の友人に聞いたところ、地味ばやりで、客単価が37%も減っているそうだ。
・子游曰く、吾が友張や・・・
子游言う「吾が友人の子張は、人の出来ない事を難なくやり遂げてしまう
やり手ではあるが、思いやりに欠ける所が玉にキズだな」と。
私には、子張と大前研一がだぶって仕様がない。大前研一の下で働いた
という人物に、彼の人となりを尋ねたことがある。大前氏は猛烈に頭がきれて、
仕事もバリバリこなすやり手ではあるが、やたら自己顕示欲が強くて、
とにかく人使いの荒い思いやりに欠ける人であったという。
10年前は、キネシオロジーテストを知らなかったが、今なら測定できる。
大前研一のログ値は400。子張は190である。
よって二人は別物。
・曽子曰く、堂々たるかな張は
曽子言う「さても堂々たるものだなあ子張は。しかし、ともに仁の道を
啓発しあえるような相手ではないな」と。
これが二年先輩曽子の子張評であるが、他の門下達も子張に対しては
同じような評価をくださしていたようである。子穿第九 239 を参照
http://rongo.jp/kaisetsu/rongo.php?239,1
・曽子曰く、吾諸(これ)を夫子に聞けり・・・
曽子言う「私はかって先生からこんな話を聞いたことがある。人間が感情の
限りを表に出し尽くすというようなことは、滅多にないものだ。もしあるとすれば、
親の喪に遭遇した時くらいであろう」と。
曽子は一体何を云いたかったのだろうか。曽子は「孝経」をのこすほど、
親孝行に徹した人である。為政第二 023
を参照
http://rongo.jp/kaisetsu/rongo.php?23,1
親を扶養しさえすれば良いというう風潮が当時すでにあったのだろう。
「親孝行、したい時には親は亡し」と云うが、曽子はそんなことになせぬよう、
「親が達者なうちに、心から敬愛して孝行に励め」と云いたかったのでは
あるまいか。なんとも身につまされる。
・
曽子曰く、吾諸(これ)を夫子に聞けり。孟荘子の孝や・・・
曽子言う「私はかって先生からこんな話を聞いたことがある。魯の大夫孟荘子の
親孝行は、他の孝行者なら誰にでも出来ることばかりであったが、父の死後、
旧臣をそのまま引き立てて用い、父の志を継いで政にあたった立派な姿勢は、
並みの人間ではちょっと真似の出来ることではない」と。
学而第一 011
を参照 http://rongo.jp/kaisetsu/rongo.php?11,1
孔子はこの時、孟荘子の孝行の例を弟子たちに話して聞かせたのであろう。
曽子もこの話を良く覚えておって、自分の弟子達に語ったものと思われる。
孟荘子は御三家(三桓)の一人孟孫子の一族で、孔子が三才の頃に亡くなっている。
・孟氏、陽膚をして士師たらしむ
魯の大夫の孟孫子が、曽子の門人陽膚に獄官の長(士師)を命じた。陽膚は
士師を拝命するにあたり、裁判官としての心構えを曽子に問うた。曽子は
「上に立つ政府の要人が、政治家たるの本文を忘れ、道義を見失って政争に
明け暮れているが為に、人民は塗炭の苦しみに喘ぎ一家離散の憂き目に
遭わされてから久しいものがある。善政が行われているのなら、自ら好んで
悪事を働く者など誰もいないものだ。だから、容疑者が自ら罪状を告白した時には、
不憫に思いこそすれ、決して手柄を立てたなどと喜んではならないぞ。
罪を憎んでも人を憎むなよ」と教えた。
「上(かみ)其の道を失いて民散ずること久し」・・・14年前はルワンダ、
今は北朝鮮か
顔淵第十二 295で子貢が政治の要諦について問うたところ、孔子は
「食を足し、兵を足し、民之を信にす」と答えている。
http://rongo.jp/kaisetsu/rongo.php?295,1
政治の根幹は
@殖産振興と民生の安定向上・・・経済政策、食糧・エネルギー政策
A国防の充実と外交の推進・・・・防衛政策、外交政策
B知育の奨励と徳育の徹底・・・・教育政策、奨学政策
・子貢曰く、紂の不善や・・・
子貢言う「殷の紂王の暴政は、伝えられているほどひどいものでは
なかったようだ。ただ、日頃の行いが悪かったため、汚水が下流の
低い所に集まるように、悪評が紂一人に集中してしまったのであろう。
君子たる者は、世間の評判というものが、元々このような特性をもっている
