微子第十八

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<微子第十八> 

2006−6−10

・楚の狂接與(キョウセツヨ)、歌いて孔子を過ぎて曰く
孔子楚に滞在していた時、狂人を装った接與という人物が、歌いながら
孔子の宿舎を通りかかった。歌の内容は「鳳よ鳳よ(孔子に喩えて)、
おまえは聖王が世に出るときに来たりて舞う霊鳥だと聞くが、乱世の
この世に出るとは、何と徳の衰えたことであろうか。過ぎ去ってしまった
ことは諌めても取り返しがつかないが、将来のことはまだ何とかなるものだ。
やめなさい、やめなさい、ごのご時勢に政治にかかわることは。身を
あやうくするもとであるよ」というものであった。

・長沮(チョウソ)、桀溺(ケツデキ)、耦(グウ)して耕す
人は鳥や獣の社会では生きて行くことはできない。
人は人の社会でしか生きられない。
だからこそ、人は自らの手で素晴らしい社会を作り出して行かなければならん。
鳥や獣のように、成り行きまかせにしてはならないのだ!!! と孔子は云う。

「吾 この人と與(トモ)にするに非ずして、誰と與(トモ)にかせん」
「吾 従業員と與(トモ)にするに非ずして、誰と與(トモ)にかせん」・・・経営者へ
「吾 国民と與(トモ)にするに非ずして、誰と與(トモ)にかせん」 ・・・官僚、政治家へ
「吾 人類同胞と與(トモ)にするに非ずして、誰と與(トモ)にかせん」・・宗教家へ

・子路従(シタガ)いて後れたり

    乱世だからこそ、世を正さんととして立ち上 がるのが、君子
  大義のために、やむにやまれぬ念いで発憤するのが、君子
  吉田松陰「斯くすれば、斯くなるものと知りながら、已むに已まれぬ大和魂」
  子路も松蔭も大義に殉ずるに、同じ心境であった
 

・逸民(イツミン)、伯夷(ハクイ)・叔斉(シュクセイ)・虞中(グチュウ)・夷逸(イイツ)
 朱張(シュチョウ)・柳下惠(リュウカケイ)・少連(ショウレン)

志高くて位なく、世を逃れて隠れている賢人に、伯夷、叔斉、虞中、夷逸、朱張、
柳下惠、少連の七人がいた。孔子がこの七人を評して

伯夷、叔斉・・・・自分の志を高く保って最後まで辱めを受けなかった
柳下惠、少連・・・志を殺して甘んじて辱めを受けたが、云う言葉は道理に叶い、
                           行いも思慮分別があった。
虞中、夷逸・・・・世を逃れて隠棲し、言いたい放題のことを言ったが、身の処し方は清廉で、
         世の捨て方も程よきにかなっていた。

孔子は自分を評して「私はこれらの人と違って、可もなく不可もない平凡な人間だよ」と言った。    
孔子は「偉大なる常識人」

・大師(タイシ)摯(シ)は斉に適(ユ)く

孔子が諸国周遊の旅から魯に戻った際に、真っ先に手をつけたのが、雅楽の
乱れを正すことであった。このため、すっかり面目をなくした楽官達は
いたたまれなくなり、楽官長の摯(シ)が斉へ去ったのを契機に、一人去り、
二人去り、次々と他国へ去っていったものと思われる。

   これを裏付ける話が「子罕第九 223」にある。
  http://rongo.jp/kaisetsu/rongo.php?223,1
  

・周公、魯公に謂いて曰く
周公旦が息子の伯禽を初代魯公に封ずるにあたって、次のように述べた。
国王たる者の心得は
  @親族を見捨ててはならない。
  A大臣をつんぼ桟敷において、怨みをかってはならない。
  B古い友人は重大な過失がない限り見捨ててはならない。
  C一人の人間に完全無欠を求めてはならない。 「備わらんことを一人に求むるなかれ」

    士の訪問を受けた時には、髪を洗っている最中に3度中断し、
  食事中に3度口の中の物を吐き出してでも迎えた。
  礼儀作法のイロハのイである。「一飯三哺」または「握髪吐哺」という

・周に八士有り
歴史を見ると、時代の転換期には必ず大人物が輩出しているが、時代が大人物を
育むのか、大人物が時代を育むのか問われれば、その両方であると答える他はない。
現代も又、時代の大転換期であることには相違ないから、まもなく歴史を書き換える
ような大人物が現れてくることだろう。
  
