平成25年1月26日(土)、赤羽塾の設営で、「論語に学ぶ会20周年記念例会」が
開催されました。
「20周年記念例会」の主役の高野先生が体調不良で参加できない状況でしたので、どのような記念例会にするか、赤羽塾の皆さんはさぞ苦労されたことでしょう。
最初に赤羽塾
から各塾へのお願いの文書をご紹介いたします。
「論語に学ぶ会20周年合同例会」発表のお願い
各塾の事務局の皆さまへ
赤羽塾
人間高野大造および高野大造先生の魂の魅力を焙り出し、その魂と各塾それぞれの魂が反応し、これまで積み重ね、醸成されてきた各塾独特の空気・雰囲気を以下の3つの柱を切り口に披露して頂きたいのです。
そして、そんなある意味バラバラで違った雰囲気・歴史をすべて受け止めて、これまで「論語に学ぶ会」を続けてくれている高野大造先生への改めての感謝の意を発表していただきたいと思っています。
全ての発表を終えた暁には私達も「各塾ってこんなに違うんだ」とか「先生はよくも こんなにも個性豊かな塾生を育てつつ、全てを受け止めてくれたもんだ」なんて雰囲気を作り出すことができたらこの度の20周年合同例会は大成功であり、その後の懇親会では更に人間高野大造および高野大造先生を大いに語りながら美味しいお酒を頂くことができるのではないかと思っています。
きっと先生は「勝手にしろ〜!」と全てを許してくれるだろうと思っています。
@「論語に学ぶ会」及び「各塾」の設立のキッカケと経緯
例) なんで先生ってそんなに論語および中国古典に通じているの?
たぶん酒の席での箸袋への4文字熟語から始まったのでは
先生もこんなに続くとは思っていなかったのでは
きっと「お前やれ!」から始まったのでは
Aこれまで各塾で取り組んだ活動(キッカケ、経緯とスッタモンダ、その後)
例) こども論語編纂、公式ホームページ、私設ホームページ、
「ほのぼのとして〜」の書、論語CD、書籍出版、街角論語、
合同連絡会、童子塾、湯島聖堂
B先生の言論の変わらないところと変わったところ
例) なぜ論語から中庸、兵法、墨子、と広がりをみせたのか
東京裁判、支那人論、漢字の世界、論語開眼、精神世界へようこそ、
大江健三郎、推薦図書の変遷、マスコミ論、長岡弁、山形弁、・・・
上記の考えから発表は必ずしも塾長に拘らず、当事者に語っていただきたいのです。もしくは当事者の言葉を紹介する形でメンバーの言葉を集めていただきたいのです。もしかしたら、貴方だけしか知らないかもしれなし人間高野大造、そして高野大造先生の魅力とそのエピソードをどんどん披露していただきたいのです。
そしてその発表も形式には拘らず、口語調でお話ししていただきたいのです。
綺麗な言葉でなくてもいいですし、俗な表現でもいいです。
時にはブラックなジョークが混じっても構いません。
関係各位の「らしさ」というか当時の「空気感」を再現することを大切にしたいのです。
そして何よりも会場を笑わせていただきたいのです。
質問は発表中でも発表後でも自由に挙手を受け付けていただきたい。
もちろん聞いている方への突然の質問もOKです。
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赤羽塾の山田悦子さんから議事録と写真が届きました。どうぞ、ご覧ください。
『論語に学ぶ会』20周年記念合同例会・講義録
これより論語に学ぶ会 20周年記念合同例会を始めます。
この度の合同例会は赤羽塾が担当させていただきます。
本日の進行役を仰せつかりました 山田悦子と申します。
どうぞよろしくお願いいたします。
では、これより赤羽塾長より開会の挨拶をお願いします。
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論語に学ぶ会の皆様、新年おめでとうございます!本年もどうかよろしくお願いいたします。多数の方にご出席いただきまして、ありがとうございました。
特に、山形・東京と遠方からもたくさんの方にお越しいただきまして、ありがとうございます。
今回は20周年ということで、できれば高野先生の全快祝いと思っていたのですけれど、その思いが叶いませんで残念です。 |
でも、先生のご不在中も一生懸命勉強して、次の25周年、30周年も目指したいと思いますので、よろしくお願いいたします。簡単ではございますが、開会の挨拶とさせていただきます。今日はしっかり勉強して、しっかり飲んで、楽しい時を過ごしましょう!
では、始める前に呼吸を整えたいと思います。ありがとうございました。 まずは、この度の20周年記念合同例会にあたり、赤羽塾・事務局より挨拶させていただきます。
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赤羽塾事務局の豊田でございます。本日は遠路はるばる遠く
よりこれだけ多くの方にお越しいただきまして有難うございます。
20周年の合同例会を企画するにあたりまして赤羽塾の中で
どういった合同例会を企画させていただこうかと主にお酒を飲みながらではありましたけどざっくばらんな話し合いを重ねてきました。
その中で今回はこういったカタチでお届けしたいと思っていることを次第の2ページに書いてあります。
私個人的にも論語に学ぶ会に入らせていただいて10年が経とうとしておりますが、やはり一番最初に浮かんで来るのは論語に学ぶ会という縁があるからこそこうして皆さんとお話させていただけるのだな、 |
しかも私のような若輩者でも私の親よりも上の方、私よりも下の方、幅広くザックバランにお話しをさせていただけるというのは、この会の魅力の一つなんだろうなと思っています。
また論語に関してよく赤羽塾の中でも話すのですが、最初は一生懸命勉強するのですが、どうも勉強しても
身には入ってこない。ですけど不思議と論語ってやつは染みこんでくるところがありまして、染みこんできてそれが
滲み出てくると論語を勉強したことになるんじゃないかなぁと感じるところがあります。
(もう一つは先程赤羽塾長からもお話がありましたが、残念ながら高野先生がご不在です。でもせっかくの
20周年、この会の模様を後日先生に何とかしてお届けしたい
この3つの思いを元に今回企画をさせて頂きました。
内容としてはまず今回の準備にあたり各塾の事務局を中心に色々な方にご苦労をお掛けしている訳ですが、この後、各塾の皆様から「高野先生との20年」ということで色々なお話しをいていただこうと思っております。色々なエピソードの中から改めて論語に学ぶ会の20年、もしくは皆様個人個人と論語に学ぶ会と「縁」、つながりを意識していただけたら嬉しいかなと思っています。
また先生へのご報告もしたいと思っています。本日、私達赤羽塾はカメラを持ってきています。特に懇親会では多くの皆様とカメラ撮影をお願いするかと思いますがぜひ笑顔で写真に写っていただきたいなと思います。後日、アルバムにして本日の講演録と一緒に先生にお届けし、ご報告したいと思っています。
このような形で本日の20周年、皆さんと論語に学ぶ会、各々の接し方があるかと思いますがエピソードの中から何か一つでも「あっこんなトコロにも縁があったんだ」「こんなトコロにもツナガリがあったんだ」と改めて意識していただけたら、そんな会にしたいと思っていますのでどうぞ宜しくお願い致します。
(司会)
