経歴からも分る通り、孔子は大変な苦労人でありました。論語を読んだことのない人は、孔子様とはさぞかし
お堅くて、道徳の干物か倫理の化石のようなお方ではなかろうか?と思っているようですがとんでもありません。
今程申しましたように、孔子は大変な苦労人ですから、人の痛みというものが良く分かる。酒も飲むし、歌も歌う。
お洒落でもあるし、グルメでもある。(郷党第十に皆記されております)仏典のように抹香くさいことは何も
云っていない。誰にでも分るようなことしか云っていない。
誰にでも分るけれども、じゃあその通り実行できるか?となると、これが難しい。当たり前のことを当たり前にやると
云うのは、本当に難しいものです。だから、一層論語が光ってくる。「人として当たり前のことを、当たり前に
やりなさい!」と云っているのですから。ところが、我々凡人は、この当たり前のことを往々にして忘れてしまい
がちです。では一体、何が人として当たり前のことなのか?
孔子はズバリと述べています、「己の欲せざる所は、人に施すこと勿れ!己所不欲、勿施於人」。
『自分が嫌だと思うことは、決して人に仕向けてはならんよ!』と。更にこうも云っています、
「己立たんと欲して人を立て、己達せんと欲して人を達す!己欲立而立人、己欲達而達人」。
『自分がこうありたい!?
ああなりたい!? と思うことはまず人にやってあげなさい!!』と。
これなどは、新約聖書、マタイによる福音書第七章「さらばすべて人にせられんと思うことは、人にも亦
その如くせよ」というイエスのゴールデンルールと同じことを云っている訳ですが、利他の愛、人に対する思いやり、
これが人間としての根本である!と云っているのであります。
かと思えば、孔子は随分と粋なことも云っております。テキスト(仮名論語)125頁
「唐棣の華、偏としてそれ反せり。豈汝を思わざらんや。室これを遠ければなり、子曰く、未だ之を思わざるなり。
それ何の遠きことかこれ有らん」。
『にわざくらの花がヒラヒラと揺れている。あなたのことを思わない訳ではないけれど、何分家路が遠過ぎて。
と云う流行歌を黙って聴いていた孔子は、口を開くと、“それはまだ心底惚れていない証拠だ!
惚れて通えば千里も一里と云うではないか!!”と云った』。これなどは特に人間通孔子の面目躍如たる所です。
また、弟子達はよくこんな記録を残しておいたなあ!と思うのですが、孔子は純情でウブな一面ものぞかせます。
(仮名論語)P78頁「子南子を見る。子路よろこばず。夫子之にちかいて曰く、予が否なる所のものは、
天之をたたん、天之をたたん」通釈しただけでは面白くないので意訳してみましょう。
『孔子が衛の霊公の婦人で、大変な助平女であった南子の誘惑を断りきれず、弟子達に内緒でこっそりと
デートに行って来た。これを見た弟子の子路は“セッ、先生!いったい何処に行って来たのですか!?まさか
あの助平女に会いに行って来た訳じゃないでしょうね!”と問い詰めた。孔子は苦しまぎれに“わしは何も
イヤラシイことはやってない。もしわしにやましいことがあるならば、きっと天罰が下るだろう。天が私を亡ぼす
だろう!”と言い訳をした』
山形塾の諸君はこの章が特別気に入っているようですが、何とオーバーな言い訳でしょうか。本当にイヤラシイ
ことを何もしていないならば「お前たちの心配することではない!」と一言云っておけば済むものを。皆さんも、
今度朝帰りに及んで、奥さんに詰め寄られたら使ってみますか?「あんた!今何時だと思っているの!いったい
何処に行って来たの!?」と詰め寄られたら、「我が否なる所の者は、天之をたたん、天之をたたん!」と。
ま〜あッ!うちの父ちゃんとうとう頭がイカレテしまったか!?となって離婚されてしまうのがオチでしょうか。
2.「徳」と「中庸」
ここ迄はほんの小手調べ、これから愈々本論に入ります。孔子教学を一般に儒学と申します。儒学を儒教とも
