前集・40〜57

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2006−4−8

40)欲路上のことは

欲望上のことは、手っ取りばやくついでだからといって、かりそめにも手を出してはならない。一度、手を出したがさいご、(その味を覚え、一度その味を覚えてしまうと、それに溺れてゆき)、ついには万仞の深みに落ちこんでしまう。(これと反対に)、道理上のことは、その困難なことをおっくうがって、ほんの少しでもしりごみしてはならない。一度、しりごみしたがさいご、(余計におっくうになり、一度おっくうになり出すと、ますますおっくうになってきて)、ついには千山を隔て全く追いつくすべもなくなってしまう。

  著者の洪自誠を、おかたい人間と感ずるかもしれないが、ここに書かれた内容は、
    本当である。清濁あわせ飲んで、しかも濁に染まらない人間は、1000名に3名ほどしか
    いない。多くの人は「ミイラとりがミイラになる」  


41)念頭の濃(コマ)やかなる者は


こころねの念入りな者は、自分自身に対して手厚いが、他人に対しても手厚く、何事につけどこででも、すべて念入りにすぎる。(これに反して)、こころねの淡泊な者は、自分自身に対してあっさりしているが、他人に対してもあっさりしていて、何事につけどこででも、すべてあっさりしすぎる。そこで君子たるものは、平素の好みとしては、あまりに念入りで派手であってもいけないが、だからといって、あまりにあっさりし枯れてしまうのもよろしくない。

  過不及なく    中庸で 


42)彼は富もてせば我は仁

彼が富の力でくるならば我は仁の徳をもって対抗するし、彼が爵位でくるならば我は道義をもって対抗する。そこで仁義をもって立つ君子は、もともと、富や爵位によって君主や宰相に寵絡されるものではない。人は一念を通せば天にも勝ち、志が専一であれば気を率い動かすことができる。そこで君子たるものは、君主や宰相にはもとより、造物者にも、型に入れられて意志の自由を束縛されるものではない。

  これは名言である。前半は孟子の言葉を引用しているが、最後の「君子もまた陶鋳(トウチュウ)を
   受けず」は、
著者の洪自誠の気持ちがあらわれている。「独立自尊」の気概が大切。
   これない国は、奴隷国家である。

  国家のレーゾンデートル(根本的存在事由)は国民の「安・富・尊・栄」である。
    ただ「安・富・尊・栄」は同列ではない。安・富・尊が土台となり、栄を支える構造となる。

  「安」・・・安全保障、治安維持  国防と食糧(水を含む)とエネルギーの確保と安定供給
  「富」・・・経済
  「尊」・・・尊敬する事、尊敬される事。 すなわち教育である。
  「栄」・・・「安・富・尊」に支えられた「栄」とは文化である。
               精神的文化、物質的文化。これらを昇華せしむる事。


43)身を立つるに一歩を高くして


処世の立場としては、常に世人よりも一歩だけ高いところに立っていないと、あたかも塵の中で衣を振い、泥の中で足を洗うようなことになる。(振えば振うほど塵にまみれ、洗えば洗うほど泥がついてくる)。これでは、どうして塵や泥にまみれている世間を超越することができようか。また、処世の道としては、常に世人よりも一歩だけ退いていないと、あたかも火とり虫が燈火に投じ、牡羊が生垣に角を突込んだようなことになる。(火とり虫はわれから焼け死に、牡羊は退くことも進むこともできず進退きわまってしまう)。これでは、どうして安楽に過ごすことができようか。

  20年ほど前に初めて菜根譚を読んだ時、この章を見て全身にに電流が走ったことを思い出す。
  自分なりに「志は高く、腰は低く」と言い換え、座右の銘とした。
 
 

44)学ぶ者は、精神を収拾し

学問する者は、気を散らさぬように収集して、志す一路に集中することが大切である。もしも、その目的である道徳を身に修めようとしながら、その意を世俗の事業や名誉に留めたならば、きっと真実の造詣には至らず、うわすべりのものとなる。また、その方法である書物を読みながら、その興味をうわついた吟詠やみやびごとによせたならば、きっと書物の深い心には至らず、浅薄なものとなる。