これより、各塾からご報告いただきます。先生の思いを受け継ぎ、始まった山形の童子塾。NPO法人「論語に学ぶ会やまがた」の長沼敦昌さんと佐藤百恵さん。お二人とも昼間は童子塾の活動と、それ以外の日や、夜は別のお仕事と、一生懸命頑張っておられます。本日も、お仕事がシーズン真っ盛りのとてもお忙しい中、ご出席いただいた長沼さんですが、お仕事の都合でどうしても途中で帰らなければならないということで、最初に山形塾よりご報告いただきたいと思います。山形塾の皆様、よろしくお願いいたします。
(長沼さん)
山形塾の長沼 敦昌です。今日は新潟に来まして、ちょっとがっかりしました。雪が少なくて。私、童子塾を開催している月曜日以外は、積雪150cmの蔵王で働いております。足元が見苦しいのですが、この黒いものを山形では「ブーツ」と呼んでおります。本日は10分少々お時間をいただいて、童子塾の経過報告をさせていただきたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。
童子塾ということで立ち上げさせていただきまして、皆さんのおかげで去年、童子塾をやりたいと報告させていただいて、ちょうど1年になります。そして、来年も続けていきます。
高野先生との出会いは、実は、2010年
6月でして、論語に学ぶ会に入ってまだ2年間近くしかたっておりません。
それなのに本当に良いのだろうかと思いながらも、まず高野先生の思いを1つでも実践できればと思って、手を挙げさせていただいた次第でございます。
そして、皆様から本当にいろいろご指導いただいて、やっと何とかここまでやってくることができました。
ただ、手を挙げてよかったことがあります。 |
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高野先生の論語がおもしろくて毎回聞いていたのですが、聞く側から伝える側にまわったからこそ、気付きを得られたということがたくさんありました。それらを、今回報告して、皆さんと共有して、何かのお役に、また次の童子塾ができれば良いなぁと思いながらやらせていただきます。
昨年の4月にお陰様で開校したわけですが、4月から8月末まで、私と佐藤百恵さんと専従体制で何とか頑張りました。ですが、生活をしながら、童子塾をやりながらということを考えますと、収入を目的とするようになってしまうのは本末転倒でございますので、2人とも働きながら、童子塾をやりながら、両立しながらやる道を選びました。
現在は、毎週月曜日(祝日はやりませんが)に午後2時から街角論語をやって、3時半から小学生2人来ておりますが、童子塾をやっています。細々ながらも、とにかくやり続けることに意味があると思い、やっております。実際に気づきながらやってみて、本当に良かったと思います。
童子塾山形教室をやるにあたって気づいたことを10項目ほどまとめましたので報告したいと思います。
1つは、塾生集めが非常に難しいことにありまして、チラシを配ったり、どんな活動をしてもなかなか反響は
難しい。そういう時こそ原点に戻るということで、東京の永野塾長からのアドバイスをいただきまし
た。2010年の夏の合同例会が山形でありまして、その時に初めて童子塾の構想を知ったわけです
が、その時の講義録を、迷った時こそ原点に戻るということで読み返しました。山形でやっている童子
塾の今現在の結論というのは、子供たちが持っている良心を開かせる、その手段は高野先生の論語
なんだと今気づいております。
2つは、高野先生が童子塾向けにテキストを作ってくださったわけですけれど、それを熟読するだけではなかな
か子供には伝わりにくいということを、実体験として感じました。というのは、あくまでも高野先生の言
葉であって、伝える側がちゃんと腑に落として伝えないと、ちゃんと伝わらないのです。ですので、事前
に指導要領というか、子供たちがどのようにしたら興味を持つか、事前に用意するようにしました。
ここで実際にどんなことをやっているか、実況中継ではないですが、お話しさせていただきます。
大体夕方3時半くらいになると、あやかちゃんという小学校4年生の子供とその後は妹さんのれいかちゃん小学校1年生が来ます。1番初めにやることは、今日何があったかを聞くことです。
といいますのは、子供たちは学校や家庭で一方的に伝えられるということはあっても、自分の思いを伝える機会がなかなかないのです。特にお姉ちゃんのあやかちゃんは、話すのが苦手で、今、学校で何があったかメモを書いてもらっていますが、先週21日は分数の計算と代数(切り捨てとか四捨五入とか)が困っていて、悩んでいるんだと言っていました。それで、少しそのおさらいをして、妹と一緒にカルタ(ゲームは1対1のコミュニケーションなので)をしながら笑いながら過ごしました。
午後5時になると、高野先生のテキストを今日の分として渡します。そうすると、子供たちが本当に論語を欲していることがわかります。自分から取りに来るんですね。それで、こちらから何も言う前に、読み始めるのですね。
「子曰く、知者は惑わず。仁者は憂えず。勇者は懼れず」
今年の初めでしたので、自分のやってみたいこと、来年は2年生・5年生だね。来年はどんなふうになってみたいかということから、知者と仁者とどちらになってみたいかと話したりします。
もう1つここで気づいたことは、発表させるとか感想をまとめさせるとか文字にさせるということは、子供達はあまりやりたがらないので、なかなか楽しめない。ここに来る子には今日の論語をマンガやイラストにしてみようと言うと、面白がってやります。それをじゃんけんして順番に発表するんです。
今回の知者、仁者、勇者の発表では、お姉ちゃんのあやかちゃんがこんな風に言っていました。私は知者になりたい。いろんなことを学び知りたいんだと。バケツを持ってウロウロしている子供の絵を描いて、こういう発表をしました。
バケツを持って誰にも聞かないでウロウロしているのはダメだ。まず知っている人に、バケツをどこに置けばいいか聞けばよい。その勇気を持つことが知者になる始めなんだ。ということを感想で言いました。
私も、自分がこの年だったら、こんなことまで言えなかっただろうなと、恐るべし理解力というものを感じました。この活動を毎週やっていると、自分が教えているのではなく、逆に学ばされているし、一緒に学んでいるんだなと気づかされました。本当にこんな機会を与えていただいてありがたく思っております。
高野先生とは、二次会まで行ったことが1回しかなくて、じっくりお話ししたことがなく、高野先生自体も私に童子塾について十分伝えきれていないなぁとひしひしと感じていました。あえて伏せておこうと思ったのですが、ごくまれに高野先生からメールが来るんです。本当に命がけでメッセージを送ってくれているんだなぁと思いました。
一番直近のメッセージにはこんなことが書かれていました。童子塾については本旨を忘れず、我を出さず、世界を見返るために、命がけでやりなさい、と。それに対しての私の答えは、「はい、かしこまりました」と。長い文章は先生も大変だと思いましたので、そのように答えました。この場で言うというのは、私にはその覚悟がありました。
