H19/1・儒学の真髄を語る

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2007年四月例会で、 「中庸 第一段 第一節」の解釈を追加


2007
年・新春合同例会 演題『儒教の神髄を語る』
2007
120日(土)ホテル新潟  担当 T期「佐々木塾」
記録 伊藤民子

一、 はじめに
二、「中庸」書に見る人間存在の実相
三、 神の子人間としての真なる我を生きよ!

一、はじめに

当会が発足してから今年で
15年目を迎えます。今までに何度も皆さんに申し上げていることですが、当会設立の理念は「学真行動」・真理を学び道を行ずるというものであります。

従いまして「論語」の他に「老子」・「孫子」・「孟子」・「韓非子」・「貞観政要」・「菜根譚」・「十八史略」等々、必要なものから真理を学ぶことに務めて来た訳であります。殊に「老子」講義の際には、「般若心経」や「旧約聖書」と云った仏教やキリスト教の経典も参考資料に使ってきたことは、皆さんの記憶にも新しい所であります。

中には、賛美歌の講習を行ったクラスもありましたね!?最近ホテルのインチキチャペルでやるキリスト教もどきの結婚式で歌われる賛美歌が、余りにも「ナンチャッテ賛美歌」になってしまったものだから「これが本物だ!ちゃんと覚えておきなさい!!」ということで。

日本の教会で歌われる賛美歌はアングリカン系の聖公会派を除いて、すべて共通の歌詞で統一されておりまして、曲番号も統一されている。日本の賛美歌は明治の初期には各宗派バラバラに編集されておりましたが、明治
36年に統合集成されて共通賛美歌になった。これが昭和6年に修正増補されて、更に昭和29年に改定がなされ今日の賛美歌になりました。

何でも新し物好きなアメリカ人でさえ、ヒム(賛美歌)の歌詞はアメリカンイングリッシュではなく、ちゃんとしたクイーンズイングリッシュの古文体で歌うことになっている。ラテン語のまま歌われているものもあります。キリエ・オザンナ・ドナノービス・クレド・グロリア等々。

何でこんなつまらんことを知っているのかと云うと、私の恩師で宗教音楽家の奥田耕天先生が、三度目の改定を行う昭和
24-29年迄の五年間、日本キリスト教団「賛美歌委員会」の主査を務めておられたからなんですね。

奥田先生は数年前に他界されましたが、大学時代、私はこの先生に賛美歌やオラトリオを厳しく仕込まれたんです。この時発声法を徹底的にやらされたお陰で、今こうやって
2時間位しゃべっても何の苦痛もないし、喉も涸れません。人生何が幸いするか分からんものですね!?

のっけから話が脇道に逸れてしまいましたが、皆さんも時々キリスト教もどきの結婚式に招かれることがあるでしょうし、これから結婚の可能性を残している方もおられるようだから、これ位のことは雑学知識として知っておいた方が良いでしょう。正統つまり、オーソドックスを知らないでシャアシャアしていると、赤っ恥をかかされることになりますからね。

話を戻しまして、これ迄に様々な古典を講じてまいった訳ですが、何故か「中庸」書には一度も触れませんでした。「中庸」は孔子の孫の子思が残したものと云われ、四書の一つに数えられる儒教の基本書でありまして、朱子も
集注(しっちゅう)を書いておりますが、どうして「中庸」書に触れなかったのかと申しますと、この書物は字義通りに訳しても意味不明と云うか、解読不能の所が何箇所もあるからなんですね、肝腎要の部分が。

「中庸」の解説書は、朱子の集注を元に江戸時代から現代迄の漢学者によるものが幾つもありますが、どれも観念論を振り回しているだけで「だからどうなの?」「それでどういうことなの?」と云う疑問にスパッと答え得るようなものは私の知る限りでは一冊もありません。

漢学の専門家でもよく分からんようなことが素人の私に分かる筈がない!?と半ば諦めかけておりましたが、私の悪い性分で分からないと余計知りたくなる、探求したくなる。何か手掛かりになるようなものは無いだろうか?と何年間も頭の隅っこに引っかかっておりましたが、ある時何気なく論語を開いたら、何とちゃんとそこにあるではないですか!重要な手がかりが!!

本日皆さんに贈呈しました「書いて味わう人生応援歌『論語』」の
8ページを開いてみて下さい。声に出して読むとある読み下し文を一緒に読んでみましょうか。「ハイッ!」・・・。

学而第一 
001  〔読み下し〕
()(のたま)わく、(まなび)びて(とき)(これ)(なら)う、(また)(よろこ)ばしからずや。(とも)遠方(えんぽう)より()たる()り、(また)(たの)しからずや。(ひと)()らずして(うら)みず、(また)君子(くんし)ならずや。

サア、どれがヒントか分かりますか?そう!学而第一第一章一節、「学びて時に之を習う、亦説ばしからずや」の(せつ)と云う文字です。「よろこぶ」ならば「(えつ)」と書く筈ですが、どうして「(せつ)」と書いて「よろこぶ」と読ませているのでしょうか?

孔子の時代、周音では「説(せつ)」をユエ・ue又はyueと発音しておりまして「悦(えつ)」という文字はまだありませんでした。しかし、「よろこぶ」ことをユエと云っていた事から、同音の「説(せつ)・ユエ」という文字を「よろこぶ」のユエに仮借(かしゃ)して字を当てた。つまり当て字にしたわけです。だが、これでは不都合が生じるので、後に「悦(えつ)」という文字が出来たんですね。


つまり、こういうことです、孔子や子思の時代には形而上の目に見えない世界について、明確な概念がなく、概念がなければ当然文字も成語もなかった、ということですね!!ここが第一のヒントです。中国で形而上の概念が成語化されるのは、仏教が輸入され、パーリー語やサンスクリット語の仏典が盛んに漢訳されるようになった唐代以降です。

次に、では孔子の頃は一体どれくらいの漢字が使われていたのか?諸橋轍次先生の大漢和辞典には二万字以上が収録されているけれども、2500年前はどうだったのか?を調べてみなければなりません。中国最古の字典、後漢の許慎が編纂した「説文解字(せつもんかいじ)」には、約9000字が収められておりますが、先秦時代の漢字の数はどれ位あったのか? 調べてみますと・・・・

