2007−2−10
96)家人、過(アヤマチ)あらば
家人、過ちあらば、宜(ヨロ)しく暴怒すべからず、宜しく軽棄すべからず。此の事言い難くば、他の事を借りて隠にこれを諷せよ。今日(コンニチ)悟らざれば、来日(ライジツ)俟(マ)ちて再びこれを警(イマシ)めよ。春風の凍れるを解くが如く、和気の氷を消すが如くにして、纔(ワズカ)に是れ家庭的の形範なり。
里仁第四084を参照 http://rongo.jp/kaisetsu/rongo.php?84,1
身内に対しては「バカヤロー」でも「勝手にしろ」でもダメである。
97)此の心常に看(ミ)得て円満ならば
自分の心を常に円満にしておけば、世の中に自然に不満なものがないようになる。また、自分の心を常に広く平らしておけば、む世の中にむ自然ととげとげしいねじけ心がないようになる。
19世紀スイスの哲学者アンリ・フレデリク・アシエルの箴言に次のようなものがあ
る。
「心が変われば態度が変わる。態度が変われば習慣が変わる。習慣が変われば
人格が変わる。人格が変われば人生(運命)が変わる」と。
これを前後を逆にして云うならば、「人生【運命】を変えたければ、人格を変えなさい。
人格を変えたければ習慣を変えなさい。習慣を変えたければ、態度を変えなさい。
態度を変えたければ心【思いの他】を変えなさい!」となる。
心の操縦は「円満」と「寛平」が第一歩。禅では、万病の元し「恚(イ・怒)」と言っている。
98)膽泊(タンパク)の士は
膽泊(タンパク)の士は、必ず濃艶(ノウエン)なる者の疑うところとなりり、検飭(ケンチョク)の人は、多くは放肆(ホウシ)なる者の忌(イ)むところとなる。君子は此れに処して、固(モト)より少しもその操履(ソウリ)を変ずべからず。また太(ハナハ)だその鋒鋩(ホウボウ)を露(アラ)わすべからず。
「頴脱(エイダツ)」・・・才能が飛びぬけて優れているさまを云う。
99)逆境の中に居(オ)らば
人間、逆境にあるときは、身のまわりすべてのことが、はり(鍼)や薬で、それで節操をとぎ行いをみがいているのであるが、しかも本人はそれを知らずにいる。(これに反し)、順境にあるときは、目の前すべてのことが、刃や戈で、それで肉を溶かし骨を削っているのであるが、しかも、本人はそれを知らずにいる。
魏の文侯(ぶんこう)(戦国時代)に仕えた李克(りこく)という政治顧問が述べた
「五観法」と云う有名な人物鑑識法があります。人物を見抜く上で現代でも立派に
通用すると思われますので、以下に紹介します。
@「居ればその親しむ所を視る」
*不遇の時にどんな人と親しくしていたかを見る。
(付き合っている人達の人品骨柄を見れば察しがつく)
A、「富めばその興(くみ)する所を視る」
*裕福になった時にどんな人やどんな物に金や時間を割いたかを見る。
(安んずる所・どこに安逸を求めているかが分かる)
B「達すればその挙(あ)ぐる所を視る」
*出世した時にどんな人物を推挙したか、どんな人を登用したかを見る。
(本人の眼力が分かる)
C「窮(きゅう)すればその為さざる所を視る」
*窮地に陥った時に苦しまぎれに不正を働かなかったか、
悪あがきをしなかったかどうかを見る。
(為す所・節操の有る無しが分かる)
D「貧しければその取らざる所を視る」
*貧乏した時に邪(よこしま)な稼業に手を染めなかったか、
餓鬼にならなかったかどうかを見る。
(拠る所・志が分かる)
100)富貴の叢中(ソウチュウ)に成長する的(モノ)は
富貴の家の中で成長した者は、その欲望は猛火のように盛んであり、権勢に執着することは激しい炎のように盛んである。そこでもし、少しは冷ややかな趣を持っていないと、その炎は他の人を焼きつくすようになるか、さもなければ必ず自分を焼きつくしてしまう。