聞く側ではなく、伝える側だからこそ見えてくることがありますし、本当に毎日わくわくして楽しいです。私たちまだ2年半しかたっていない人間なんですけれども、勇気を出してやってみることで違うことが見えてきました。是非、この中からまた一人、また一人と出てくることが、高野先生の思いに応えることじゃないかなぁと思います。分をわきまえず、こんなことを言ってなんですが、一人でも同志が増えればなぁと思っております。
どうもありがとうございました。
(田中さん)
皆様、こんにちは。山形塾の田中ゆうこでございます。ちょうど1年くらい前ですね。昨年の2月に高野先生の方から、論語を山形弁にしなさいという提案がありまして、そこからふるさと論語がスタートしました。ちょうど1年になります。
昨年8月の合同例会でもそのふるさと論語をご紹介させていただき、皆さんに大変喜んでいただけたようで、その後、新潟の渡辺貞子さんから、ご自身で運営されております介護施設の特別イベントに、山形論語を一座を組んで是非披露してほしいというお話もいただいておりまして、本当に大変ありがたいなぁと思っております。
その後も月に1回、委員会を開きまして、現在、八佾第三の46章まで進みました。大体、1回の委員会で10章くらい進めるようになりまして、少しずつ、私たち自身も山形弁の翻訳にも慣れてスピードアップしてきたところです。後ほど、その一部をまた皆様に披露させていただきたいと思っております。
今日の合同例会にあたって、高野先生とのエピソードをお話し下さい、というお話がありまして、どんな話がいいかなぁと考えてみたのですが、エピソードらしいエピソード、みんなに笑いをとれるようなエピソードというものがなかったんですね。
私が論語に学ぶ会にゲストで最初に来たのが、4年前の4月でしょうか。で、きちんと入会したのが7月ですので、まだ4年たっておりません。しかも論語に興味があったとか、そういうことではありません。論語に学ぶ会の近田由美子さんという方に誘われて、なんかおもしろいよ!と言われて、じゃぁ行ってみっかな、という感じで行ったものですから、最初のころは行ったり行かなかったり、あまり真面目じゃなかったんですね。先ほど、講義のノートを見てみましたら、先ほど4年に満たないと言ったのですが、実際に高野先生の講義に参加したのは、22回でした。
後半は真面目に行っていたのですが、その頃から先生の体調が思わしくないということでお休みされておりましたので、本当に20周年記念の10分の1しか私は論語に学んでいないんですけれども、今日、こうして皆様にお会いすることができたことは、高野先生のお導きだったのかなぁと思っています。
数少ないエピソードを考えてみたんですけれど、3年前でしょうか。山形で合同例会がありました8月の夏の時です。その時に山形にお越しいただいた方もいらっしゃると思いますが、千歳館で懇親会がありまして、それが終わって二次会に行こうということで、先生もかなり酔っぱらっておりまして、先生を囲んで皆さんで玄関にどーっと流れていきました。その時、私はなんとなく高野先生の傍にいたんですね。
そしたら先生が、「おい、田中、お前はずっと39歳だな!」そこで私は「そんな先生、一回りもサバ読んだら、犯罪じゃないですか〜」と言ったんですが、そこで皆さん計算された方もいらっしゃると思いますが、その時、「39歳に見えるな」ではなかったんですね。見えなかったと思うのですが、「39歳でいろ!」と。その言葉が私にはずっと後にも残っていて、先生もあの時だいぶ酔っぱらっておりましたので、何か意味があって仰ったのかどうか、未だにわかりません。ただ、39歳というのは私の50何歳かの人生の中で、一番大きな転機がありました。
私はライターとして文章を書く仕事をしてきたのですが、それまで代理店に勤めていまして、フリーとして独立したのが39歳の時でした。そのことは先生はご存じないと思うのですが、「39歳のままでいろ!」と仰られるのは、初心を忘れるなということなのか、若々しさを忘れるなということなのかわかりませんけれど、お元気になられたら、また聞いてみたいなぁと思っております。
ですので、エピソードらしいエピソードというのはないのですけれど、こうしてずっと論語を続けてきて、ふるさと論語ということで先生からご指示もいただいて続けてこられているのは、論語というよりも、私は高野先生の魅力かなと。講義にはいらっしゃらなくても、その場にはちゃんと先生のお気持ちが伝わっていて、そこで私たちは学んでいるのかなぁと思っています。
ですので、ふるさと論語とこうした良いお仲間と出会えて、本当に今幸せに感じています。実際にふるさと論語は、今、資料お配りしているんですけれど、耳で聞いていただいた方が楽しいと思いますので、これから為政第二の中から4章ご紹介します。ふるさと論語のメンバーがご紹介しますので、石山さん、中村さん、金澤さん、ちょっと前に出てきていただけますか。
お手元の資料をご覧になりながらお聞きいただきたいのですけれど、通釈文を山形弁にしております。実際には一言コメントを付けて資料作りをやっております。
前回は学而第一でしたので、今回は為政第二から、内容が現在にも通じるもの、また山形弁にして楽しいものを4章選んでみました。最初に通釈文を金澤妃呂子さんに読んでもらって、山形弁を石山さん、中村さんと交互にご紹介させていただきます。
(金澤さん)
では、紹介させていただきます。お手元の資料の024から紹介します。
024 [通釈文]
弟子の子夏が孝を質問した。孔子は、「この時の顔つきが難しいぞ。骨の折れる仕事があれば、親にやらせないで若者が率先してやる。御馳走があれば、目上の人から先に召し上がってもらう。この時、さりげなく当たり前の顔つきでできるかどうか?これ見よがしだったり、恩着せがましかったりしたら、孝行も台無しだからね」と。
[やまがた弁]
孔子様の弟子の子夏ていう人が「親孝行(こうごう)て、どいにすっどいいんだべっすぅ?」て聞いだ。
ほしたら孔子様は「親さ 何がしてけっどぎは 顔づきが 難しいがらな。
骨のおれる仕事(しごど)あったら、親さ させねで 若(わが)い者が 先立(さぎだ)て する。
んまい 御馳走(ごっつぉ)あったら、目上の人がら 先(さぎ)に食べえてもらう。
こん時(どぎ)、当だり前の顔づぎで でぎっかどうが。
得意(とぐい)そうにしたり、恩着せがわましぐしたりしたら、親孝行(こうごう)も台無しだがらな」て言(ゆ)たんだど。
[ひとこと]
親孝行も、わざとらしいと「べんちゃらくさい」「としょりあづがい、すんな」と逆効果になるわけですね。親のプライドを傷つけず、さりげなく孝行することが大切なのです。
24章でした。
次に25章お願いします。
026[通釈文]
孔子云う、「一にその人の行為をよく注意して視(み)る。二にその行為の拠って来たる原因・動機を観(み)る。三にその人がどんな所に安らぎを求めているかを察(み)る。この様にすれば、その人の正体はすっかり分かってしまうものだ。どうして隠せようか」と。
[やまがた弁]
孔子様がこう言(ゆ)たんだど。
「まず ほの人の してっこどば よっくど注意して視(み)る。
ほれがら なして ほいにしたが 原因どが きっかげば観(み)る
ほして ほの人が どだなごどしてっどぎが 一番(いずばん)気持ずが安らいでっか察(み)る。
そうすっど、ほの人の正体なて、すっかり分がてすまうもんだ。
なしてなして 隠(かぐ)せっこないもんだ」て。
[ひとこと]
東京の方、お分かりになりましたでしょうか?