云いますが、儒教は宗教ではありません。学問です。どんな学問かと申しますと、君子、つまりリーダーを養成する
為の学問であります。「君子(リーダーシップ)の学」と云う。
「聖人君子」と云う熟語がありますが、儒学は聖人を養成する為の学問ではありません。聖人は「無師独悟」
(無師独覚)と云って、教師などいなくても独りで悟れる人のことを云うのでありまして、聖人を養成する学問は
未だ発明されておりません。釈迦も孔子もイエスも、教師などおりませんでした。独りで悟ったのです。学問で
養成出来るのは君子までです。
よく、「俺は聖人君子じゃないから、そんなことは出来る筈がない!」などと、出来ないことの言い訳をする人に
出くわしますが、その際私は「勿論、君は聖人ではないし、又なれるものでもない。しかし君子にはなれる。
学問修養を積めば、誰でも君子までにはなれるもんだ!言葉の意味も分らないくせに、一丁前の口を
聞くもんじゃない‼」と答えることにしております。
では、君子とはいかなる人物のことを云うのでしょうか?一般的には、身分の高い人のことを指しますが、
この他に、練れた人物・心栄えの立派な人物を指す時にも使います。つまり、心栄えが立派で、練れた
人物であってこそ始めて人の上に立つことができる、高い身分であることが許される、と云うことであります。
これを君子と云うわけです。
君子にも、大君子もあれば、中君子もあり、小君子もありますが、本人の学問修養いかんで、誰でも小君子
程度にはなれる!とするのが儒学の眼目であります。ですから、儒学のことを別名「脩己治人の学」とも云う
訳です。その儒学の祖が孔子であり、儒学の基本書が論語であります。
学問の根底には真理がなければなりません。真理とは、恒久不変、万古不易の実相のことを云うのでありまして、
2百年や3百年で変ってしまうようなものは真理とは云いません。ですから、マルクス経済学などは学問では
ないのです。ソ連の崩壊によって、マルキシズムは真理ではないということが証明されたわけですから、異端の
説以外の何者でもありません。74年間の文明実験は失敗に終わった。
ところが驚いたことに、国立大学の経済学部の教授のうち、半分近くが未だにマルクス経済学を教えてメシを
食っていると云うのですから、開いた口が塞がりません。この人達は恥と云うものがないのでしょうか? バカとしか
云いようがありませんね本当に!1+1=2ではなく、3です!とウソを教えている様なものでしょ‼
まあ、こんなものではなくて、2千年も3千年も変らないものを真理と云います。
先ほども申しましたように、孔子教学を一般に儒学と云いますが、では、いったい儒学の根底にある真理、
万古不易の実相は何か?と云いますと、それが「徳」と「中庸」にある訳です。孔子教学から、徳と中庸を
抜き取ったら、儒学は成り立ちません。仏教から、転生輪廻とカルマの法を抜き取ったら仏教哲理が成り立た
ないのと同じことです。
儒学に於ける「徳」と云うと、まず頭に浮かぶのは「仁・義・礼・知・信」の五徳でありましょう。
(前漢の時代に菫仲舒がまとめたもの。孟子は仁・義・礼・知の四徳端。子思は知・仁・勇の三達徳)
分り易く申しますと、仁とは人を思いやる心・義とは正義を貫く心・礼とは礼を尽くす心・知とは知恵を磨く心・
信とは人を信じる心、のことであります。徳にはこの他に「孝」・「忠」・「恵」と云うものもありますが、そもそも
それらを包括する「徳」と云うのは一体何でしょうか?広辞苑を引いてみますと。
@心に養い身に得たところ。人道を悟って行為に表すこと。
A道徳的に善い行為をするような性格の習慣。
B生来有する性質、天性、品性。
C人を感化し敬服させる力・・・・等々。 どうもピンと来ません。
徳という言葉は頻繁に使われているけれども、改めて「徳とは何ですか?」と問われて、スカッと一発で