  <詩経>2839字、<書経>1943字、<論語>1355字、<孟子>1889字、
   <四書全体では>
2317字、<老子>804字、<荘子>3185字・・・・。

従いまして、孔子の時代に使われていた漢字の数は、
2000前後であったことが分かります。これは、現代日本で使用されている常用漢字1945字とたいして変わらない勘定になります。

となりますと、概念もない、文字もない、成語もない時代に形而上のことを語ろうとすれば、ほとんどが隠喩にならざるを得ない!ということになる。つまり、「中庸」書は、字義に捕われて解釈しようとすると、解読不能に陥ってしまうということです。

そこで、「中庸」書で形而上のことが述べられている部分はすべて隠喩である!と断定した上で、字義に捕われず解釈したものを先般の青年部特別例会でぶつけてみました所、みなさん「よ〜く分かった!!」とおっしゃる。

こんなに難しいものが、そう簡単に分かってたまるものかと思いまして「本当によく分かったのか?」と重ねて問いますと「本当によ〜く分かった!!」ということでしたので本日は青年部で話した内容をもう一段深く掘り下げて語ってみたいと思います。

儒教の真髄を知る上で、「中庸」書は避けて通れない書物ですので、そのつもりでお聞きください。十年前だったら私も語れなかったでしょうし、皆さんも聞く耳を持たなかったでしょう。漸くここまで来た!と云うところでしょうかね。


二、「中庸」書に見る人間存在の実相

資料@、A、Bをご覧ください。今回お配りした三節につきましては「中庸」の中でも特に難解で、あたかも聖書の「創世記」や「ヨハネによる福音書」、或いは法華経の「十如是論」を読んでいるような気がします。

孔子は、高弟と云われる優れた弟子達にも特別な教えや奥義のようなものは何も伝授しなかったと伝えられますが、もしかして、孫の子思だけには何か特別なことを教えたのではないか?奥義を伝授したのではないか?何か図のようなものを指し示しながら、人間存在の実相を説き聞かせたのではないか?どうもそんな気がするんですね、「中庸」を読むと。

孔子と孫の子思はどれ位年が離れていたか?何も記録がありませんが、息子の鯉は孔子
20歳の時の子であることが分かっており、鯉が51歳で亡くなった後、曽子が子思を訓育したことも分かっている。

曽子は孔子より
46歳年下ですから、子思は曽子の45歳年下で、鯉が30歳位の時の子ではなかろうか?と察しがつく。 従って、20歳+30歳=50歳で、子思は孔子より50歳位年下と云うことになる。

孔子が、亡命先から魯に帰国するのが
68歳、この時子思は18歳。子思は、父の鯉と違って聡明な人でしたから、18にもなれば充分聴く耳を持っている。孔子が亡くなる74歳迄の6年間、孫の子思に対して自分の悟り得た真髄を伝授したのではなかろうか?

五十にして天命を知り、六十にして何を聞いても動じなくなり、七十にして変通自在、融通無碍の境地を得た真髄を説き聞かせたのではなかろうか・・・・?そんなことを考えていた時に偶然出会ったのが、資料Cのアヤナワンの図であります。


この図の詳細は、昨年(平成18年)
2月と7月の読書課題の必読書に挙げた「良寛の遺言」と「宗教の定義」の二冊に述べられていますから、皆さんもお読みになったと思います。私はこの図を見たときに一瞬電流が身体を突き抜けるような気がしまして、「ア〜そうか!孔子はこの図を示しながら、子思に真理を教えたのか!?人間存在の実相を教えたのか!?」と直観した訳です。

面白いもので、一つ謎が解けると、次から次へとシンクロニシティーが起きまして、今度は資料Dのチベット密教に伝わる秘図と、資料Eの三次元物質宇宙を構成する五大元素の意味と作用を紹介した本を贈ってくれる人が現れたり、 資料Fの古代エジプトに伝わるハトホルの図を紹介する本を貸してくれる人が現れたりする。チベット密教「五大の図」も、古代エジプトの「ハトホルの図」も、アヤナワンの図から出たものであることが分かります。


資料D

チベット密教に
伝わる秘図

資料E


資料F

ハトホルの図

「般若心経」は釈迦がアヤナワンの図を地面に描きながら、シャーリー プトラに真理を説いたものが、図が失われ、言葉だけが残ってパーリー語の「般若経」となり、後に神髄を簡潔にまとめた「般若心経」がサンスクリット語で書かれ、唐の時代に玄奘三蔵が漢訳した。だから般若心経は難解なんですね、現物が無いのに商品説明書だけあるようなものですから。

アヤナワンの図は後に訳の分からないまま「曼荼羅」になり、上部の六芒星の図が胎蔵界曼荼羅、下部の舟形をした図が金剛界曼荼羅に変化したと云われています。(詳しく知りたい方は、柴田倭成のHPを覗いてみてください)http://www.shibatawasei.jp/

「中庸」も実はそうだったんです、アヤナワンの図が失われて、文字だけが残った。だから、後世の学者が頭を悩ますことになったんですね。隠喩をどう解釈して良いか分からず、字義通りに訳すしかなかった。それでは、アヤナワンの図に照らし合わせるとどのようになるのか?お手元の資料を見ながら解説してみましょう。

その前に、資料@の読み下し文を一緒に読んでみましょうか!