ことを良く知っているものだから、怪しげな立場に身を置くことを嫌うのである。
一度悪い評判がたってしまうと、総てがダメとレッテルを貼られてしまうからだ」と。
「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という事か。現在のマスコミに同じような
傾向が見られる。陽貨第十七に「訐(あば)きて以って直となす者を悪(にく)む」
とある。人は誰でも過ちを犯すもので、スネに傷を持たぬ者など一人もいない。
人には知られたくない古傷があるものだ。それを殊更暴き立てて、そこを以って
正直者然としているなど、人として最も恥すべきことで、罪深いことなのだ。
3/11分「君子も亦悪むこと有や」を参照。
http://www.niigata-ogawaya.co.jp/rongo3/rongo.htm
・子貢曰く、君子の過ちや日月の食の如し・・・
子貢言う「君子といえども過ちがない訳ではないが、少しも隠し立てする
ことがないから、日食や月食を見る如くに万人の目に明らかである。
そして潔く非は非として認め、直ちに悔い改めるものだから、人々は
一層仰ぎ見るようになるのである」と。
さすが言語(弁舌)の人、子貢ならではの爽やかな言である。
・衛の公孫朝、子貢に問うて曰く・・・
衛の大夫、公孫朝が子貢に「仲尼先生はどなたから学ばれたのですか?」
と問うた。
子貢は「周の文王、武王が築かれた素晴らしい文化は、
衰えたとは云えまだ立派に受け継がれております。世の賢者は、
その文化の大いなる所を知り、不賢者でさえその小なる所くらいは
知っております。天下浩といえども文王・武王が築かれた文化の
残っていないところはありません。孔子ほどの大人物になりますと、
どこへ行こうと学びの材料はいくらでもあるものです。ですから、
特定の師匠について学ぶという必要もなかったのです」と答えた。
韓愈の「師の説」を紹介したおり、孔子は音楽を萇弘(ちょうこう)に学び、琴を
師襄(しじょう)に学び、礼を老子にまなび、官制を鄲子(たんし)に学んだけれども、
常の師はいなかったと説明したが、子貢はここでそのことを云っている。
ここでは「道」を人倫の道とはせず、文物制度即ち「文化」と釈したが、
この方が分かりやすいと思う。
「師の説」についてはこちらを参照
http://www.e-t.ed.jp/edotori390124/cksisetuyaku.htm
孔子、釈迦、イエスなど、聖人には常の師匠はいなかった。「無師独覚」「無師独悟」である。
日本の教育基本法に「教育よって人格の完成をはかる」とあるが、教育によっては人格の
完成者である聖人はできない。教育によって人格の向上はできる。教育によって人格を
向上させ、君子にはなれる。
・叔孫武叔、大夫に朝に語りて曰く
魯の大夫、叔孫武叔(叔孫氏)が、他の大夫達と朝廷で歓談した際に「子貢は仲尼よりも優れて
いる」と言った。子、服景伯がこの話を子貢に告げたところ「お戯れをおっしゃいますな。
先生と私では月とスッポンですよ。垣根に喩えてみれば、私の垣根はやっと人の肩に届く
くらいで、垣根ごしにいくらでも中が覗けますから、ちょっと目には良く見えるかもしれません。ところが先生の垣根は高さ数丈にも及びますから、外からでは中を窺い知ることが出来ません。
入り口を探して中に入ってみなければ、宗廟の美しさや諸役人が大勢働いている盛んな様を見る
ことが出来ないのと同じことです。おまけにその入り口ときたら、探し出すのに容易でなく、
中に入れる人が究めて少ないものですから、叔孫氏が思い違いをされたのも、無理からぬこと
かもしれません」と言った。
子貢の弁舌は実に冴えている。私にもう少し文才があったなら、もっとましな通釈文が書けると
思うのだが、せっかくの名文を台無しにしてしまって、子貢には誠に相済まぬと思っている。
・叔孫武叔、仲尼を毀(そし)る
叔孫武叔が孔子を誹謗した。
これを聞いた子貢が「ばかなことを言うのはおやめなさい。
仲尼先生は我々凡人が誹謗できるような人ではありません。並の賢者は喩えてみれば小高い丘の
ようなもので、越えようと思えば誰でも越えられますが、仲尼先生は太陽や月のような存在で
ありまして、誰もこれを踏み越えられる者はいません。たとえ人が自分の方から太陽や月の光を