これは孔子流の人物を見抜く三箇条で、現代でも相手の人柄を知るのに通用しますね。
でも、もし、この方法で、逆に自分の正体を見られたら?ちょっとドキッとしてしまいますが・・・
私はドキッとしました。
続いて29章お願いします。
029[通釈文]
子貢が君子とはどういう人物を云うのかを問うた。孔子は、「実行が先!言葉は後!これが君子というものだ」と答えた。
[やまがた弁]
孔子様の弟子の子貢ていう人が、「君子ていうのは どういう人のこどだべ」て質問した。
孔子様は、「まず、すんのが先(さぎ)!ゆうのは後(あど)」これが君子ていうもんだ」
[ひとこと]
やまがた弁は、最後に「べ」をつけると、東京弁もやまがた弁に早変わりしますので、是非、一度やってみてください。
君子たる者、あれこれ言う前に、まず自分が模範を示しなさい・・・ということでしょう。これは現在のリーダーにも通じますね。
最後に33章お願いします。
[通釈文]
孔子云う「由(弟子の子路の名)よ、お前に知るとはどういうことか教えようか。知っていることは知っているとし、
知らないことは知らないとはっきりさせる。これが本当に知るということだ」と。
[やまがた弁]
孔子様が こう言(ゆ)たんだど。
「由、お前さ 知るってどういうごどだがおしぇっか。
知ってるごどは 知ってる。
しゃねごどは しゃね、ってはっきりさせる
これが ほんてん知るってゆうごどだ」
[ひとこと]
大人になるにつれて、「知っている」ことも多くなりますが、それ以上に「知らないこと」も増えていくものです。知ったかぶりせず、思い上がらず、「知らない」を認める。そうした素直さが大切だということでしょう。
ということで、4章ご紹介させていただきました。ありがとうございました。
(澤渡さん)
澤渡でございます。こんにちは。
高野先生とご縁をいただいたのは、さて、何年になるんでしょうと数えましても、ちょっと思い出せません。高野先生は、私どもに毎月1度、コンサルティングで経営の相談ではいっていただいておりました。またそのご縁をいただいたのも、高野先生のお父様の会社の方がご縁だったもので、それを考えますと、何年経ったのかなぁと頭の悪い私は覚えておりません。
ただ、気づいた時には高野先生がいてくれて、わからないこと、特に私は数字が弱いものですから、弱い私にいろんなアドバイスをしてくださいました。というのが、一番最初の出会いでした。
その後、何年か経ちましたら、グリーンの本をいただきまして、「論語の勉強を始めたんだけど、会社でもすっか?」と言われました。「あ〜、なんだかわからないけど、してみっかね」ということが、論語にご縁をいただいた最初です。
で、毎月おいでくださった時に、コンサルティングが終わった後に、うちの幹部社員、その当時は結構人数もおりましたので、その人達を呼んで一緒に素読をさせていただいたのが最初です。そうこうしておりますうちに、私の跡取りであります長男が店の方に戻ってまいりました。
そして息子も一緒に関わるといいますか、お商売の方を一緒にさせていただきましたら、先生がちょろちょろっと教えて下さるんですね。「あきら、ちょっと新潟に来てみないか」って言われたのが、先生のご縁であきらが新潟にお邪魔した次第です。
ということで、本来ならば息子のあきらが今日お邪魔してお話しさせていただくんですが、あいにくと仕事なものですから、母ちゃんがこっちに来させてもらっている分、息子は働いておりますので、息子から預かったものを読ませていただきます。
ご子息からの手紙
論語に学ぶ会・合同例会にご参加の皆様、この度は合同例会の開催、まことにおめでとうございます。振り返ってみますと、私が山形塾発会に汗を流したのは、早くも10年前。高野先生から、「勉強会に来てみないか」のお誘いを受け、何があるとも聞かずに、新潟の赤羽塾に体験入塾させていただきました。
勉強会では、心に響く孔子様の教えに感動、しかし私はその後の懇親会における赤羽塾の皆様の新潟流接遇にさらに心を打たれ、美酒・美食、そして学びを同じくする新潟美人を、毎月例会参加を口実に、楽しみに山形からやってくる運びとなりました。孔子様の教えと、論語に学ぶ会に集う方々からいただきまして、私の現在の考えを構築する大きな影響であります。
今回、このように私の皆様への言葉を母に代読していただく機会をいただき、改めて感謝申し上げたいと思います。赤羽塾をはじめとする、多くの塾生の皆様に、お世話になって者として参加すべきところ、あいにく家業である料亭を調理の立場から支える覚悟をし、以来、皆様とはずいぶん疎遠になってしまいましたことをお詫び申し上げます。
山形塾では、事務局を私から與田貴博さんに引き継いでいただき、私とは段違いの緻密さと人当たりの良さによって、また会長をお引き受けいただいた叶内紀雄さんの大きな器によって、さらに新潟、東京の塾生の皆様の温かさによって成長しております。どうか、同じ高野先生を通じて、孔子様の教えに触れるもっととしてさらに豊かな発展をいだければ本当にありがたいと思っております。
高野先生の病気治癒をお祈りし、またご参加の皆様が学びを終えた後に無事ご帰宅されることをお祈りし、感謝をこめて文を締めさせていただきます。
論語に学ぶ会・沢渡あきら
母の代読で申し訳ございませんが、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
(山形塾終了)
ありがとうございました。続きまして、佐々木塾お願いいたします。
(田中尚一さん)
佐々木塾としては、論語に学ぶ会がどんなふうにしてできてきたのかということを、少しお話ししていきたいと思います。
話の中身は、論語に学ぶ会の2003年10周年合同記念誌、こんな風なもの(資料を披露)を10年を区切りに出しております。その中で、一期の会長の椿さん・二期の赤羽さん・三期の尾山さんがそれぞれ論語について色々なことを言っておられます。この資料をもとに、論語に学ぶ会がどんな風にできてきたんだということを皆様にご紹介していきたいと思います。
その前に少し、自分のことを紹介させていただきますけれど、私は3年くらい前でしょうか、この論語に学ぶ会の佐々木塾というところに入れさせてもらいました一人ですので、非常に新参者でございます。私は49歳の時、中国に7年ほど行っておりました。その前に行徳先生のBE研修というものを受けました。その時に、致知という雑誌の出版社の社長がBE研修に来て、致知という雑誌を取りなさいという話がありました。研修が終わった後、致知という雑誌を取ってその中に木鶏倶楽部というものが新潟にもあるということを知りまして、早速そこに行ったのが、高野先生との最初の出会いだったと感じております。