「中庸 第一段 第一節」

<原文>
天命之謂性。率性之謂道。修道之謂教。
道也者,不可須臾離也。可離非道也。
是故君子戒慎乎其所不睹,恐懼乎其所不聞。
莫見乎隱。莫顯乎微。故君子慎其獨也。

<読み下し文>
天の命ぜる、之を性と謂う。性に率(したが)う、之を道(みち)と謂う。
道を修むる、之を教と謂う。道なる者は、須臾(しゅゆ)も離るべからざるなり。
離るべきは道に非ざるなり。この故に君子は其の睹(み)えざる所に
戒慎(かいしん)し、その聞こえざる所に恐懼(きょうく)す。隠れたるよりは
見(あら)はるるは莫(な)く、微(かす)かなるより顯(あきら)かなるは莫(な)し。
故に君子は其の獨(どく)を慎むなり。

何のことやら分からないと思いますので、漢学者はどのように解釈されているか? 赤塚忠先生の通釈文を読んでみます。


<通釈文>
天が(人間に人間として生きるべき根本のものとして)命じたもの、
これを性というのである。その性にしたがって行っゆくところに成りたつもの、
これを道という。(また)この道を(他からの強制によらずに自律的に)修得すること、
これを教えというのである。(されば)道というものは、(本来)ほんの僅かの間も
(人間から)離れられないのである。(もしも)離れるなら、(その道は)真の道では
ないのである。さればこそ、(道に明らかな)君子は(道を修めて行くのに、
その外に顕れているところはいうまでもなく)、その定かには見えもしない
ところから戒めつつしみ、聞きしれぬところから恐れつつしむ。
(つまり)かくしだてするひめごとほど人前にさらけ出されてうわさの種になるという
たとい(の通りで、もっとも戒むべきことは、人知れぬとにある)。
だから君子はわれとわが身ひとりのまもりを修める(ことを根本とするのである)。

サア、どうかな? 持って回ったような云い方で、「だからどうなの?」と問われて、「こうです!」とスパッと答えられるかな?私がスパッと訳してみますから、皆さんは資料C上の段の飾りなし・飾りありの<完成図>をチラチラ見ながら読み下し文に目を通して下さい。読み下しの棒線を引いた部分が理解できれば、文章全体の意味が分かると思います。

まず、「天の命ぜる、之を性と云う」ですが、「天」とは天地創造の神・造物主のこと。「 命(めい) 」とは読んで字の如く、命(いのち)・分霊(わけみたま)(分身)のこと。従って「天の命ぜる」とは『天地創造の神がご自身の命を分け与えられた存在、つまり、分霊が人間である』になる。

人は、潜在的に全員が神である!ということです。「性」とは神性・仏性のこと。人間は初めから、すべての人に神の種が宿された存在である!ということ。潜在的に全員が神なのだから、当たり前の話ですが。 この神性・仏性のことを「徳性」と云います。

ですから、「天の命ぜる、これを性と云う」とは、『天地創造の神が、ご自身の分霊として創られたのが人間であり、よってすべての人間は神の種即ち徳性を宿した存在である!』となります。


次に「性に率(したが)う、これを道と云う」ですが、「性」とは今云った徳性のこと、「 率(したが)う 」とは「率みちびく」の意味です。よって『徳性に率(みちび)く』となる。「之を道と云う」の道とは、人倫の道のことではなくて、宇宙の理法・法則のこと、神の定めた宇宙の理法です。

従って「性に率う、之を道と云う」とは『人間を本来の徳性に率(みちび)き無限に進化する存在とする為、神が定めた理法を道と云う』となる。

次の「道を脩むる、之を教えと云う」とは『神が定めた理法を学び修得することを真の教え、つまり、悟りというのである』となる。

以上、棒線の部分を通して読み直してみると『天地創造の神が、ご自身の分け霊として創られたのが人間であり、よってすべての人間は神の種・即ち徳性を宿したる存在である。人間を本来の徳性に率き無限に進化する存在とする為に、神が定めた理法を道と云う。この道、つまり神の定めた理法を学び修得することを真の教え、即ち、悟りと云うのである!』となります。

ここが解明できれば、後は比較的簡単です。 神の定めた理法のことを「 宗(しゅう) 」とも云います。ですからこの文章は「宗教とは何か?」を定義したものでもあるんですね。宗教とは、神仏の定めた理法を学び修得する、つまり、悟りを得ることが眼目ですから。

ここ迄をもう一度整理してみますと、神の分け霊が→人間であり、人はみな→神の種・徳性を宿しており、この徳性を無限に進化させる為に→神の理法・道があり、神の理法を学び修得するのが→真の教え・悟りである!となる。


天=神(造物主)、命=人間(分霊)、性=神性(徳性)、率=進化、道=理法、脩=修得、教=悟り、に変換して読み下し文に代入してみると、漸く次のフレーズ「道なるものは、須臾(しゅゆ)も離るべからざるなり・・・・」以降の文章が自然につながって来ます。

赤塚先生の訳し方では、なぜ人間がこの理法・道から片時も離れることが出来ないのか?意味が分からず、前後がつながりません。つまり、子思は孔子がアヤナワンの図を示しながら伝授した奥義・人間存在の実相と悟りの本質を、中庸冒頭でバーンとぶつけて来た訳です。

孔子の死後、我こそは、我こそは!と自分勝手な言説を弄ぶ、野狐禅のような門下生が出てきたから・・・。子思の頃は「百家争鳴」で、いい加減な言説が横行していた時代です。時代背景を考えると成る程!!と分かります。



「中庸 第一段 第一節」まとめ

<原文>
天命之謂性。率性之謂道。修道之謂教。
道也者,不可須臾離也。可離非道也。
是故君子戒慎乎其所不睹,恐懼乎其所不聞。
莫見乎隱。莫顯乎微。故君子慎其獨也。

<読み下し文>

@天の命ぜる、之を性と謂う。性に率(したが)う、之を道(みち)と謂う。
  道を修むる、之を教と謂う。

A道なる者は、須臾(しゅゆ)も離るべからざるなり。

B離るべきは道に非ざるなり。

Cこの故に君子は其の睹(み)えざる所に戒慎(かいしん)し、その聞こえざる所に
 恐懼(きょうく)す。

D隠れたるよりは見(あら)はるるは莫(な)く、微(かす)かなるより顯(あきら)か
 なるは莫(な)し。故に君子は其の獨(どく)を慎むなり。

<通釈文>
@天地創造の神が、ご自身の分け霊として創られたのが人間であり、
 よってすべての人間は神の種・即ち徳性を宿したる存在である。
 人間を本来の徳性に率き無限に進化する存在とする為に、
 神が定めた理法を道と云う。この道、つまり神の定めた理法を学び修得することを
 真の教え、即ち、悟りと云うのである