拒絶しようとしたところで、出来るはずはありませんし、太陽や月の真価は少しも損なわれる
ものではありません。むしろ身の程を知らぬ愚かさを自ら表明しているにほかなりません」と
言った。
身の程をわきまえない愚か者を「夜郎自大」と云う。出典は史記「西南夷列伝(せいなんい
れつでん)」。知識も実力もないのに、人に対して尊大に構えるたとえに使われるが
「井の中の蛙」と「お山の大将我れ一人」を合成したような意味合いである。
「スカートの風・チマパラム」の著者、呉善花さんによると、韓国および韓国人の気質が
「夜郎自大」の代表格とのこと。これだけ情報網が発達しているのに、珍しいことである。
「多(まさ)に其の量を知らざるを見るなり」とは、身の程をわきまえろ、夜郎自大の
愚か者になるな、ということである。
韓国の新聞社の日本語サイトがある。一週間ほど続けて見ると、韓国の政府・国民・メディアが
どのような考えを持っているかが良く分かる。呉善花さんが言っている事が良く分かる。
中央日報 http://japanese.joins.com/
記事ごとに意見を書き込む掲示板がある
東亜日報 http://japan.donga.com/
子貢の弁論を聞いていると、インドの六派哲学のニヤーヤ学派、「五分作法(ごぶんさほう)」(五段論法)を見る思いがする。三段論法よりは実戦的・実用的であると思う。
@主張(宗)・・・あの山は火を有するものである。
「以って為すことなかれ、仲尼は毀(そし)るべからざるなり」
A理由(因)・・・煙を有するものであるが故に「他人の賢者は丘陵なり、猶踰(こ)ゆべき
なり。
仲尼は日月なり。得て踰(こ)ゆることなし」
B実例(喩)・・・なにものであれ、煙を有するものは火を有するものである。たとえば
竈(かまど)のように。「人自ら絶たんと欲すといえども、其れ何ぞ日月を
傷(やぶ)らんや」
C適合(合)・・・煙を有するものである竈(かまど)のように、あの山も又同様である。
「多(まさ)に其の量を知らざるを見るなり」
D結論(結)・・・故にあの山は火を有するものである。
「以って為すことなかれ、仲尼は毀(そし)るべからざるなり」
・陳子禽、子貢に謂いて曰く・・・
陳子禽が子貢に向かって「あなたは謙遜しすぎてはないでしょうか。仲尼先生があなたより
どれ程優っていたというのでしょうか」と言った。これを聞いた子貢は「君子というものは、
たった一言の発言で知者とも見られ、無知な者ともみられてしまうものだ。口を慎みなさい。
先生が我々の及びもつかないほど立派な人物であったことは、喩えてみれば、天に梯子を
かけて昇ることができないようなものである。もし先生が政治を任されたなら、所謂、
諺に曰く『民生を確立しようとすればたちまちにして確立し、人民を善導しようとすれば
たちまちにして教化され、人民を安んじようとすればたちまちにして遠方の人々までが
慕い来たり、人民に奨励すればたちまちにして合い和する。
その人が生きておれば国は大いに富み栄え、亡くなったら父母を失ったように哀しまれる』と
あるが、これは正に先生のことを述べたものだ。これ程の大先生に、どうして我々ごときが
及ぼうか。言葉は慎重に選べよ」と言った。
門人の中で、孔子という人物を最も良く理解していたのは、子貢であろう。直弟子の中で、
孔子の教えを最も良く理解していたのは曽子であろう。
孔子教学は、曽子→子思子(孔子の孫)→孟子と受け継がれ、秦の時代に「焚書坑儒」に
遇い一旦下火となるが、前漢の武帝の時代に董仲舒(とうちゅうじょ)の活躍で「儒教」と
して国教化されることとなる。
陳子禽は、一応孔子の門人ということになっているが「仲尼豈子より賢らんや」などと云って
いるところをみると、孔子の直接の弟子ではなく、子貢の弟子だったのではなかろうか。
直接の師なら「夫子」と呼ぶはずだ。
孔子の死水(しにみず)をとったのは子貢であるが、孔子が自ら死期を覚った時、子貢は旅に
出ていた。孔子は門前に立ち、子貢の帰りを今か今かと待ち続けた。子貢が帰ると孔子は
子貢の手をとって「遅かったではないか」と云って泣いたという。それから七日後、孔子は
門人たちに看取られて息を引き取るが、孔子も子貢に死水をとってもらいたかったのだろう。