その後、7年くらい中国に行っておりましたので、帰ってきてまた木鶏倶楽部に復帰をして、その中で論語に学ぶ会の紹介を受けて、入いりました。その後、ずっと長く事務局をやっていた上野さんが婚活というか仕事を一生懸命やるということで辞めたので、その代りに事務局を仰せつかってやっております。こういう人間が、新参者ですが、佐々木塾というのが最初の会ですので、説明したいと思います。
この記念誌のところに、椿さんはこのように書かれております。
会の発足の動機というのは、縁があって高野大造氏と出会い、指導相談を受けたことがありました。おそらく、経営コンサルタントでしたので、その絡みだったのだと思います。その後、一杯お酒を酌み交わす度に、箸袋に漢文を書きつけてそれを突き付けられて、後で解読するのに大変苦慮しました。「せっかくの学問、先生、自分だけで蓄えずに是非教えてください。会を作りましょう。あなたが先生。お願いします。」がきっかけであったと書かれております。
当時、佳味の会というのがありました。聞きましたら、中華の「かほう」というところが中華料理店を出すということで、それに合わせて1年程、毎月1回いろんな料理を試作して、それを食べる会、評価する会というのがあったようで、その会のメンバーを佳味の会と呼んでいたそうです。その他、木鶏倶楽部、その他知人とのメンバーで平成4年2月20日にスタートして、回を重ね、佳境に入り、次いで二期生、三期生と誕生し、誠にご同慶の至りでございます。
「論語は人間性の習練」というタイトルがつきまして、「長年唯物論にそまり、一にも二にも金・金・金。物質文明の妄想にさいなまれた自分にとって、素直に受け入れ、なじむのに時間がかかった。その後いつの日か、日々の現実に刷り合せができるようになると、心癒され、楽しく学ぶことが容易になった。読み書き、先輩諸氏の会話の端端に、儒教が出てくることに気づき、はっとする。先人は皆、勉強家だ。苦学されていることも知った。学問とは知識の競い合いではなく、人間の習練である。人の外に道はない。道の外に人なし。人間学と童子問。童子問とはここに書いてありますが、江戸初期、儒学者・伊藤仁斎が十年目にして知った、と。童子問というのは伊藤仁斎先生というのが、儒教についてその問答を三巻くらいに渡って書いた。そんな話も後で知りましたが、そんな話もここに出ています。
童子問を見ると、童子と問うという字が、童子塾に似ているなぁという気はします。字は確かに似ているんだなぁとこんな印象を持ちました。
また二期の赤羽さんが、こんなことを書いております。
木鶏倶楽部の関根洋子さんに紹介され、そこで高野大造先生にお会いしました。私もそこでお会いしたわけですけれど、そこでは、高野先生はパイプで煙草を吸う、しゃれた人なんだなぁという印象でした。そして論語に学ぶ会への入会を許可されました。名調子の素読、博学多彩な解説、興味深い脱線話、そして賑やかな懇親会、そんなところに引き込まれていきました。
その後で、今回は間に合わなかったけれど、子供論語の完成の暁には、論語の普及活動(特に年少者への)が使命なのかなと感じています。と書かれておりますので、多分、10周年位の段階で、子供の論語について話がいろいろあったでしょうし、またそれを普及させたいという思いが、それぞれの方の中にあったのだろうと感じるしだいでございます。
また三期生の尾山さんは、こんな風に書いておられます。
高野先生の活学・解釈が実にすばらしく、あっという間の年月でした。
何のために生きるのか、何故の秩序であり、中心帰一か?「仁」あっての義・礼・智・信。まさに自他愛を生きる無限向上の道を教えていただきました。今を、21世紀を、此の心理を生活に、仕事に生き切る事が我々の務めであり、後継者を育てることに意義あり、と深く心に刻んでいきたいと思います。
と、ここでも後継者を育てるという話がありますから、このくらいの頃から、論語を子供に教えるとか、他の方に普及させていくということが主義一貫していたんだなぁと思いました。また、この中にある「「仁」あっての義・礼・智・信」というのは、前から先生がよくご紹介される「まず仁が土俵です」ということも、この頃からそういうお考えがあったんだなぁということが読み取れるように思います。
少し悩ましいのが、ここに書かれている冊子の中に、どんなふうに論語に学ぶ会がでてきたのか、とか、どんな風に論語について考えていたのかとか、書いてありますけれど、私が何人かに聞いた話とやや違っているところがありまして、非常に悩ましいなぁと思いました。
玉木さんから少し話を聴いた時には、椿さんの話で今申しました通り、お箸の袋に色々漢文で書いて、こういうことだよと言われたんだと。でもせっかくだから、まとめて教えてくれない?ということで論語の会ができました。と、そんなストーリーを教えてもらいました。
また近さんは、仲間で集まった時に論語について話し合ったことがありまして、そこで高野先生が論語について非常によく知っていて造詣が深いので、教えてほしいと高野先生にお願いしたのが始まりだ。で、人を集めてそんな会ができたんだということを近さんから聞きました。
また伊藤先生は、佳味の会、先ほども申しました通り中華のかほうさんが、中華料理店を作るにあたって、月に1回ずつ何人かの方を集めて、試作の料理を提供して、どんな味なのか、良いのかどうかという話の中で、色々な話をしていた。その中で、1年で佳味の会というのは一度区切りがついた。で、食べたり飲んだり・・だけではなくてみんなで論語から生き方を学んでみては?ということで、論語に学ぶ会というものが始まったんですよという言い方をしております。特に25名くらいだとちょうどいいね、という話で最初26名集まって、論語に学ぶ会っていうものがスタートしたという話を聞きました。
最初、論語の中での話というのが、手書きのものを編集しながら、通釈と書かれているところがありますが、そこを2回ずつ繰り返した、と聞きました。全編を2回ほどやりまして、その後何を勉強したいと聞きましたところ、老子をやってみたいという方が何人かいらっしゃった。また、こういうご時世なので、孫子をやりたい、勉強してみたいという方もいらっしゃいまして、その後は、前半1時間を老子、後半1時間を孫子というふうに分けて講義を進めた時期もあったと聞きました。
その後、今の子供論語を含めたような、いわゆる解説・通釈・子供論語・親御さんへという形の論語というものをベースにして、我々講義を受けた。そんな状況です。