A人間は神が定めた理法(宇宙の法則)から分離独立して存在することはできない
 のである。(すべては神の法のうちに有り!と云うこと)

B離れられるのなら、それは神が定めた法ではなく、人間が自分の都合で勝手に
  作り出した仮想のものである。

Cだから、神の理法を修得した人、つまり悟りたる者は(この場合の君子とは、
 身分の高い人や出来た人物の意ではなく、悟りたる者の意)、眼・耳・鼻・舌・
 身・意なる六根から来る肉体感覚作用に晦まされることなく、見れども見えず、
 聞けども聞こえぬ神の理法の前に、己を戒め、つつしみ、恐れ畏こみ額ずく
 のである。

D目に見えぬ世界から目に見える世界が生まれたのであり、耳では聞こえぬ
 精妙なエネルギー波動から三次元物質世界が誕生したのである。
 だから、この神理を悟る者は、肉の感官である自我を捨て、神の種(神性)である
 真我(魂)の修養につとめ励むのである。

*「独」とは真我のこと
*神の定めた理法のことを→神理(神の理(ことわり))と云い
  →真理(真(まこと)の理(ことわり))と云う。

資料Aに移ります。読み下し文を一緒に読んでみましょう。

「中庸 第一段 第二節」
 

<原文>
喜怒哀樂之未發,謂之中。
發而皆中節,謂之和。
中也者,天下之大本也。
和也者,天下之達道也。
致中和,天地位焉,萬物育焉。

<読み下し文>
喜怒哀樂の未(いまだ)發せざる。之を中(ちゅう)と謂う。
發(はっ)して皆節(せつ)に中(あた)る、之を和と謂う。
中(ちゅう)なる者は、天下の大本(たいほん)なり。
和なる者は、天下の達道(たつどう)なり。
中和(ちゅうわ)を致して、天地位(くらい)し、萬物(ばんぶつ)育(いく)す。

どれ位トンチンカンな訳し方をしているか読んでみます。

<通釈文>
(さて人の行いは、物事にふれて、感情の動きとなることから始まるが、その感情が)
喜・怒・哀・楽などとなって外に表れる前(に、心の平正さがあるべきである、)
それを中という。この中があらわれると(その行いは)、すべて物ごとの節度に
合致することになる。これを和という。(だから)中こそは、天下(が秩序正しく
治まるため)の大根本である。和こそは天下(に)あまねく、(実現すべき)道である。
(このようにして)中と和を実現しつくせば、(人間ばかりでなく)全宇宙の秩序が
いささかのくるいもなくなり、ありとあらゆるものがその成長をとげて、
(全宇宙が繁栄するのである)。

赤塚先生は苦労して無理矢理通釈したようですが、訳した本人ですら何のことかさっぱり意味が分からなかったと思います。これはもうアヤナワンの図が無いと解析不能でしょう。

資料
C 二段目の<略図>とある所を見てください。
   
「喜怒哀楽の未だ発せざる、これを中と云う」ですが、喜怒哀楽をそのまま人間の感情の表れと取ったら、この文章は分からなくなります。これは人間の感情を云っているのではなく、ある状態を喜怒哀楽に喩えて云っている。この当時は物質化現象やエネルギーの凝縮作用を表す言葉が無かったのでしょう。

皆さん「老子」を全篇やりましたから、お分かりかと思いますが、老子が難解なのは、暗在系(目に見えない世界)の様相をすべて隠喩で語っているからですね。当時は、エネルギーや非物質や素粒子や波動という概念も言葉も無かったから、仕方がないんです。隠喩で表現するしかなかったんですね。


では、喜怒哀楽の未だ発しない状態とは一体何にたとえたのか?『宇宙に遍満する生命エネルギー(エーテル)が凝縮して物質化する以前の状態』を云っている訳です。これを中と云うとあるのは下図を指します。

    

論語開眼で何度も述べているように、中の原字は以下でありまして、的の中心を射抜くの意。アタルと読みますが、中はこの図からとった文字です。中とは仏教で云う「空」のことです。

 
次に「発して節に中(あた)る、これを和と云う」ですが次の図、これは陰陽が交わる状態を表したものです。以下のハトホルの図と同じです。そして物質が発生する。



下の図は、発して節に中(あた)った状態。つまり、エネルギーが凝縮して物質化した状態。

 

下図が「和」。つまり、大調和の下に物質宇宙・三次元宇宙が誕生した状態、仏教で云う「色」のこと。




次、「中なる者は、天下の大本なり」とは物質以前の「空」の状態、つまり、素粒子エネルギーの状態が大本であって、「和なるものは、天下の達道なり」、このエネルギーが凝縮して三次元物質宇宙が達成されるのである。「色」の状態となる。

次に、「中和を致して、天地位し、萬物育す」の、中和致してと云うのは、色即是空、空即是色、物質からエネルギーへ、エネルギーから物質へと変換する『循環』の様のことを云っている。

「天地位し」とは、このエネルギー循環の理法の下にすべてが存在するの意、つまり『諸行無常』のこと。

「萬物育す」、万物が生成
繁茂 衰退 枯死 生成 繁茂 衰退 枯死を繰り返す、となる。

通して訳してみると『目に見えない生命エネルギーが凝縮して物質化する以前の状態を“中”と云う。これに陰と陽が作用して振動が起こり、生命エネルギーが凝縮して物質化した状態を“和”と云う。三次元物質世界の誕生である。だから、目に見えない非物質世界が原因であり、目に見える物質世界は結果である。物質はエネルギーに変換され、エネルギーは物質に変換されるという色即是空、空即是色の循環が宇宙の法則であり、この法則の下に地球上の万物は、生成
繁茂 衰退 枯死を繰り返すのである』となります。