孔子の死後子貢は、孔子の廟の隣にいおりを結び、六年間喪に服し廟を守った。
師への敬慕の念、やまざるものがあったのであろう。
2006−7−8
・子張曰く、士は危うきを見ては命を致し
有徳の士たる者は、一旦緩急あれば進んで一命を奉じ、利に臨んだらその利が義に叶った
ものであるかを十分吟味し、祭祀に臨んでは慎みて深く敬して敬虔の誠を尽くし、
喪に臨んでは、哀悼の誠を捧げる。これが出来てこそ士と云えるのである。
常々孔子に教わっていた事を子張なりにまとめたものであろう。
「危を見ては命を致し、得るを見ては義を思い」は憲問第十四の「利を見ては義を思い、
危を見ては命を授け」を述べたもの。
「祭には敬を思い」は八イツ第三の 052 http://rongo.jp/kaisetsu/rongo.php?52,1
「喪には哀を思う」は八イツ第三の
044
http://rongo.jp/kaisetsu/rongo.php?44,1
・子張曰く、徳を執ること弘からず
徳を実践するといっても、その実践の仕方が狭量偏頗なものであったり、道を信ずるといっても、その信じ方が浅薄で浮ついたものであるならば、そんな徳や道など、あってもなくてもどうでも
よいことだ」
子張は、何かにつけて、白か黒か、正か邪か、是か非かを決め付けないと、気がすまない性格の
ようである。しかし、世の中は善悪二元論で成り立っているのではない。陽貨十七の2005年
12月3日の例会を参照。http://www.niigata-ogawaya.co.jp/rongo3/rongo.htm
人は誰でも最善〜最悪までの五つの心の領域を持っているが、どの心(領域)を持つかは、一人
一人に完全に任されている。人の一生は、思いと言葉と行いの所産である。善なる思いのない
所に、善なる言葉はないし、善なる行いもない。すべてに優先するのは、善なる思い・善なる
心がけを持つことであろう。
孔子は善なる思いの最大のものを「仁」と云った。キリスト教では「与える愛」、仏教では
「慈悲」である。義・礼・智・信の徳はすべて「仁ベース」である。「論語に学ぶ会」のHPを
参照。 http://rongo.jp/first/first05.html
人は総て進化の途中にあるのであって、完成された者など一人もいない。徳の実践や道を信ずる
事など、最初からうまくいく人はいない。何度も失敗を繰り返して、やがて確固たるものになる。要は、徳を実践する思い、道を信じようとする想いがあるかどうかが、根本である。
・子夏の門人、交を子張に問う
子夏の門人が、人と交わる際の心得を子張に問うた。「子張は子夏はどう教えているか?」と
聞き返した。
門人は「子夏先生からは、『まともな人なら交わっても良いが、まともでない人とは交わっては
いけない』と教わっております」と答えた。
これを聞いた子張は「それは私が先生(孔子)から教わった所とは違っている。私が教わった
のは、君子たる者は勿論賢者を尊敬するが、賢愚問わず大衆をも広く受け入れるものである。
善なる者に対しては大いにこれを称揚し、不能なる者に対しては憐れみ庇ってやる、という
ものである。もし自分が大賢者であるならば、どんな人物であろうと受け入れてやれないことは
ないし、逆に自分が賢者でなかったら、相手のほうからこちらを拒むだろう。なのに、どうして、自分の方から相手を選んで受け入れたり、拒んだりする必要があろうか」と言った。
子夏の言も子張の言も、どちらも間違ってはいない。
一般論の交わりなら子張の言に分がある。学而第一006に「汎く衆を愛して仁に親しみ」と
ある。 http://rongo.jp/kaisetsu/rongo.php?6,1
君子論としての交わりなら子夏の言に分がある。学而第一008に「君子・・忠信を主とし、
己に如ざる者を友とすることなかれ」とある。 http://rongo.jp/kaisetsu/rongo.php?8,1
孔子の目から見れば「過ぎたるは猶及ばざるが如し」(先進第十一 278)で、どっちも
どっち。http://rongo.jp/kaisetsu/rongo.php?278,1
君子としての交わりを目指す場合も、発展途上にある人には「友を選べ」と教えるのが、師としての思いやりである。魂が練れていないと「朱に交われば赤くなり」、「ミイラ取りがミイラになる」。