2006−4−8

・微子は之を去り
殷の紂王の腹違いの兄「微子」は、紂王の暴挙を諫めたが、紂王が一向に聞く耳を
持たないことを知ると、微に逃れて、祖先の祭祀を祭った。紂王の叔父「箕子」は
さらに強く紂王を諫めたが、聞き入れられない為、狂人を偽って奴隷に身をやつしたが、
捕らわれて幽閉された。さらに叔父の比干は、一層つよく諌めた為、紂王の怒りを
かって殺され、心臓をえぐりとられてしまった。孔子はこれを評して「殷には高潔な
三人の仁者がおった」と言った。

人々は紂王を怨み、諸侯のの離散が相次ぎ、ついに紂王は周の武王に滅ぼされる。
微子は武王に赦されて、宋に封じられた。箕子武王によって幽閉を解かれ、朝鮮王に
封じられた。これが朝鮮のはじまり。今から3100年前のことである。

古代中国を代表する暴君は
 夏の桀王・・・「酒池肉林」     殷の紂王・・・「炮烙の刑」

忠臣四態
  @諌臣 体をはって諌める臣(左遷覚悟で)
  A争臣 命を賭して直言する臣(首を覚悟で)
  B輔臣 集団を率いて輔ける臣(ピンチヒッターとして) 
  C弼臣 主導権をとって弼ける臣(リリーフエースとして)

  これに従えば、微子と箕子は諌臣。は争臣。

定見(自分なりの一定の見解・識見)を持つことは大切であるが、それ以上に、
部下の諫言・直言を 虚心坦懐に受け入れる度量が、現代人に欠けているのではないか。

定見にも正見(道理に叶った正しい見解)と邪見(道理を無視した誤った見解)と
がある。 キネシオロジーテストで検証する事。 「定見」はどこまで行っても
理路整然・首尾一貫しているが、「邪見」には必ず論理の飛躍と道理のすり替えがある。

・柳下惠、志師と為り、三たびしりぞけらる
「今の世の中、正道を守り通して人に仕えれば、どこの国にいったとて、三度や四度は
 罷免されるのは当たり前。道を曲げて仕えるとなれば、どこへ行こうと仕官する
 こと位は簡単。だとすれば、どうして生まれ故郷の魯の国を去る必要などあろうか」

「清官の六条件」
  @清貧に甘んじて、人民を搾取しない
  A法令を厳守して、公平に適用する。
  B上に対しては真実を直言する。
  C剛直で、あくまでも正道を守る。
  D賄賂を受けず、私情をさしはさまない。
  E民生の安定を最優先する。

柳下惠は、六条件を満たした清官であったようだ。
清官といえば、張養浩が挙げられる。張養浩が残した「為政三部書
(原題・三事忠告)は必読書。

「任怨・分謗」の気持ちが大切。菜根譚の19章に以下の解説がある。
  張養浩の「三事忠告=為政三部書」に、「任怨」(ニンエン)、分謗(ブンポウ)
      という言葉がある。
  任怨(ニンエン)・・・怨みに任ずる。両方が成り立たない事も生ずるが、
                                      甘んじてうらみを受ける事
  分謗(ブンポウ)・・・謗り(そしり)を分かち合う。一人でいい子ぶらないで、
                                      仲間の失態や重しの一端を、背負ってあげること。               
 

・斉の景公、孔子を待ちていわく
斉の景公が孔子を登用しようと思って、待遇について「魯の上大夫の季氏の
ような待遇はできぬが、下大夫の孟氏との中間位なら出来よう」と言った。
ところがしばらくして「私はもう年をとってしまった。孔子ほどの人物を
招いても、期待にそえるような政治改革を行うことが出来ないだろう」と語った。
これを聞いた孔子は去った。

斉の景公については、顔淵第十二を参照。

孔子の登用に反対したのは晏嬰(晏平仲)らしい。晏嬰以外の大夫が孔子を
亡き者にしようと企んでいたので、孔子を一刻も早く魯の国から去らせた
かったようだ。孔子も晏嬰の気持ちを十分にわかっていたらしい。

公冶長第五を参照。

・斉人、女楽をおくる
北朝鮮の「美女軍団」が典型的な例。北朝鮮の意図が分からな韓国では、
男が大騒ぎをしている。

文化や民度の落差から来るカルチャーショックに対しては、誰もこれに
抗し得る者はいない。 強烈なカルチャーショックはカオス(渾沌)を生じ、
アナーキー(無秩序)を誘発する。 為政者は軍部による統制しか、手段がない。
仮想敵国を作って人民の目を外部に向けさせるか、情け容赦ない粛清となる。