答えられる人は殆んどいないということでしょう。私もコリャイカン!と思いまして、アレコレ書物をひっくり返して
みましたが、どうもピンと来るものがない。漢和辞典を引いても、スカッとした説明がない。
これは困ったことだと思っておりましたが、ある時フト、漢字は象形文字・表意文字であるから、文字の一つ
一つは元来現象や形態を象ったものである筈だ!と云うことに気が付いた。
ならば、文字の由来を調べてみれば、何か手掛かりが得られるんじゃなかろうか?と考えまして、もう一度
漢和辞典を引いてみましたら、何と、そこにちゃんとあるではないですか。徳の原字は「悳」であると。
悳=直+心 つまり「本来あるがままの素直(まっすぐ)な心で生きること」。これが徳の本来の意味で
あった訳です。勿論漢和辞典にはこのような説明は載っておりません。私の推測です。
時代が移り変わりまして、次第に世の中が複雑になって参りますと、「素直な心」だけでは追いつかなくなりまして、
「心で思っているだけではダメだ!実践行為が伴わなくては!!」となった。そこで行為を表す
「彳」(適うの意)が加わってとなる文字となるが、どうも縦に長すぎて納まりが悪い。そこで
となった。
漢字には面白いところがありまして、納まりの悪い文字は倒したり、横に持ってきたりする習慣がある。例えば、
想うは相+心ですが となったりと
いろいろあります。徳と言う文字も恐らくそんな所ではないだろうか?と思った訳です。
これで徳の意味はスッキリ致しました。つまり徳とは、「素直な心で素直に生きよ! 真っ直ぐな心で真っ直ぐに
生きよ‼」と云うこと。「曲がった心でヒネクレて生きるな!」ということであります。では、その徳を具体的に
云うとどうなるか?
「人を思いやるに素直であれ!」 ⇒ 仁
「正義を貫くに素直であれ!」 ⇒ 義
「礼を尽くすに素直であれ!」 ⇒ 礼
「知を磨くに素直であれ!」 ⇒ 知
「人を信じるに素直であれ!」 ⇒ 信
と云う五つの実践徳目、即ち「五徳」になる訳です。(「五常」ともいう)
さて、その仁・義・礼・知・信なる五徳でありますが、論語を百回以上読んでみますと孔子はどうもこの五つの
徳目を同列、並列には論じていない。五つがそれぞれバラバラに独立していると見ていない。義も礼も知も信も、全て根っこに仁がある!と考えているようなのであります。孔子はこれを「道に志し、徳により、仁による!」
(仮名論語81頁)と云っている。
つまり、「仁あっての義、仁あっての礼、仁あっての知、仁あっての信であるぞ!」と述べているのであります。
これでまたまた目からウロコが一枚剥がれました。
よく考えてみればその通りですね。仁がなく義のみが独り歩きすれば、「正義の為には手段を選ばず」となって
しまって暴虐無惨を極めることとなる。仁がなく礼のみが独り歩きすれば、実のこもらない上辺だけの虚礼となる。
仁がなく知のみが独り歩きすれば、自分さえ良ければ人はどうなろうと構わないとする、冷酷非常な利己知・
狡猾知となってしまう。仁がなく信のみが独り歩きすれば、人を殺すことが正当化されてオウム真理教やイスラム
原理主義のような狂信者の固まりとなる。
つまり、徳はすべて「仁ベース」である!と云うことです。(カクテルを作る要領だ!!)絵に描くと
この構図は、しっかりと腑に落としておいて下さい。ここが分っていないと論語を百篇読んでもダメ、百年勉強してもダメです。単なる物知りになるだけで、活学したとは云えんでしょう。殆んどの人が論語のツマミ食いで終わってしまうのは、実は、この構図が分っていないからなのです。論語510章中、仁に関する章が58章も出て来るのはこのせいなのです。