「中庸 第一段 第二節」まとめ

<原文>

喜怒哀樂之未發,謂之中。
發而皆中節,謂之和。
中也者,天下之大本也。
和也者,天下之達道也。
致中和,天地位焉,萬物育焉。

<読み下し文>
@喜怒哀樂の未(いまだ)發せざる。之を中(ちゅう)と謂う。
A發(はっ)して皆節(せつ)に中(あた)る、之を和と謂う。
B中(ちゅう)なる者は、天下の大本(たいほん)なり。
C和なる者は、天下の達道(たつどう)なり。
D中和(ちゅうわ)を致して、天地位(くらい)し、萬物(ばんぶつ)育(いく)す。

<通釈文>
@目に見えない生命エネルギーが凝縮して物質化する以前の状態を「中」と云う。
Aこれに陰と陽が作用して振動が起こり、生命エネルギーが凝縮して物質化した
 状態を「和」と云う。三次元物質世界の誕生である。
Bだから、目に見えない非物質世界が原因であり、目に見える物質世界は結果である。
C物質はエネルギーに変換され、エネルギーは物質に変換されるという
D「色即是空、空即是色」の循環が宇宙の法則であり、この法則の下に地球上の万物は、
 生成
繁茂 衰退 枯死を繰り返すのである



資料Bをご覧ください。 読み下し文を一緒に読んでみましょう。

「中庸 第三段 第一節」

<原文>

誠者自成也。而道自道也。
誠者物之終始。不誠無物。是故君子誠之為貴。

誠者非自成己而已也。所以成物也。成己仁也。
成物知也。性之コ也,合外內之道也。故時措之宜也


<読み下し文>
誠は自ら成るなり。
して道は自ら道(よ)るなり。
誠は物の終始なり。誠ならざれば物(もの)無(な)し。
(こ)の(ゆえ)に君子は之を誠にするを貴(たっと)しと為す。

誠は自ら己を成すのみに非(あら)ざるなり。物を成す所以(ゆえん)なり。
己を成すは仁なり。物を成すは知なり。
性の徳なり、外内(がいない)を合するのは道なり。
故に時に之を
(お)きて宜(よろ)しきなり。

いかがですか?今度は何となく分かって来たでしょう? これは@を補足説明し、神の子人間としていかに生きるべきか?己を磨くべきかを説いている。 通釈を読んでみまようか・・・・。

<通釈文>
(以上論じて来たところによれば)誠であることは、(それは人間の本性そのももの働きであるから、)人間が(各自に)人間として自ら完成することである。そして人間として完成する  ところに人間の道が自然に成り立って行くのである。(自己ばかりでなく、)誠であることは、すべての物がそれぞれの(真の)展開を遂げることである。もし誠でなかったらなら、その物は独自の価値ある存在ではない(ことになる)。それだから君子は己を誠にし(て尊厳にすることが最も)大切であると考えているのである。

(また)誠であることは、(このように)自己を完成させるばかりでなく、他の物もそれぞれに完成させることになるものである。(誠がそのように)自己を完成させるのは、仁の徳である。他の物を完成させるのは、知の徳である。(つまり)誠は、人間の内に備わる性の(仁、知などの)すぐれた徳であり、しかもまた外、他の物と和合する道である。だから(誠は)どんな時に用いても常に物ごとの適正さを得るのだある。

これもかなり混乱していて、「で、どうなの?」と聞かれたら、まともに答えられんでしょう。これも訳し直してみましょう。

「誠は自ら成るなり」、誠とは、人間の誠実さを述べているのではなく、これも隠喩で、神の意識・神の意志のことを喩えています。誠=言(ことば)+成(なる)=神の意志のことです。

『太初(はじめ)に言(ことば)があった。言は神とともにあった。言は神であった。この言は太初に神とともにあった。すべてのものはこれによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった』(ヨハネによる福音書)とあるように、言(ことば)とは神の意志のこと。すべてのものが神の意志によって成った。

つまり、鉱物も植物も動物も人間も、すべては神が自らの意志によって創造したものであって、全宇宙が神の意識体の現れである!ということ。

「而して道は自ら道(よ)るなり」とは、万物変化(諸行無常)の仕組みは寸分狂いない法則の支配下にあり、この法則から逃れられるものは一つとして無い。つまり、すべては神の法の内にある、ということ。

アヤナワンの図の三段目、一番左の図を見てください。

これが、万物変化の法則を表した図です。資料Dチベット密教に伝わる“五大の図”と同じです。五大とは、地・水・火・風・空の五大元素の作用によって様々な変化が起きるというものです。 資料➅は、各元素の意味と作用を示したものです。

悟りを開いた人は、万物変化の法則から逃れることは出来ないが、この五大を自由自在に使いこなすことが出来るそうです。 五大と似たような考えが古代ギリシャにもありまして、土・水・空気・火を万物変化の根本要素とする「四元素論」がある。

「誠は物の終始なり。誠ならざれば物無し」とは、『すべての存在は神の意志が成らしめているのであり、神のあらしめ・ならしめんとする意志がなければ何一つ存在しない』と云うこと。

「是の故に君子は之を誠にするを貴しとなす」、『だから君子は、思いと言葉と行いのすべてを、神の意志・みこころに叶うようにすることを貴ぶのである』。

「誠は自ら己を成すのみに非ざるなり。物を成す所以なり」物とは外物、つまり環境のこと。『神の意志みこころに叶うように生きるということは、己一身のみならず、外物にもその影響を及ぼす。即ち、自らの思いと言葉と行いが周りの環境を作り出すのだ』と云うこと。

「己を成すは仁なり」、『だから身・口・意の拠り所を仁に置きなさい』。

「物を成すは知なり」、『己の身・口・意がすべての環境を作り出すことを知る。これが本当の叡智である』。

「性の徳なり、外内を合するの道なり」、『これがすべての人に宿る徳性であり、自他一如なる宇宙の根本原理である』。

「故に時に之を措きて宜しきなり」、『だから、何時でも何処でも誰とでも、身・口・意の拠り所を仁に置き、神の子人間同士、大調和して生きなさい!』となります。
いかがでしたでしょうか?