  「併帰一路」・・・「一路に併帰(ヘイキ)することを要す」

    
江戸の儒学者、佐藤一斎は「今の学者は学問が狭いために失敗するのではなく、
     学問が博いために失敗する」と言った。学問も本筋が大切である。

  孔子は
「古の学は己が為にす、今の学は人の為にす」と言っている。

  朱子は、「読書三到
」と言った。
   @心

   A眼到
   B口(耳)到

  私はさらに三つを加えたい
   C身到・・・自分の身におきかえる
   D鼻到・・・是々非々を鼻でかぎ分ける
   E舌到・・・味わい尽くす



45)人々に個の大慈悲あり


貴賤を問わず、どんな人にも、大慈大悲の仏心というものはあるもので、維摩のような大徳の居士も、屠殺業者や死刑執行人のような賤業の者も同じで、その心に二つはない。また、貧富を問わず、どんな処にも、真のたのしみというものはあるもので、金殿玉楼も茅葺 (カヤブキ)の賤(シズ)が伏家(フセヤ)も、住めば都で、その住居に二つはない。それなのに、かほどの相違が生じてくるのは、ただその心を欲情がさえぎり閉じこめて、目前にちょっとした誤りを犯したがために、ほんのわずかのへだたりを、末には千里のへだたりにしてしまうのである。

  人間の本性は「善一元」。仏教用語で言えば「一切衆生悉有仏性」 

  論語「陽貨第十七」の2005年12月3日の講義を参照。
  rongo.htm
 
  「教えありて類なし」、「性相近きなり、習相遠きなり」 、「上知と下愚とは移らず」
 

46)徳に進み道を修むるには

徳に進む修養や道を体得する修養には、世俗の富貴に対して、ひとつ、木や石のように冷淡な思いを持つことが大切である。もし一度、それを羨み願う心を持ったが最後、忽(タチマ)ち欲界に走り去ってしまい、修養も修行もあったものではない。また、宗教家として世を救い政治家として国を治めるには、その去就に対して、ひとつ、行雲流水のように無心なおもむきを持つことが大切である。もし一度、その去就に執着する心を持ったがさいご、忽ち危険に陥って、救世も治国もあったものではない。

  木石的念頭・・・不動心
  雲水的趣味・・・無碍の心、すがすがしさ

  良寛の失敗・・・宗教家としての自分の使命である「民の救済」から逃避して、
            自分の得意分野である書・歌に没頭した。


2006−5−13

47)吉人は作用の安祥(アンショウ)なるを

吉人というものは、日常の動作が安らかで静かであることはいうまでもなく、たとえその眠りも魂までも、それこそ和気に満ちて安心そのものである。(これに反して)、凶人というものは、日常の動作がねじけてあくどいことはいうまでもなく、たとえその声音(コワネ)も笑い声までも、それこそすべてとげを含んでいて、油断ができない。

 声音(コワネ)も笑い声・・・声音咲語から人相と、人物鑑定について
  @リンカーン大統領は、友人からある人を推薦された。しかし、いつまでたっても登用しないので、
       友人が苦情を    言ったところ、「あの男の面構えが気に入らない」と答えた。友人は
       「人相で人を判断するとは何事か」と反論したが、リンカーンは「人間40歳にもなれば、
       己の顔に責任がある」と返答し、人を登用しなかった。

  A孔子の人物鑑定
   孔子も面構えで判断して間違ったことがある。以後、孔子の人物鑑定は、
   
 ・其(そ)の以(な)す所(ところ)を視(み)
    ・其(そ)の由(よ)る所(ところ)を観(み)
    ・其(そ)の安(やす)んずる所(ところ)を察(み)れば、人(ひと)焉(いすく)んぞ叟(かく)さんや

    その行動、原因と動機、安らぎと楽しみを観察すれは、その人が分かる。
        詳しくは以下を
     http://rongo.jp/kaisetsu/rongo.php?26,1   「五観法」についても解説がある。

  B江戸時代の観相家、水野南北について
     たまたま社員向けに作った資料がございましたので、ご紹介いたします。
         こちらからどうぞ。
    


48)肝、病を受くれば

肝臓を病むと目が見えなくなり、腎臓を病むと耳が聞こえなくなる。このように、病というものは、まず人目に見えない体の内部に起こって、やがて必ず誰にでも見える体の外部に現れてくるものである。それ故に君子たるものは、人目につくところで罪を得ないようにしたいと思ったら、まず人目につかないところで罪を得ないように心掛けるべきである。

      「罪を冥々に得ることなかれ」・・・
人目につかないところで罪を得ないように心掛けるべきである
   まさに名言でふる。この逆は姉羽事件に関係した者か。



49)福(サイワイ)は事少なきより

人生における幸いは、何よりもできごとが少ないことほど幸いなことはないし、災いは、何よりも気が多いことほど災いなことはない。ただ、平生、できごとの多いのに苦労している者だけが、はじめて、無事平穏なのが幸であることを悟り、また、平素、心を平静ににするように心掛けている者だけが、はじめて、気の多いのが災いのもとであることを悟っている。