・子夏曰く、小道と雖も必ず観るべき者有り
子夏言う、「どんなに小さな芸の道と雖も、必ずそれなりの道理を備えておって、一見の価値が
ある。しかし、とかく人は、その面白さに心を奪われてしまい、いつの間にか遠大な志を見失ってしまうようになるものだ。だから君子たる者は、脇道にそれることを恐れて芸事には手を出さないものである」
前章で子張が子夏の弟子に「分け隔てなくどんな人とでも広く交わりなさい」と言ったので、
自分の弟子おかしな事に感化されないよう、芸事に喩えて釘をさしたのであろう。
・子夏曰く、日に其の亡き所を知り
子夏言う「日に月に、今まで知らなかったことを知るように努め、知りえて身につけたことを
忘れないようにする。こうあってこそ学問を好むということができよう」
文学(学問)の人、子夏ならではの言である。学而第一 014の孔子の言に続けて読むと、
学問の心得が一層はっきりとする。 http://rongo.jp/kaisetsu/rongo.php?14,1
・子夏曰く、博く学びて篤く志し
子夏言う「幅広く学んで志を篤(あつ)く確固たるものにし、心をそこに集中する。疑問はそのまま放置せずとことん究明し、空理空論に走らぬようあくまでも身近な事例に引き寄せて思考を練る。真理はその中にある」と。
博学・篤志・切問・近思
南宋の大学者、朱子が編纂した「近思録」の書名は、ここからとったもの。子夏の「博学・篤志・切問・近思」なる真理探求の姿勢が、朱子をして「格物致知」、「居敬窮理」という思考方法を生ましめることとなる。
「格物致知」・・・物に格(いたっ)て智を致(いた)す
「居敬窮理」・・・心を集中専一にして理を窮める
ちなみに、陽明学の聖典「伝習録」の書名は、学而第一 004 の「曽子曰く・・習わざるを
伝えるか」からとったものである。 http://rongo.jp/kaisetsu/rongo.php?4,1
陽明学のエッセンス「四句教」については、菜根譚・序にある。
http://www.niigata-ogawaya.co.jp/rongo3/saikon-jyo.htm
朱子学も陽明学も、そもそもは孔子教学の朱子的解釈・王陽明的解釈であり、元々孔子の教えに
基づいた思想を展開しているにすぎない。「近思録」、「伝習録」を学ぶのは大いに結構でだが、その前に「論語」をじっくり学んでみたらどうか。その後「近思録」や「伝習録」を読み直したら、より一層理解が深まるに違いない。
・子夏曰く、百工、肆(し)に居て以って其の事を成す
子夏言う、「職人が仕事場で自分の仕事を成し遂げるように、君子は学問の場で君子の道を
究めるものである」と。
肆(し)とは、百工が軒を連ねて腕を競い合う職人街のこと。子夏は、この職人街の例のように、君子も学問の場に於いて、切磋琢磨して道を究めよと云う。これもやはり文人の人ならではの
言であろう。
・子夏曰く、小人の過つや、必ず文(カザ)る
子夏言う、「過ちは誰にでもあるものだが、小人が過ちを犯すと、必ずなんのかんのと言い訳を
するものだ」と。
耳の痛い言葉だが、誠にそのとおりである。学而第一 008 の「過てば則ち改むるに憚る
こと勿れ」といきたいものだ。 http://rongo.jp/kaisetsu/rongo.php?8,1
・子夏曰く、君子に三変有り
子夏言う、「出来た人物が人に与える印象には、三つの変化がある。遠くから望むと威厳があり、近くで接すると温和であり、その言葉を聞けば、さわやかな中にも安易な妥協を許さない厳粛な
ものがある」と。
述而第七に「子、温(おん)にして勵(はげ)し。戚(い)にして猛(たけ)からず。恭(きょう)にして安(やす)し」とあるが、子夏はおそらく孔子のこの印象を、君子のモデルに見立てて述べたものであろう。
述而第七 187
http://rongo.jp/kaisetsu/rongo.php?187,1
では小人物が人に与える印象はどうであろうか。
小人に三変あり。
之を望めば便辟(べんべき)なり。・・・・体裁ぶる。
之に即(つ)けば善柔なり。・・・・・・・・人当たりは良いが誠実さがない。
其の言を聞けば便佞(べんねい)なり。・・口先ばかり達者で実がない。