「中庸 第三段 第一節」
まとめ

<原文>
誠者自成也。而道自道也。
誠者物之終始。不誠無物。是故君子誠之為貴。

誠者非自成己而已也。所以成物也。成己仁也。
成物知也。性之コ也,合外內之道也。故時措之宜也


<読み下し文>
@誠は自ら成るなり。
して道は自ら道(よ)るなり。
A誠は物の終始なり。誠ならざれば物(もの)無(な)し。
B
(こ)の(ゆえ)に君子は之を誠にするを貴(たっと)しと為す。
C誠は自ら己を成すのみに非(あら)ざるなり。物を成す所以(ゆえん)なり。
D己を成すは仁なり。物を成すは知なり。
E性の徳なり、外内(がいない)を合するのは道なり。
F故に時に之を
(お)きて宜(よろ)しきなり。

<解釈文>

@鉱物も植物も動物も人間も、すべては神が自らの意志によって創造したものであって、
 全宇宙が神の意識体の現れである。
万物変化(諸行無常)の仕組みは寸分狂いない
 法則の支配下にあり、この法則から逃れられるものは一つとして無い

Aすべての存在は神の意志が成らしめているのであり、神のあらしめ・ならしめんとする
 意志がなければ何一つ存在しない。
Bだから君子は、思いと言葉と行いのすべてを、神の意志・みこころに叶うように
 することを貴ぶのである。
C神の意志みこころに叶うように生きるということは、己一身のみならず、外物にも
 その影響を及ぼす。即ち、自らの思いと言葉と行いが周りの環境を作り出すのだ。
Dだから身・口・意の拠り所を仁に置きなさい。己の身・口・意がすべての環境を
 作り出すことを知る。これが本当の叡智である。
Eこれがすべての人に宿る徳性であり、自他一如なる宇宙の根本原理である
Fだから、何時でも何処でも誰とでも、身・口・意の拠り所を仁に置き、
 神の子人間同士、大調和して生きなさい!

「儒教とは、処世の要道ばかり説いているのかと思っていたが、こんなに奥が深かったのか・・・?」と感じられたのではないでしょうか。中庸書のこれ以外のところは、「子曰く」と皆さんおなじみの言葉のオンパレードですからすらすらと読めるでしょう。今日紹介した三本が特に難解で、漢学者でさえ嫌がる所なんです。

「分かりやすく解説してくれ!」などと云われたら、「朱子の集注ではこう」、「仁斎の中庸発揮ではこう」、「徂来の中庸解ではこう」としか答えようがありません。「で、どう云うことなの?」などと聞こうものなら、「自分で考えてみなさい!」と叱られます。皆さんは今日ここを解明した訳ですから、是非「中庸」を読んでみて下さい。子思が孔子の教えをきちんと整理してくれていますから「論語」の復習にもなるでしょう。

四書でやっていないものは、あとは「大学」だけかな? 大学はそう難しくありません。言葉の定義と解説みたいなものだから、哲学書を読める人なら楽でしょう。


三、神の子人間として真なる我を生きよ!

・・・・と、ここ迄は先般の青年部特別例会で話したことでありますが、本日はここからが本番。今程の解説の結語、「故に時に之を
()きて宜しきなり」・『だから、いつでもどこでも誰とでも、身・口・意の拠り所を仁におき、神の子人間同士大調和して生きなさい!』とありますが、では大調和して生きるにはどうしたら良いか? ここが皆さん一番知りたい所ではないかと思いますので、それをこれからお話いたします。

大調和して生きるとはどういうことか? 実は本日のレジュメ三番目のタイトル、「神の子人間として、真なる我を生きよ!」、これが答えなんです!・・・・、と云った所で皆さん納得しないでしょうから、ちょっと説明してみます。

私達は自分自身のことを「
(われ)」と云いますが、皆さんは「(われ)」をどのように自己認識しているんでしょうか?脳ミソを含む肉体がすべて! 喜怒哀楽の感情も、善悪正邪の価値判断も、神や魂と云った観念も、すべては脳ミソが作り出すものであって、死んでしまえば一巻の終わり!!と「我」を認識しているか?

人間の本質は魂である! 肉体は魂の乗り舟である。魂は神の分け霊(分身)であって、魂は神の種を宿した永遠不滅の存在である!!と「我」を認識しているか?

つまり、「我」なる存在の本質を三次元物質界に幽閉された物質的存在として見るか?三次元を超越して高次の世界に開放された霊的・非物質的存在として見るか?ということですが、「中庸」書では、後者である!と断言している。

「我」と一言で云っても、インドのウパニシャド哲学では

  我 ・・・・@ 物質的存在としての「我」・・・肉体生命をアートマン「自我」
     ・・・・A 霊的存在としての「我」  ・・・最高神ブラフマン      「真我」

「中庸」もウパニシャド哲学と同じ立場をとっている。分り易く絵に画いてみると、

<我>

 外側  自我(アートマン)

  中心  真我(ブラフマン)

<我>

外側    肉体                             肉体我…欺我

二番目  感情体  自我に三つあり 感情我…戯我     偽我

三番目  思考体                思考我…擬我

中心    魂・・・・真我


     
<我>

外側    肉体……肉体判断基準(貧富・貴賎・強弱・損得)
二番目  感情体…感情判断基準(好嫌・愛憎・苦楽・難易)
三番目  思考体…思考判断基準(善悪・正邪・理非・曲直)
※ここ迄が自我で、相克排他の二元価値基準(分離)

四番目  魂…徳性判断基準(布施・愛語・利行・同事)
中心    神の種(神性・仏性)
※ここは真我で、相生和合の一元価値基準(万物斉同・自他一如)

<我>
外側    肉体   …万物流転の法則(生→老→病→死)
二番目  感情体…作用反作用の法則(怨めば怨まれ・憎めば憎まれ
       好けば好かれ・嫌えば嫌われる)
三番目  思考体…波長同通の法則(類は友を呼ぶ)

四番目  魂…諸法無我
       (すべての物に実体はない、あるのは神の意志のみ)
中心    神の種…光一元(無限の愛・無限の生命・無限の創造・
       無限の英知)  つまり、無限の大調和の光

究極の実在は神の意志即ち、神の全能の大調和の光のみ!!「真なる我を生きるとは肉体・感情体・思考体と云った偽我に晦まされず、光り輝く存在としての自己を生きよ!!と云うことであります。