また佐々木塾が、子供に読ませたい論語というのはどんな論語なんだろうということで、各章ごとに、その時に出席したメンバーが、どうしても残したい、子供に伝えていきたいというのは○、どっちかわからないけど・・・は△、これはいらんね・・というやつは×ということで、皆で評価して、それを集めて、何人○をつけました、全員○をつけました..というような評価をしておりました。
その評価が、多分、街角論語200選になった時の一つの基準になっているんじゃないかなぁと、これは推測の話なんですけれど、多分そんなことじゃないかなぁと思います。
そんなことで、あまりたくさんなことはお話ができる状況ではないですけれど、私が聞いた話ということで、ご理解いただければなぁということと、あとは途中で言いましたけれども「悩ましい」。ずいぶん古くなっていて、記憶がそれぞれ違うんだなぁという。
さっき、田中壯太郎さんに聞いたら、ずいぶん違う話もいろいろあるんだなぁということで、やっぱりそれを古い方が生きているうちに、正確に記録するということが大事なんだろうなと、そんな風に感じる次第です。
いずれにしても、論語に学ぶ会の佐々木塾に入れていただいて、事務局をさせていただいて、今日は佐々木塾がどんな風にやってきたのかということにはあまり触れられませんでしたが、会の成り立ちとか、そんなことについて新参者の私がするということには難しい点もありましたし、また、運が良いと言いますか、悪いと言いますか、古い方が今日来ておりませんので、伊藤先生はいらっしゃっていない、多古さんはいらっしゃっていない、椿さんもいらっしゃっていないということで、その辺から「間違っているぞ!」という話もないもので、少しいろいろと話をしたということですので、ご了解いただきたいと思いますし、それなりにご堪忍いただきたいと思います。短いかもしれませんけれど、ご理解いただきたいと思います。以上、ありがとうございました。
(佐々木塾終了)
ありがとうございました。続きまして、赤羽塾お願いします。
(豊田)
1つ目は赤羽塾、2期はどのよういった流れで始まってきたのか。
2つ目は、よく合同例会なのでも言われるのですが、赤羽塾の特徴の一つでもある「女性の多さ」についてです。
女性が多いというのがキッカケとなって、先生も資料の中で「赤羽塾は若くてエネルギッシュ」なんて言ってくださいますが、私みたいなものがチョット破目を外した発言をしても「いいよ」なんて許していただける雰囲気があるのも女性が多いということなのかなと思いますので、その辺のお話し。最後にそこからどういう風に繋がりが生まれてきたのかというお話し。
3つのお話しをさせていただければと思っています。
まずは赤羽塾、2期がどのようにして設立していったかというお話しを田中壮太郎さんよりお話しいただきます。
(田中壯太郎)
私はこの論語に学ぶ会で唯一落第生だと自称しているのですが、1期に最初に入塾させていただいて、だいたい2年で仮名論語が一通り終わったんですね。で、次どうするんですかという話しの中で先生が「今度は孫子をやりたい」という話しがあったんですね。私はカッコよく思われたいというのもあって、あちこちに「論語を勉強している」と言い続けてきたんですね。ところが2年間を振り返ってみるとほとんど勉強らしい勉強をしていないと。
先生の話しを聞いてそれで終わり、また次・・・家で読み返したこともありませんし。とても人に論語を勉強しているなんて言えないような状況だということは自覚していましたので先生に「孫子ではなくてもう一回論語を勉強したい」と言ったんですね。
そうしたら先生が「案外この論語っていうのは人気があって我々も学びたいって人が自分の周りに余計いるんだ。だから2回目のクラスをつくるからじゃあ君はそっちのクラスへ流れてきなさい」という話しがありまして、そういう経緯の中で私は2期のクラス、赤羽塾へお邪魔することになったんですね。だからそういう意味では2期の皆さんよりも1回余計に論語を勉強していますので、そこがチョットした自慢といえば自慢でしょうか。
(豊田)
ありがとうございました。
事前に田中壮太郎さんから「設立のお話しを聞かせてください」ということで色々なお話しを聞かせていただいたのですが、私が一番頭の中がスッキリしたのは今お話ししていただいた「先生にとって2回目の論語だから2期なんだ」という部分です。恐らく早川塾、3期も「先生にとって3回目の論語だから3期」ということで始まったのではないかなと思っています。また新潟の各塾の皆様は田中壮太郎さんのように塾を移動されているというかたが結構いらっしゃいます。赤羽塾においても来られた方、移られた方、いらっしゃいます。特にそこにいわゆるレベル分けあるわけでもありませんし、先生の一言で「お前はあそこの塾がいい」なんていうことがあったということが特徴的と言えば特徴的かもしれませんし面白いところかなと思います。
今のような経緯で2期赤羽塾が立ち上がった訳ですが、私はまだこの頃には入塾していなかったのですが、設立後も決して順調にきていたわけではなく人数の少ない時代もありました。これは笑い話でもあるのですが、人数の少ない時期というのもありました。赤羽塾には「魔の7月」というのがありまして、なぜか毎年7月の例会参加者が少ないのです。その昔には参加者が1名という時がありまして、さすがにその時は先生とも話しあい、その月の例会はなしとしたそうです。また懇親会が数名なんていう時代もありましたし、なかなか人数が揃ったり、揃わなかったりという時期も設立してから5〜7年位はあったそうです。
その後、女性事務局が誕生し、そこから女性のパワーで会員数が増えるという時期を迎えました。公式ホームページ設立の話しとも繋がります。女性が沢山入ってきたという時期のお話しを小原さんから紹介していただきます。
(小原)
私が入ったころは、会員の人数はいたのですが例会や懇親会に参加される方は少なかったような記憶です。高野先生から「2期は解散して、1期と3期に吸収合併して振り分けたら」というようなお話しがありました。みんなで新潟駅前の居酒屋さんに集まって会議を開きました。その時に皆で「2期は離れたくないし、潰さない」というところで話しがまとまりました。それから「よし皆で人集めしましょう」ということになり、身近な周りの人から声掛けをしていきました。それから藤崎夏美さんと一緒に事務局を引き受けまして、藤崎夏美さんのパワーもあって大勢の方に参加していただけるような流れになりました。
(豊田)