・子夏曰く、君子、信ぜられて而して後にその民を労す
子夏言う、「君子は人民から充分な信頼を得て初めて使役を命ずるものである。
未だ信頼されてもいないのに、労役を命じたりすると、人民は、この人物は自分たちを
苦しめる者であるとして、怨むこととなる。君に仕えるには、充分信頼を得てから
諌めるのがよかろう。未だ信任を得ていないにもかかわらず諌めたりすると、この者は
自分を謗る人物であるとして、君に疎んじられてしまうものだ」と。
「信」とは、言をたがえず言った事は必ずやり遂げる・約束は必ず守る、即ち「信義」を貫く
ということであるが、これが出来て初めて人から信用されることとなる。
「信義」→「信用」→「信任」→「信奉」→「信仰」については「儒教的悟りの階梯」を参照。
http://www.niigata-ogawaya.co.jp/rongo3/satori.htm
顔淵第十二にも、人々に信じあう気持ちがなかったら、社会は成り立たないとある。
http://rongo.jp/kaisetsu/rongo.php?295,1
戦後の日本人は、信用や信頼は金で買えるものと、錯覚してきたように思えて仕方がない。
今こそ、国を挙げて「信」を問い直す、絶好のチャンスである。
・子夏曰く、大徳は閑(のり)を踰(こ)えず
子夏言う、「仁・義・礼・智・信のような根本的な大徳を踏み外すようなことがなければ、
応対辞令や起居振舞のような小徳は、多少行き届かない所があっても大目にみるべきだ」と。
枝葉末節にこだわって、根本を見失ってはいけない。
・子游曰く、子夏の門人小子・・・
子游が『子夏の門人の年少者達は、掃除や応対や進退などについてはまあまあだか、そのような
事はそもそも末節のことであって、根本的な事が全然できていない。これはどうしたことだ
』
と言った。
これを聞いた子夏は『
ああ、言游は間違っておる。君子が人を教育するのに、どうして学ぶ
者の能力・個性を無視して十把一絡にカリキュラムを組んでよかろうや。一人一人の能力・
個性に合わせて。先後の順序をつけてゆらねばなるまい。
たとえば、草木を植えるに、それぞれの種類に相応しい時節・方法を選んで、区別して植えると
同じことである。それを学ぶ者の能力・個性を無視して一律に同じ順序・同じ方法で教える
などと云うのは、君子の道を欺きごまかすようなものではないか。
未熟な少年達には、まず基本動作から入って、次第に高遠な教えを学ばせるように計らって
やるべきで、どうして初めからベテランと一律に扱えようか
。物事にはすべて本末・終始が
あるが、それを一遍に体得できるのは、ただ聖人だけである』
と述べた。
礼楽を以って教え導くことを眼目とした子游と、孔子の教えを忠実に伝え導くことを眼目と
した子夏では、教育方法の違いがあった。
子夏は大変重要な事を、つぎのようにさらりと述べている。
「諸(これ)を草木の区して以って別に譬(たと)う」
差別と区別を混同するな、平等と公平を履き違えるな、ということである。機会は、人種・
性別・地位・学歴にかかわりなく、万人に平等に与えられていなければならないが、結果は
成果に応じて公平に評価し、区別して処遇されなければならない。
機会平等でないと、人々の自助努力の芽を摘むことになる。結果が公平に評価されなかったら、
自己責任の原則が崩れ、無気力・無責任な社会が現出する。
平等と公平、差別と区別についての留意点が二つある
@成果に応じて評価し、区別して処遇すると云っても、三ヶ月や半年の成果を
以って総ての尺度しとてはならない。最低一年ないし三年は必要。
A差別や平等を声高に論ずるものの中には、嫉妬と僻みの劣情を自己正当化の
為にする手合いが少なくない。
平和時において、健康な大人が現在置かれている境涯というものは、その人自身が
選択し創造してきた人生の結果であり、誰の責任でもない。
自助努力を怠り、自己責任から逃げてきた結果による当人の不都合な立場を以って
「社会制度が悪いからだ」などと他人のせいにするような人間が、憂国の士などで
あろうはずがない。
「儒教的悟りの階梯」にその人物を照らし合わせてみるならば、ごまかしようがない。
http://www.niigata-ogawaya.co.jp/rongo3/satori.htm