階級社会がなくなった現在では、逆のことがいえそうだ。
貧しい家に育った者ほど、欲望を燃やし、権勢に執着しているように感ずる。
101)人心、一たび真なれば
人のまごころから出た一念は、夏にも霜を降らすこともでき、城壁を崩すこともでき、金石を貫き通すこともできる。(これに反して)、偽りばかりの人間は、肉体だけは備わっていても、肝心の魂はなくなっているので、人に対する顔つきも憎たらしいので嫌われるし、独りでおるときは自己嫌悪に陥るにちがいない。
思・・・・・分析を伴う
想・・・・・判断を伴う 木の上に立って遠くまで見渡す
念・・・・・方向と力を伴う
102)文章は極処(キョクショ)に做(ナ)し到れば
文章というものは、最高の域に達すると、特別に珍しい技法があるものではなく、ただぴったり合った表現をするだけである。人格も最高の域に達すると、特別に変わった点があるものではなく、ただ自然のままだけである。
文章の技法の一例
八股文、白話文・・・・・ネットで検索したけれど、分かりやすい解説は見当たらず。
2006−12−02 まとめ 小林惠子
90)天、我に薄くするに
天が我にわが福を薄くするなら、我はわが徳を厚くして対抗しよう。天が我にわが肉体を苦しめるようにしむけるなら、我はわが精神を楽にして補うようにしよう。天が我にわが境遇を行きづまらせるようにしむけるなら、我はわが道を貫きとおすようにしよう。かくすれば、天といえども、我をどうすることもできないであろう。
『人事を尽くして天命を待つ』じたばたするなということ。
91)貞士は福を徼(モト)むるに心なし
節義のかたい人物は、福を求めようとする心がない。そこで天は、この福を求めるに無心な点に報いるために、その人物のまごころを導いて福を授ける。陰険な男は、禍を避けることに常にびくびくしている。そこで天は、この禍をさけるにびくびくしている点に報いるために、この男の魂をおどして禍を与える。これによってもわかるように、天道のはたらきは全く神秘で不可思議である。人間の浅はかな知恵や技巧など、なんの助けになるのだろう。なんの助けににもならない。
エネルギーを持ったおもい。
@思
A想 分解すれば、目・木・心。木の上に人が乗って、遥か遠くを見通す判断力。
B念 正念→福を呼ぶ。
邪念→禍を呼ぶ。
《念の6原則》
@観念肯定化の原則→肯定的に捉える。
A想念映像化の原則→目的をイメージする。
B専念集中化の原則→エネルギーを集中する。
C信念既成化の原則→”成就している”と自己暗示にかける。
D執念持続化の原則→思いを持続し、すぐに諦めない。
E断念段階化の原則→成就した念を断ち、次の段階を目差す。
92)声妓(セイギ)も晩景(バンケイ)に良(リョウ)に従えば
浮名を流した妓女でも、晩年に縁を得てよく夫に仕えたなら、それまでの浮いた暮らしも妨げにはならない。(これに反して)、貞節な妻でも、白髪になってから操を破ったならば、それまでの清い苦労も水の泡となる。ことわざにも、「人の値うちを見るには、ただ後半の半生を見るだけでよい」と。まさに名言である。
「子ども論語・006」30頁の先生の祖母の話。
http://rongo.jp/kaisetsu/c_rongo.php?6,1
93)平民も肯(アエ)て徳を種(ウ)え
無位無官の人でも、自らすすんで世に徳を植え人に恵みを施すなら、それはもう無冠の宰相である。(これに反して)、高位高官の人でも、ただ権勢をむさぼり求め人に恩を売るだけでは、それはもう衣冠をつけた乞食も同然である。
現代のエリート官僚
94)祖宗の徳沢(トクタク)を問わば