  忙しいという文字の意味は、「心が亡ぶ」ということである。
  いつも忙しいという人は、緩急・軽重の区別をつけず、物事の優先順位がメチャクチャな
    場合が多い。物事の優先順位は、以下を参照。

第二位 第一位
第四位 第三位
 


50)治世に処しては

よく治まった世に処するには、身を方正に保つがよく、乱れた世に処するには、万事にかどばらないのがよい。(治世には政治が公平で嘉言善行が用いられるが、乱世にはその反対で、正しいことがいれられず思わぬ災難を招くからである)。そこで、末の世となった今は、方・円の二者を並び用いて、機に臨み変に応じていくがよい。また、善人に対しては寛大な態度でのぞみ、悪人に対しては厳格な態度でのぞむがよい。(善人には過失はあっても非行はないが、悪人には常に非行がつきものだから、それを許さない態度が必要だからである)。そこで、普通の人たちに対しては、寛・厳の二者を互いに用いて、その時その場合によろしきを得るようにするのがよい。

  日本人同士なら、以心伝心・阿吽の呼吸などがあるが、こと中国・韓国を相手にする場合は、
  一線を引いて毅然とした態度をとることが重要である。なあなあにすると、相手がどこまでも
    つけあがる。

  ガス田の開発、原子力潜水艦の領海侵犯、竹島、靖国神社、教科書など、中国と韓国が
    わが国に対して主張している事を逆に述べたら、「内政干渉」との激しい反論がくるであろう。
  話し合って、お互いが理解し合意するなど、机上の空論である。


51)我、人に功あらば

自分が人に対して功労があったとしても、その報いを得たいと思って、そのことを心に留めておいてはならない。しかし、人にかけた迷惑ならば、必ず償うことを思って、そのことを心に留めておかねばならない。また、人が自分に対して恩恵を与えてくれたならば、その恩返しのことを思って、そのことを忘れてはならない。しかし、人に対する怨みならば、必ず心に留めておかずに、きれいさっぱり忘れ去ってしまわねばならない。

  恩は石に刻め、怨みは水に流せ

  ラ・ロシュフコーの言葉より
    小さな恩義には、
ほとんどすべての人が、大変ありがたいと感ずる
    中くらいの恩義には、ほどほどに感ずる。
    大きな恩義には、ほとんどの人がありがたいと感じない。
                                 ・・・例)太陽・空気・水・大地・平和・安全 etc

    人は自分の偉大な功績を鼻にかけるが、ほとんどが偶然の場合が多い。


2006−6−10

52)恩を施す者は


人に恩恵を施す者は、心の中に施す自分を意識せず、施される相手の感謝を期待しないようであれば、 たとえわずかな恩恵を施しても、莫大な恩恵に値するものである。(これに反して)、人に利益を与える者は、 自分の利益を計り、その報いを要求する心を起こすようであれば、たとえ莫大な利益を与えたとしても、 ビタ一文にも値しないものである。


  
・ビジネスは、「give and take」 施恩は、「give and give」

  ・恩という文字は、心の上に因(よる)がのる。因(よる)の意味は、布団の上に大の字になって寝る。
  ・恩とは何らかの印象を人の心にしるす事。何らかの印象が残ってくれれば、それで良し。
      見返りを求める事ではない。

  ・このページの51)に
、ラ・ロシュフコーの言葉があるが、小恩、中恩、大恩を考えてみよう。
    小さな恩義には、
ほとんどすべての人が、大変ありがたいと感ずる
    中くらいの恩義には、ほどほどに感ずる。
    大きな恩義には、ほとんどの人がありがたいと感じない。
            ( 太陽・空気・水・大地・平和・安全 etc )

  ・仏教でも四恩という教えがある。
    @父母の恩・・・・・血縁の恩
    A国土の恩・・・・・地縁の恩
    B衆生の恩・・・・・人縁の恩
    C三宝の恩・・・・・時縁の恩