次には中庸であります。南宋の儒者、朱子は中庸を「不偏不倚、過不及なくして(不偏不倚無過不及)平常の理なり。及ち、天命の当に然るべき所にして、精微の極なり」・『中庸とは、円満に具足して、恒久不変の真理なり。及ち天の意志そのままに、精妙にして万に一つも取りこぼしがない』と定義します。分り易く云いますと、「偏らず、倚りかからず、過ぎる事無く、不足することなく」と云うことです。
ここを以て現代人は、中庸のことを足して二で割る妥協論のように捉えがちですが、そうではない。両方の都合の良い所で折り合いをつける折衷論に近いけれども、もうちょっと奥行きがある。
中庸も文字で説明した方が、本来の意味をつかみ易いでしょう。
「中」の原字
・・・アタルと読んで、的のド真ん中を貫くの意
「庸」の原字 ・・・二本の手で棒を持ち、天井を突き上げるの意
これで分ったでしょう。つまり中庸とは、「相生和合、統一止揚」のことであります。「Aか然らずんばBか?」「俺か然らずんばお前か?」と云った相剋排他の考えではダメだ!と云っているのです。「貴方と私で一本の棒を持ち、力を合わせて、両者を包摂する新たな道を築きましょう!」ということであります。これを「相生和合、統一止揚」と申しますが、アレ?どこかで聞いたことがあるが?と思うでしょう。
そう!これは論理学で云うところの、正―反―合なる弁証法とまったく同じ。実は、弁証法は、中庸の一つの応用なのです。云い方を換えますと、「Aの良い所とBの良い所を併せ持ち、更にそれらを統一止揚して、一層進化させた、ニュートラルなハイブリッド進化論」、これが中庸と云う言葉の持つ本来の意味なのであります。
この概念を図にしてみると
@ 個人レベルでしか物事を見られない人を集団レベルの目を持った人が見れば、ヤボコキ・世間知らず、
井の中の蛙にしか見えんだろう。(個人のエゴ)
A 集団レベルでしか物事を見られない人を、社会レベルの目を持った人が見れば、ヤボコキ・世間知らず、
井の中の蛙にしか見えんだろう。(家族エゴ)
B 社会レベルでしか物事を見られない人を、国家レベルの目を持った人が見れば、ヤボコキ・世間知らず、
井の中の蛙にしか見えんだろう。(地域エゴ、職場エゴ)
C 国家レベルでしか物事を見られない人を、地球レベルの目を持った人が見れば、ヤボコキ・世間知らず、
井の中の蛙にしか見えんだろう。(国家エゴ)
子どもの頃、真剣に思い悩んだことを、大人になってから振り返ってみれば、「何であんなことで悩んでいたんだろう!?」と思うことがあるだろう。若い頃、悶々としていたことを、年配になってから思い返せば「あの頃はまだ尻が青かったな!?」と思うことがあるだろう。何故かと云えば、様々な縁の中で揉まれて、ハイブリッド進化をしたからだ。つまり進化の証だ。精神進化とは、より高次の認識力の獲得であるとも云えよう。
建物で云えば、1Fよりは2F、2Fよりは3F,3Fよりは4F、4Fよりは5Fの方がより見通しが効く、見晴らしが良いということだ。
別の表現を使えば、
中庸とは、『自を害さず他を害さず、自他共に生かす道。
私を害さず公を害さず、公私共に生かす道。
個を害さず全体を害さず、個と全体共に生かす道。』
つまり、人間が大調和をはかりながら、無限に進化して行く為の方法論、これを「中庸」と云う訳です。
以上、徳と中庸の図を重ねて見ますと、(資料3頁 下の図)
どこまで大きな家を建てようと本人の自由、つまり、どこまで大きな人物になるか?は本人次第。但し、その為にはその家を支えるだけの仁の土台と、義・礼・知・信の柱がなければ家は潰れてしまう。仁の土台(人を思いやる気持ち)が深ければ深い程、大きい柱と高い屋根が乗せられる。こう云うことであります。
サア皆さん、何処迄大きな人間になれるか?すべてはあなた次第です。それは、あなたが仁の土台を何処迄深く掘れるか?にかかっております。現在のあなたの仁の土台、人を思いやる気持ちは、一体如何程のものでしょうか?自分がどれ程の人物かを知りたければ、キネシオロジーテストをする前に次のことを己に問うてみなさい!!