祖先の残された恩恵は何かと言えば、わが身が現在受けている恩恵がそれである。過去の長い年月にわたって積み重ねてきた祖先の苦労のほどを思うべきである。また、子孫の受ける幸福は何かと言えば、わが身が現在残そうとする幸福がそれである。将来の長い年月の間には傾き覆りやすいことを考えておくべきである。
『積善の家に余慶あり』・・・日頃多くの善行を積んで、世のため人のために尽くしている家には、よい報いが必ずある。
戦後、日本人が失ったものは「矜持と孝行」である。矜持とは「独立自尊」・・・独立して自分の尊厳を保つこと。孝行とは「忠」と「孝」の事。国家の危機に際しては己の命をも投げ出す矜持を生み出す家制度を、GHQは恐れ、徹底的に破壊した。
孝行には「忠」と「孝」があり、おのおの三段階ある。
忠 @民族国家に真心を尽くす・・・祖国愛
A地域社会に真心を尽くす・・・郷土愛
B家族に真心を尽くす・・・・・・・家族愛
この3つがセットでようやく愛国心ができる。
童謡「ふるさと」には、この3つがうたい込まれている。
孝 @親が生きている時は「親孝行」・・・孝養の誠
A親が死んだ時は「葬儀」・・・・・・・・哀悼の誠
B親が死んだ後は「法事」・・・・・・・・敬虔の誠
・今の自分の存在を考える。祖先の誰か一人欠けても、今の自分は居ない。
95)君子にして善を詐(イツワ)るは
有徳であるべき君子が、善をよそおい人前をつくろうのは、徳のない小人が勝って気ままに悪事を働くのと、なんら変わりはない。しかし、いやしくも君子たるべき者が、変節して破廉恥な行為をするのは、小人が自分から悪事を改めるのに比して、はるかに及ばないことである。
造反議員問題
品行と品性は=(イコール)ではない。
品行・・・行い。
品性・・・道徳的価値を基準とした性格、人柄。
品行が少々悪くても、品性が良ければ嫌われない。品行が良くても、
品性が悪ければ嫌われる。
人を見る前に、自分を見てみる。矜持の有る無しを見る。
《孔子の人物鑑識法》
「為政第二」026
子曰わく、其の以す所を視、其の由る所を観、其の安んずる所を
察れば、人焉んぞ叟さんや。人焉んぞ叟さんや。
一に、その人の行為をよく注意して視る。
二に、その行為の原因・動機を観る。
三に、その人がどんなところに安らぎを求めているかを察る。
視る―観ずる―察する・・・人物を見抜く際の鉄則。
http://rongo.jp/kaisetsu/rongo.php?26,1
http://rongo.jp/kaisetsu/c_rongo.php?26,1
2006−11−11
81)気象は高曠(コウコウ)を要して
気まえは高く広くなければならないか、さりとて現実ばなれしていてはならない。心ばえは細かく注意深くなければならないが、さりとてあまりに煩わしくなってはならない。趣味はあっさりした方がよいが、さりとて片寄りすぎ干からびてはならない。節操は厳正ではっきりしていなければならないが、さりとて過激であってはならない。
呂新語の呻吟語、人望12徳を参照
@従容而不後事 ゆったりとしているが、事におくれない
A急遽而不失容 わただしいが、冷静さを失わない
B脱略而不粗忽 大雑把だが、手抜かりがない
C簡静而不淳薄 さっぱりとしているが、薄情でない
D真卒而不鄙里 ストレートなもの言いであるが、嫌味がない
E温潤而不脂韋 穏やかであるが、媚びへつらうところがない
F光明而不浅浮 根あかであるが、うわついたところがない
G沈静而不陰険 冷静沈着であるが、陰険でない
H厳毅而不苛刻 厳しいが、苛酷でない
I周匝而不煩碑 行き届いているが、煩わしくない
J権変而不譎詐 機転がきくが、人をだまさない
K精明而不猜察 読みが深いが、意地悪な見方をしない