私が入会させていただいたのも丁度その頃でして、確かにあの頃は毎月ゲストが参加されるような流れがありました。1回だけ参加される方、入会される方と色々な方がいらっしゃいました。どんどんと新しいものが増えていった時期でもありました。ここから人数も増えていくのですが、公式ホームページの作成をしたのも丁度この頃でした。
そして結果的かもしれませんが、ホームページの開設を通じて実は色々な問い合わせがくるようになり、新潟だけではない「つながり」が生まれてきたキッカケになりました。その辺りのホームページからの繋がりについて再度小原さんにお話ししていただきます。
(小原)
高野先生からホームページ作成のお話しをいただいた際に仰られていたのは「誰でもが自宅で論語に親しんで自宅学習ができるホームページを作りたい」ということだったと記憶しています。
今から8〜9年前の話しですが、たまたま私どもの会社がホームページの業務も行っていた関係で先生から
声をかけていただき、先生のお考えに共感し、ぜひ携わらせていただきたいということで進んでいきました。その後ホームページを介して青年会議所等からの講演依頼、四季社さんからの本の出版依頼などがありました。
ホームページ開設後3〜5年は論語に学ぶ会のホームページを見て、高野先生の活躍を知り、色んなご縁がたくさん生まれました。その後も雑誌「月刊OLマニュアル」へのコラム寄稿、テレビ局からの依頼は電話でくるんですけど、電話での監修みたいな、番組を作るにあたって、高野先生にこの話しでいいのかとかこの内容で間違いないのかというような確認が高野先生宛に入ってくるんです。それが高野先生のレベルの高さだと感じ取ったんですね。大学関係高校関係の先生方それから中国古典を教えてらっしゃる方、色んな形で高野先生に質問をいただいてきました。
(豊田)
私はホームページが立ち上がったところ辺りで入会させていただいてわけです。
色々なお話しを伺ってみて、同じだなと思うのはいつも先生から何らかの形で投げかけ、「こんなのやってみないか」みたいなお話しをいただいて各々が「そうだ」ということで受けさせて頂いた訳です。
私もホームページを通じて問い合わせをいただいた中で青年会議所さんのお話しが先ほどありましたが、今日は残念ながらいらっしゃいませんが、岐阜の古澤さん、一時期参加されておりましたが、「青年の船とうかい号」という洋上研修があったのですが、これもホームページを通じて青年会議所より問い合わせがあり、先生とお話しが合いまして、先生が洋上研修で講師として1年目に船に乗られているわけです。1週間ぐらいの洋上研修なのですが、先生が帰って来られて「すごいいいぞ」ということで「来年は必ず論語に学ぶ会から誰か行かせるから」と仰っていた時期がありました。それから私のところにお話しを頂きまして、「雅彦、行って来い」「わかりました」ということで私も乗らせていただきました。その時には岐阜に行ったり、愛知に行ったりしました。その後、岐阜の方や愛知の方が合同例会にも参加されたりということもありました。
話しが前後しますが、ホームページの件で先ほど話しに上がりませんでしたが、ホームページを使った側からの意見として「なんでそんなにあのホームページが凄いのか」と考えてみますと、若干手前味噌かもしれませんが、私のようなパソコンをいじる世代から見ると「論語の解説文に検索機能がついている」というのはもの凄い画期的なことだったんです。
論語のホームページって色々とあると思うんですけど、難しい解説が並んでいるページっていうのはあるんです。ですけど、キーワードで検索できるって、あれ何気ないかもしれませんが実は凄いご苦労があったんですね、技術的には。そんなことは分からずに使っている方からすると、自分がポッと思った一言を入れるとそれにまつわる解説が赤い字になってダァーって出てくる。あの取っつき易さっていうのが色々な問い合わせに繋がっているんじゃないかなって思います。
それが先ほどあったテレビの取材ですとか青年会議所の取材ですとか先生が出版された本の繋がりですとかにもなっている気がします。きっと山形の塾や東京の塾、そして私達の新潟の塾にも何らかの影響を与えているのではないかなと思います。そういう意味でもあの検索機能というのは相当の時間と技術が入っているものでしたので、あの当時かもしれませんけど凄くご苦労を頂いたのではないかなという気がします。
あの時もホームページのスポンサー集めに苦労した時期もあります。先生の一言で「頼むよ」「はい」なんてみなさんにスポンサーになっていただいてなんとか皆さんでホームページを支えてきていただいた。それがまた新たな新潟3塾だけではない新たな繋がりになったんじゃないかなと思いますし、それに関わることができた塾が面白いなと思っています。それもやはり女性が多いという雰囲気ですので、先生も飲んだ時にとても楽しそうにされますので、そのざっくばらんさが良くも悪くも今まで赤羽塾が変わらない雰囲気として残っているところじゃないかなと思いますし、若輩の私が事務局を続けさせてもらっているのもその辺なんじゃないかなと思います。
先生のポンといった一言に手を挙げてくださった方、またそれを女性の力で新しく切り開いてくれた、そんな雰囲気が赤羽塾長の下でずっと続いているということが私にとっても有り難いことですし、私の年齢でもずっと続けられるということなんじゃないかなと思っています。
少し短めですけど、これで赤羽塾の報告を終わらせていただきます。有難うございました。
ありがとうございました。ここで15分間の休憩を取りたいと思います。
紅屋重正の椿会長より、お茶菓子が届いておりますので、どうぞお召し上がりください。
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【後半スタート】
後半の最初は、早川塾にお願いしたいと思います。早川塾の皆様、よろしくお願いします。
(小川さん)
早川塾の小川でございます。 先生との関わりは意外に古かったことがわかりました。
うちの会社の小川屋と高野先生の高野食品。これは工場が隣同士なのです。県の食品工業団地にあります。工場が出来て40年になりますが、工場の管轄は私の親父であり、私は
販売の方に居りましたので、高野先生を知りませんでした。
昭和51年、新潟の方はわかるとおもいますが、清水フードセンターというスーパーマーケットがあるのですが、笹口にショッピングセンターをつくりました。当社も出店しまして、高野先生出店もされました。その時はラーメンのチェーン店を展開されておりまして、丁度お店が隣同士になりまして、高野先生は
テナント会の販売促進委員長をやっておられました。