15
年もこんなことを飽きもせず云って来ましたから、さすがに肉体我なる「欺我」に振り回されている会員は殆んど見かけなくなりましたが、感情我なる「戯我」に翻弄されている方を時々見かけます。善悪・正邪・理非・曲直よりも、気分の良し悪しや好き嫌いで判断する人を。

でもまあ
じきに気が付くでしょう、周りの会員に感化されて。感情我は、自分で気付けばコントロールできるようになります。気付かなければ野放し状態のままで終わるでしょう。

私が一番気がかりなのは、当会の会員は皆さん学問好き、勉強好き、読書好きですから、そこの落とし穴にはまり込んで最後の砦、思考我なる「擬我」の壁をぶち破ろうとしない人が結構多いということです。

近代の学問は、デカルト以降、証明できないことは学問の対象にしないということになっておりますから、思考我これを真我と錯覚して、学問をすればする程偽我に凝り固まってしまうんですね。高学歴・高学問の人程光を曇らせている。

当会も例外ではありません。これをヤシの実に喩えてみると分り易いでしょうか。

      

  ○ 外皮                         →肉体我 。「欺我」。ログ200のバカの壁。
  ○ 複雑にからみあった繊維 →感情我。「戯我」。ログ400の賢者の壁。
  ○ 堅い堅い殻                →思考我 。「擬我」。ログ500の仁者の壁。
  ○ ココナツミルク(胚乳)  →真我。

肉体我をはぎ取り、感情我をはぎ取るのはそんなに難しくはないけれど、思考我なる硬い殻をはぎ取るのは生易しいことではない。がしかし、ここをブチ破らなければ、神の子人間としての光は出てこない。

皆さんがこれまでの人生で、読み・書き・記憶して学んできた思想・信条・信念体系・定説・学説と云ったものが、魂の外側にまとわりついて、堅い堅い殻を作ってしまっている。他人が作った観念を自分のものと錯覚して身にまとっている、つまり人に擬した我「擬我」を本当の自分、真我と勘違いしている訳です。

孔子もある時このことを痛感したんでしょう、「学びて思わざれば則ち罔く、思うて学ばざれば則ち殆うし」と云っている。然らば孔子は、どんな人生のプロセスを踏んで、変通自在、融通無碍の光輝く神性を体現して行ったのでしょうか?

「写論」32頁をお開きください。読み下し文を一緒に読んでみましょう。「ハイッ!」。

為政第二 
020 〔読み下し〕
()(のたま)わく、(われ)(じゅう)(ゆう)()にして(がく)(こころざ)し、三十(さんじゅう)にして()ち、四十(しじゅう)にして(まど)わず、五十(ごじゅう)にして天命(てんめい)()り、六十(ろくじゅう)にして(みみ)(したが)い、七十(しちじゅう)にして(こころ)(ほっ)する(ところ)(したが)えども、(のり)()えず。


「吾十有五にして学に志し」

『十五歳の時、学問の道で身を立てようと決心した』。
学問とは、本来真理を探究し究明することでありまして、学説や定説を鵜呑みにすることではありませんし、丸暗記することでもありません。むしろその逆です。それまで定説とされて来たものごとは、本当に究極の真理と云えるのだろうか? 違うのではないだろうか? 違うとすれば何が究極の真理なのだろうか? これを問い続け、究明していくのが本来の学問です。 そして孔子は15年かかって自分なりの学説を確立する。

「三十にして立つ」

孔子は自信満々で三十のときに老子に会いに行きますが、バシッと知天狗の鼻をへし折られてしまいます。老子は孔子にこう云った。「良賈は深く蔵して虚しきが如く、君子は盛徳ありて容貌愚なるが如し。子の驕気と多欲と態色と淫志を去れ!之みな子の身に益なし!!」と。

『本物の商人(あきんど)は、いい商品は蔵にしまっておいてロクなものが無いような顔をしている。出来た人物は立派な徳を備えていても愚かな者のような顔をしている。君のその俺が俺がというウヌボレと、何でもかんでも一番になりたいという欲と、知ったかぶりするパフォーマンスと、薄汚れた自我の心を取り去りなさい! これらはすべて君にとってプラスにならない!」と。

こう云われて、孔子はハッとします。「鳥は吾其の能く飛ぶを知り、魚は吾其の能く游(およ)ぐを知り、獣は吾其の能く走るを知る。走るものは以って罔(あみ)をなすべく、游ぐ者は以って綸(いと)をなすべく、飛ぶ物は以って矰(いぐるみ)をなすべし。龍(りょう)に至っては吾其の風雲に乗じて天に上(のぼ)るを知ること能わず。吾れ今日老子を見るに、其れ猶お龍の如きか!」と感嘆の声を漏らしている。ここが孔子のすごい所で我々凡人なら「ナニオ!このクソじじい!!」となる所でしょうかね。孔子は更に十年の研鑽を積み、すべての迷いがふっ切れた。

「四十にして惑わず」

『四十になって、何事も戸惑うことがなくなった』、つまり、何が本当の真理なのかということが分かって、あれか?
これか? と迷うことが無くなった。しかし、自分に与えられた使命は一体何なのか? ここがいま一つはっきりしない。さらに十年の研鑽を積む。そして漸く自分の使命に目覚める。

「五十にして天命を知る」

政治指導者として、国及び国民の安・富・尊・栄を実現することが自分の使命である!と覚った。面白いもので、使命を覚った途端、君主の定公からお呼びがかかる。それまで叶わなかった仕官の道が開けることとなる。

51才〜54才迄の四年間で、司寇→大司寇とトントン拍子で出世して位人臣を極めますが、隣国斉の横ヤリで政争に敗れて亡命することになる。いろんな国に行って仕官の口を探しますが、誰も雇ってくれない。還暦を迎える頃になって、さすがの孔子も考え込んでしまった。「
(われ)言うことなからんと欲す。天何をか言うや、四時行なわれ百物生ず。天何をか言うや」と、子貢に弱音を漏らしている。