82)風、疎竹(ソチク)に来たる
風がまばらな竹やぶに吹くと、ひとときは風に鳴るが、吹き過ぎてしまうと元の静けさに立ち返って、竹やぶはなんの声も留めない。かりがねが澄んだ淵の上を飛ぶと、ひとときは水面に影を落とすが、飛び去ってしまうと元の静けさに立ち返って、淵はなんの影も留めない。それ故に君子というものは、事が生じて初めてそれに対応する心が現れ、事が去ればそれと共に心は空になるものであって、後々まで執着するものではない。
荘子の「将(オク)らず、迎(ムカ)えず、応(オオ)じて、蔵(ゾウ)せず」
去るものは追わず、来る者は拒まず。何事も有るがままに受け入れて固執せず。
取り越し苦労はしなさんな!持ち越し苦労もしなさんな
83)清にしてよく容(イ)るることあり
潔白であるが、しかもよく人を容れる雅量があり、寛仁であるが、しかもよく決断力を持ち、明察であるが、しかも人のあら探しをせず、正直であるが、しかも並外れになることはない。このような人物を、砂糖漬でも甘すぎず、海産物でも塩からすぎることはないと言い、それでこそ立派な美徳を持つと言える。
蜜錢不甜、海味不醎・・・食物を商う者にとっては、貴重な言葉。中庸とバランスが大切。
84)貧家も浄(キヨ)く地を払い
あばら家でもきれいに庭を掃除し、貧しい女でもきれいに髪をとかしておれば、外見はあでやかに美しいとは言えないまでも、品格は自然に趣を得てくるものである。そこで一人前の男として、万一、困窮の憂いや失意の悲しみに落ちたときでも、どうしてそれですぐ、自分から投げやりになってよかろうか。
あと一歩のところで投げ出したら、それまでの苦労はすべて無駄となる。
子罕第九 227 を参照 http://rongo.jp/kaisetsu/rongo.php?227,1
・道元は言う 「名を残すは困窮の時、事の破れるは得意の時」
・アートディレクターの信条「迷ったときは、最も困難な道をとってきた」
85)闥も放過せざれば
ひまな時でも、ただぼんやりと過ごさぬようにすれば、多忙な折にそれが役に立つ。静かな所でも、心をゆるめないようにすれば、活動する折にそれが役に立つ。人に見られない所でも、人を欺き悪事を隠すことをしないようにすれば、公の人前でそれが役に立つ。
86)念頭起こる処(トコロ)
心が動いたとき、我欲の方へ行きそうだと気づいたら、それこそすぐに正しい道の方へ引き戻せ。一念が迷ったときにはすぐに気付いて、気付いたらすぐさま改めるようにする。これこそ禍を福に転じ、死を生にひるがえすきっかけである。決して軽くみて見逃してしまうようなことがあってはならない。
衛霊公第十五に「過ちて改めざる、是を過と謂う」とある。
気付きが大切。気付かなければ何も出来ない。
87)静中の念澄徹(チョクテツ)なれば
静かなところで考えが澄みとおっていれば、心のほんとうの姿が見える。ひまな時に気持ちがゆったりと落ち着いていれば、心のほんとうの働きがわかる。淡々として執着しない立場で、心ばせが深くおだやかでいれば、心のほんとうの味わいが悟れる。このように本心を観照し、真実な正道を悟るには、この三つの方法が一番よい。
静中・・・心の真体
闥・・・心の信機
淡中・・・心の信味
88)静中の静は真静にあらず
静かなところでしか保てないような心の静けさは、ほんとうの静けさではない。目まぐるしいところでも心を静かに保つことができるようになってこそ、本当の真の境地である。また、安楽な環境の中でしか感じられないような心の楽しみは、ほんとうの楽しみではない。苦しい環境の中でも心を楽しく保つことができるようになってこそ、心の真の働きを見ることができる。