   人間は、この四つの恩を切り離して、一人で生きることは出来ない。
      せっかくの人生、縁を生かそう。これが活縁。
   

53)人の際遇は


人の境遇について見ると、幸せな条件がそろっている者もあり、そろっていない者もある。それなのに、
どうして自分だけ、すべてがそろっていることを望めようか。

また、自分の心情の動きについて見ると、理にか合っている場合もあり、合っていない場合もある。
それなのに、どうして他人だけ、常に理に合っていることを望めようか。

このことから、他人と自分とをよく見比べて、釣り合うように自分を治めていくことも、またこれ一つの
便宜的な方法である。

  ・上を見ればきりがない。下を見てもきりがない。
       順境の時は「上には上かある」、逆境の時には「下には下がある」と思う事。
       自分を絶対化しないで、相対的に見ることが肝要。自分を相対的に観察するためには、
       第三者の目で観る事。

  ・五月みどりが還暦の頃の話。いつまでも綺麗で、ヌード写真集まで出していたので、ある記者が
    質問をした。「なんで五月さんはいつまでも魅力的なのですか」。五月みどのが答えて曰く
      「特別な事はしていないげど、しいてあげれば、一人でいる時も、常に人に見られていると
       意識することかしら・・・・・」
   
 
54)心地乾浄(ケンジョウ)にして

心を洗い清めさっぱりとして、そこで初めて書物を読み古聖賢の道を学ぶべきである。もしそうでないと、
一つの善行を見ると、それを口実にして利己的なことを計り、一つの善言を聞くと、それを借りて
わが欠点をとりつくろう口実にする。これでは、敵兵に武器を貸し、盗人に食糧を与えるような
利敵行為となる。

  ・智は仁あっての智。智を伴わない仁は、妄愛・溺愛となり、独立自尊の心を害する。
 

55)奢る者は富みて而(シカ)も足ら

豪奢に人は、いくら富裕であっても、(ぜいたくをするので)、いつも不足がちである。ところが、
倹約を守る人は、 いくら貧乏であっても(つつましいので)、いつも余裕がある。つつましい人が、
どれほどよいかわからない。

また、才能のある人は、一所懸命に苦労して、しかも人々の怨みを集めることになる。ところが、
知恵のない者は、 (野望を抱くこともないので)、いつでも気楽にしていて、天性の自然を保っている。
知恵のない者の方が、 どれだけよいかわからない。

 ・豪奢も倹約も
、度を過ぎると考えものである。今、日本の食文化の象徴である料亭が、
    風前の灯となっている。不況が続き交際費が削減され、官公庁の接待もなくなった。

 ・日本の食文化の華の料亭が生き延びるには、博物館か法事屋になることしかない。

 ・ただ、今すぐ法事屋になることはすすめない。現在日本の死亡率は、1000名あたり8名。
   これが団塊の世代が死ねころになると、1000名あたり22名にはねあがる。興味のある方は、
   もう少し待ってから、法事の事業に参入しよう。



56)書を読みて聖賢を見ざれば


古人の書物を読んでも、字句の解釈だけで聖人の心に触れなければ、それでは文字の奴隷と
なるにすぎない。 また、官位にあっても、俸給を貪るだけで人民を思い愛さなければ、禄ぬす人と
なるにすぎない。 また、学問を講じても、高遠なりくつを説くだけで実践躬行することを尊重しなければ、
それでは口先だけの 禅となるにすぎない。また、事業をおこしても、自分の利益だけを計って後々の
ために徳を植え育てておくことを 考えなければ、それでは、目先だけの花となるにすぎない。

 ・鉛槧(えんざん)の傭(よう)・・・文字の奴隷
 ・おのおの順番に、東大法学部、無責任な官僚、進歩的な文化人、天下り役人を連想する。  


57)人心に一部の真文あれども

人間の心には、一冊のりっぱな書物が備わっているのに、古書の散り残りや切れ切れに、
全く閉じこめられて しまっている。また、一組のりっばな音楽が備わっているのに、あやしげな歌や
あでやかな踊りに、全く沈み 絶えさせられてしまっている。そこで、道を学ぶ者は、すべて外物の
誘惑を払いのけて、ひたむきに真のすがたの 書物や音楽を求めるがよい。それでこそ、それらの
真の使いみちがわかる。

 
・自我を説明すると      真我←−−−−−−−−−−→偽我        
                 神なる我                肉体我   
                 神性・仏性              現象我
                 一体観                 分離観

・老子も「肉体は魂の乗物」と言っている  

・自分の身の回りを見渡し、以下の基準で交通整理をしてみよう。
    @なくてはならない、物や事や考え。
    Aあったほうがよい
、物や事や考え。
    Bあってもなくてもよい、物や事や考え。
    Cないほうがよい、物や事や考え。
    Dあってはならない、物や事や考え。