普通ならここであきらめてしまう所ですが、孔子は違った。これまでは「ああでなければ、こうであれば」と前提や条件にこだわることがあったけれども、これからは無前提・無条件に、あるがまますべてを受け入れて行こう! 自我を捨てよう! 思考我こそが真なる我だと思っていたけれども、そうではなかった。擬我に過ぎなかった。これを捨てよう!そして、神の
御心(みこころ)のままに神の道具として衆生を救済して行こう!!これが私の本当の使命である!!と救世の使命を悟った訳です。つまり、ここに至って、いよいよ救世主として働く覚悟ができた訳ですね。

「覚悟」というのは面白い文字で、覚る・悟るとサトルが二つ重なっている。サトリに至るには「覚る」段階と「悟る」段階の二段階の構造になっていると云うことですね。悟=心+吾の会意文字ですが、本当の吾が心を知ることの意味なのでしょう、悟って本物の覚悟ができる訳です。 覚悟ができれば、もう何も怖いものはない。何を聞いても動ずることがなくなった。動揺することがなくなった。

「六十にして耳順う」

あるがまますべてを受け入れる覚悟ができたから、取り越し苦労も持ち越し苦労する必要がなくなった。私は、この時に本当の孔子が誕生したのではないかと思います。そして更に十年。心の赴くままに行なっても道理つまり真理の道を踏み外すことがなくなった。

「七十にして心の欲する所に従えども
(のり)()えず」。

神の種を宿した神の分身として、真なる我を生き切った。光り輝く神の子人間の完成をみた訳です。仏教用語で云えば、孔子は七十才にして「即身成仏」した訳ですね。大聖人孔子に宿っていたのと同じ神の種が私達にも宿っている訳ですから、孔子のようには行かないかも知れませんが、その人生プロセスは大いに参考になる。

私なりに整理してみると・・・・・
  三十才迄は・・・基礎づくり、知識を身につける年代。
  三十代は  ・・・・大いに社会探求をやって見識を身に付ける年代。
  四十代は  ・・・・自分を含む人間探求をやって膽識を身に付ける年代。
  五十代は  ・・・・社会的使命に目覚めて、組織・集団・社会をリードしていく年代。
            覚識を得る年代。
  六十代は  ・・・・神の子人間としての本当の使命を悟って、
            後進を教え導いて行く年代、変通自在の年代。
  七十以降は・・・解脱して、自己の天命に叶う道を楽しみながら、
            世の中にお返しをしていく年代、融通無碍の年代。

私たちは人生のどこかで自我・偽我を剥ぎ取らなければならん事態に必ず遭遇するようになっています。 大調和の世界にあって、不調和な思いを抱き・語り・行なったりすれば、万人に宿されている神性・真なる我が必ずシグナルを送ってきます、早く気付きなさい!と。病気・怪我・事故・不振・挫折と云った形で。

日本人の死亡原因の中で一番多いのが癌ですが、免疫学の安保徹教授によると癌の原因は免疫力の低下、免疫力低下の原因はストレスである!と云っておられますが、ストレスの原因については曖昧なことしか云っていない。

安保先生は「無理をすればガン、楽をすればデブ」としか云っておりませんが、ストレスの原因は不調和です! 不調和の原因は、偽我と真我の葛藤です!!

Stress is when your mind says no!  but your mouth opens up says yes!

「ストレスとは、心がノーと云っているのに、口が勝手に開いてイエスと云っている状態」を云うのですね。

では、万病の原因である免疫力低下、免疫力低下の原因であるストレス、ストレスの原因である心の不調和、不調和の原因である偽我を取り除く「特効薬」は一体何でしょうか?それは「菩提心」と云うものです。

菩提心とは、真理を求める心・悟りを求める心・解脱を求める心のことを云いますが、この菩提心が自我と云う偽我を一刀両断する黄金の斧なのです!この黄金の斧のことを「降魔の利剣」と云ったり「破魔矢」と云ったりしますが、魔・悪魔・サタンは外にいるのではなくあなたの心にいるんです! 悪魔の正体はあなたの自我です!!

皆さん初詣に行って、破魔矢やお札を買ってくるでしょう? あれは外にいる悪魔を追い払うものではなくて、あなたの心の中に潜む魔、即ち自我を追い払う為のものなんですよ!お札は、不動明王の降魔の利剣を象徴したものです。剣のように先がとがっているでしょう。己心の魔即ち自我を一刀両断する為の象徴なんです。

この剣や弓矢に相当するのが菩提心です。菩提心と云う言葉が難しければ「信心」でも良いでしょう。信心とは神仏を信じる心のことですが、神性・仏性を宿した真なる我を信じることと同じです。神仏ははるか遠くの宇宙の彼方にいるのではなく、万人の心の中に宿っているのです。

ですから、人に頼らず、自分自身を信じて生きなさい!
真なる我を信じて生きなさい!

自分自身を信じることを「自信」と云うではないですか。菩提心を持って自分を信じて生きた時、人は光り輝く偉大な存在に変貌するんです。誰もが!!

孔子はこのことをどう云っているか?「写論」140頁を開いてみて下さい。一緒によんでみましょう「ハイッ!」

『真我の道を歩みなさい。真我の道とは、仁・義・礼・知・信なる五つの徳目を素直に実践することだ。徳はすべて仁ベース・仁をより所にしなさい。そして、自己の天分に叶った道で悠々自適・大調和して生きなさい!! これが人生の王道だ!!』と

今日の話はちょっと難しかったかな?

今回初めて参加されたゲストの方が何人かおられるようですが、「論語に学ぶ会」って、随分面倒なことを云うところだな?と感じた方がおられるかも知れません。しかし、心配ご無用! こんな話をすることは滅多にありませんから。

普段は、面白オカシク和気藹々とした例会ですから、興味が湧いたら参加してみて下さい。最近当会でも、体調を崩された方・癌に侵された方・大怪我をする方・仕事や商売がうまく行かない方が結構おられるようですので、これは放っておけない!と思いましてこんな話になりました。大調和の心で生きればなおります!

大調和して、真なる我を生き切りなさい!! 
そうすれば、恐れるものは何もありません!!

以上で本日の講義を終わります。