・87のつぎに、このような言い方をしている。環境に左右されるようでは、まだダメということか。
・小聖は山に住み、大聖は街に住む
・森信三先生「真理はただ現実の中にあり」
89)己を舎(ス)てては
身を捨てて献身的ななったなら、必ずためらってはならない。それにためらっていては、せっかく、身を捨てた初心をも恥ずかしめることが多くなる。また、恩を施したら、決してその報いを求めてはならない。その報いを求めては、せっかく、恩を施した初心をも共にむだにする。
・奉仕に関しては、女性は男性の三倍以上の素養がある。
2006−10−14
75)心は虚にせざるべからず
心はいつも空虚にしておかなければならぬ。空虚であれば、道理が自然にはいってくる。また、心はいつも充実しておかねばならぬ。充実しておれば、物欲がはいる余地はない。
「虚心坦懐」ということか
76)地の穢(ケガ)れたるものは
きたない土には多くの作物ができ、澄みすぎる水には魚は住みつかない。そこで君子たるものは、世俗の恥や汚れを受け入れる度量を持つべきであり、あまり清潔すぎて世俗の外に超然たる操守を持つべきでない。
濁った水ばかり飲んでいては、体を壊す。きれいな水ばかり飲んでいては免疫ができず
「抵抗力」がつかない。「清濁あわせ飲む」こと。
77)泛駕(ホウガ)の馬も、駆馳(クチ)に就くべし
車をひっくり返すようなあばれ馬も、御し方でうまく走らせることができるし、鋳型から跳り出す金も、ついには鋳型におさめることができる。ただ、のらりくらりと日を過ごし少しも奮起しない者だけは、一生涯、進歩というものはない。陳白沙が言うに、「生まれつき多病なことは恥じ入るほどのことではない。むしろ、無病であって、病のなんたるかを知らない方が自分には心配の種である」と。ほんとうに確かな議論である。
「体・心・サイフ」を患ってみなければ、本当の苦しみはわからないものだ。
78)人は只だ、一念貪私(タンシ)なれば
人間は、ほんとうに少しでも欲ばる心を起こすと、強い気象も弱くなり、澄んだ知恵もにぶくなり、愛情も残酷な心に変わり、潔白な心もよごれてしまって、生涯の品格をすっかりこわしてしまう。そこで古人も、欲ばらないことを宝としたが、それが俗世間を超越したわけである。
・六大煩悩は、人間誰も持っている心である。
その心をセーブし、その心に振り回されない事が大事。
急には改められないが、改めなければ変われない。
・欲張らないことが大事。
79)耳目見聞は外賊たり
耳目の欲は外部から侵入する賊で、欲情や我意は心の内部にいる賊である。ただ主人公さえ、さとく明らかで欲にくらまされることなく、心の中央に端坐しておれば、内外の賊はそのしもべとなるであるう。
・「無門関」を読んでみてもよい。
無門関第十二則「厳喚主人」・・・問いかけている自分。それまた自分自身でしかない。
・型にはまった考え方をすると、前と同じ間違いをする。
・王陽明・・・「山中のぞくは・・・
・京セラ稲森さん・・「動機の私心あらずや・・・
80)未だ就(ナ)らざるの功を図(ハカ)るは
まだ成就していない事業の完成をあせるよりも、すでに完成している事業を永く保ち発展させる方がましである。また過去の過失をいつまでも後悔するよりも、将来の失敗を早く予防する方がましである。
・・・耶律楚材(ヤリツソザイ)
くわしくはこちらを
http://www.ne.jp/asahi/kojo/bunko/index1-82.html
http://www.hirake.org/history/onko/topics/11.html
興一利 不若除一害 一利を興すは、一害を除くにしかず。
生一事 不若減一事 一利を生(ふ)やすは、一事をへらすにしかず。