☆
自分独りだけを思いやる仁か?(自己愛)
☆
家族・血族を思いやる仁か? (家族愛)
☆
友人・知人・同僚や地域社会を思いやる仁か?(隣人愛、郷土愛)
☆
民族、同胞を思いやる仁か? (祖国愛)
☆
地球人類全てを思いやる仁か?(人類愛)
人は、仁の土台を掘った深さに見合うだけの高さの建物しか建てられません。基礎工事を疎かにして高い建物を建てようとすれば、潰れてしまうんです!仁の土台の深さ、仁の及ぶ範囲・仁の射程圏、それが只今現在の貴方の正体です。
ことに仁に関してだけは、誰はばかる事はありません。地位、学歴、財産、肩書きなどは何の関係もありません。今世縁あって「論語に学ぶ会」と云う素晴らしい会に集まった皆さんであります。どうか、この縁を生かしてください。人は、血縁・地縁・人縁・時縁によりて生かされている存在です。縁を粗末にしてはなりません。縁を大切にする者は縁によりて生かされ、縁を粗末にする者は、縁に見捨てられるのです。
孔子教学即ち儒学とは、一言集約してみるならば、「活縁の学問」と云って良いでしょう。活縁によりて「己を活かし」・「人を活かし」・「全体を活かし」て下さい。活縁の習慣を身に付けて下さい!
※
最近「ロイヤリティーマネジメント」とか、「ロイヤリティー戦略」とかが
重要視されるようになりましたが、ロイヤリティーマネジメントとは「活縁経営」、
己を活かし、人を活かし、全体を活かして行く経営のことなのであります。
孔子は、人間というものを(仮名論語 243頁)「教えありて類なし」・『人は生まれてからの環境や習慣でどうにでもなるものであって、生まれつき上下の種類がある訳ではない!』と断言しております。福沢諭吉はこれを「天は人の上に人を造らず 人の下に人を造らず」と云った。
更に、(仮名論語 262頁)「性、相近きなり。習、相遠きなり。唯、上知と下愚とは移らず」・『人間の本性は皆似たりよったりでそんなに違いのあるものではない。生まれてからの習慣によって、月とスッポン程の開きが出来てしまうのだ。良い習慣を身に付ければ立派な人物になれるが、悪い習慣を身に付ければ、バカになってしまう他はない』と述べている。
習慣は第二の天性であると云われますが、確かに人間は習慣の生きものであります。人間の運命には、変えられるものと変えられないものがあります。血筋や性別などは一生変えられないものですから、これを「宿命」と申します。これ以外は大抵本人の心がけ次第で変えて行けるものですが、変えて行けるものを「立命」・自ら運命を確立する、と云います。
従いまして、運命=宿命+立命、 立命>宿命ということになります。
立命とは習慣の別名です。どんな習慣の別名かと云いますと「身・口・意」の習慣、「思いの習慣」と「言葉の習慣」と「行いの習慣」の別名です。これら三つの習慣は、何によって切っ掛けを与えられ、形成されて行くのか?と云うと、これが縁による訳です。
@ 人間オギャーと生まれて真先に接する習慣は家族、つまり血縁によるものです。
A 子供になると、隣近所や学校と云った地域社会の習慣によって育まれる。
これが地縁によるものですが、家族から受けた習慣が、地域社会である程度
修正されるような仕組みになっている。
B 成長して社会人になりますと、今度は職場の習慣に染め上げられる。
ある程度仕事を任されるようになりますと、いろんな職業の人と接するようになり感化を受ける。
様々な人との出会いにより、自分自身を見つめ直さざるを得ないような機会に遭遇する。
これが人縁であります。
C 更に活動範囲が広がって、民族・言語を異にする外国の人と接するようになりますと、価値観や
習慣の違いに驚かされたり、感心させられたりしますが、興味を持ってじっくり研究観察してみれば、
同じ地球人類であるから、根本の所ではそう違わないことを発見する。
Hello、 你好、 Good-By、 再見
と云うことに相成る。
これが時縁、時代の縁であります。(Eメールやインターネットはさしずめ電縁とでも云えましょうか?
電縁は時縁の一部です)
つまり、血縁−地縁−人縁−時縁と云うのは、一人一人が知らぬ間に身に付けてしまった悪しき習慣を本人に気付かせ、改めさせて、自らの力で運命を開拓して行けるように、幾重にも張り巡らされたバックアップシステムで
ある!と云えるでしょう。
「論語に学ぶ会」は、地縁・人縁・時縁の入り混じった集いであります。
今21世紀と云うこの時代に、地球と云うこの星の、日本と云うこの国の、新潟と云うこの地に集まっている訳ですから。どうか、この縁を大切にして下さい。 この会を貴方の活縁の場にして下さい。