テナント会の会議でお会いしたのが初めてでした。高野先生はとても張り切っておられまして、商圏の規模はどうだ、価格帯はどうだ、狙うお客様はどう・・・ ものすごい勢いで
、ぽんぽんと問題を提起され、いやー凄い人だなと思ったのが第一印象です。
高野先生はご自分が古典に親しむきっかけになったのはひとつの本だと云って、「十八史略の人物学」を紹介されました。伊藤肇さんが書かれた本ですが。これを読んでから古典に親しむようになったと。これが
キッカケだと。
じつは私もこの本を読んでいました。こんなところで先生とご縁があったんだなとしみじみ思います。これは初版が昭和55年です。私が買ったのが第30回刷で昭和63年。今から25年くらい前になりますね。こんなところでも先生から見えない所で教えてもらっていたのかなと、そんな感じがします。
そもそもこの本を買ったのは、自分の馬鹿さが嫌になったからです。学生時代はずっと体育会系の人間でしたのて、合宿所とグランドの往復しかしていません。東京で就職しました時、漢字を忘れており、文章が書けないのです。これに困りました。そんな時にこの本と出会いました。
さらに先生は、苦しみや挫折に遭遇した時、論語に助けられたと書いています。子罕第九212「子、四を絶つ」。やることなすこと全てうまくゆかず、心労喘息を煩って伏せて、体重も一
ケ月に10キロも減って死ぬかと思ったそうです。子罕第九212を見て「人間は変われるんだ」と気づき棒線を引きました。この時が平成元年と、新論語に書いてあります。今より24年前。
ですからその今から26,7年前から先生は論語を見て、勉強された。自分のことを見直してやって来たんではないかなと。そんな風に思っております。
それが先程からご紹介されているように、お友達からこわれて20年前に「論語に学ぶ会」が発足したと。 そんなことではないかと私なりに思っております。
私が論語に学ぶ会に初めて入会させてもらったのが、自分の仮名論語に日付が書いてあります。平成7年2月と。びっくりしたんですが赤羽塾二期ができた日です。ですから多分その二期の最初の時に顔を出しているはずです。ところが当時、まぁ今も同様なのですが私の家族が体調を崩しており。なかなか時間が思うようになりません。折角入れてもらったのですが一年のうちに出席できるのが1回か2回。で、そんなことをしているうちにそれこそさっきの田中さんではないですけど、三期ができる。
その時に先生は「小川お前はもう退学だというんじゃなくて、もう一遍勉強をし直すため三期にいけ」と言ってくださいました。本当にありがたかったです。
ただ、あの三期に移って、いきなり出席状況がよくなるかということは全然そうじゃございませんで、欠席が続きました。
当時会長していた尾山さんからお電話いただきまして、「例会の出席者が3名しかいないと、先生から怒られる。三期が潰れるので、なんとかしなきゃ、小川くん
出席して」、といわれたんですが、それでもお電話いいただいたうちの3分の1くらい出席したでしょうか、そんな状態でした。
その後、普通に例会に出られるようになったのが今から10年くらい前の平成15、6年くらいです。
ただ今でも夜がだめでございまして、懇親会では必ず6時には帰るんです。ですから、今日も6時に帰ります。今日は懇親会の開始時間が5時15分からとのことですが、できるだけ早く始めていただけると、私も沢山酒が飲めますので、よろしくお願いをいたします。
次は合同連絡会の話です。平成17年に山形塾ができました。その丁度同じ頃、『書いて味わう人生応援歌』が出版されるということでした。先生も各塾でお話をされているんですが、言いそびれたりとか、聞かなかった人がでてきたりとか、やることはいいことなのに
、あちらこちらに曲がってとられたりですね、そんな雰囲気がでてきました。
そこで、これではもったいないと思いまして、先生に「各塾の連絡調整機関みたいなものをつくりましょう」とお話しました。先生と意見が合わないこともあったんですが、最終的に今の形になりました。合同連絡会の目的は、論語に学ぶ会全体をリードするのではなく、あくまでも各塾が、活き活きと活動できることを陰から支援することです。さらに、先生は想いが一杯ありますので、その想いがストレートに各塾に伝わるようにする。この二つ
を合同連絡会の目的といたしました。
最初の式次第や議事録あるんですが、やはり高野先生が、自分の思っていることを言っておられます。平成18年の10月になっておりますが
その内容は以下です。
・HPがあるので、さらに充実したい。
・外部からいろんな問い合わせがきたらそれをどうするか
・子供論語を編纂するから手伝ってほしい
・資料管理をちゃんとしよう
・各塾では、例会どうやって例会を盛り上げているか
・新入会員をどうやって獲得しているか
2回目の議題は、
・月刊「OLマニュアル」に寄稿したからその原稿を活用してほしい。
・新論語については、各塾ごとにどの辺を勉強しているか
・各塾の紹介。
私も体調が思うようでなかったんで先生にお願いして早川さんに、合同連絡会の議長をバトンタッチしました。次は、童子塾。立ち上げのとき、各塾からいろんな応援をいただき、みなさんの意見の集約とお願い
をしました。最後に、街角論語の出版、これが大仕事でした。
当時、先生からきたメールがありますので、それを紹介致します。 これは入院される前のものでしょうか。
高野先生
小川さん体調がよくありません。今日大学で体調不良が続いているために、原因究明の徹底調査の為に入院を申し込んだ。このようなことなんですね。で丁度街角論語をつくっていた。200選までまだちょっとあると。で、多分最後までぜんぶいかないからその時は頼むと。
こんな話が入院直前まで続きました。180章まで完成して、あとの20章は私が引き継きました。校正は伊藤先生にお願いをいたしました。
以上が、合同連絡会の活動の内容でごいます。今は早川さん引き継いでおりますので、よろしくお願い致します。 以上です。
(岩崎さん)
みなさんこんにちは。
私は難しい話は何もできません。 今でも頭がぼーっとしておりますけれど、ただ体験談としてひとつお話させてもらえればと思います。
10年前に私、心臓の手術をしまして、人工弁がはいってますけどそれで調子がよくなったのですけど、その時に4ヶ月くらい休むかと思いまして、で先生に手紙書いたんですね。こういう事情で休みますからと手紙をだしました。そうしたら先生からの返事が、心臓病の大半がストレスの蓄積からくると聞いております。この度の病は、内に溜め込まずに上手にガス抜きすることを覚えなさいという天の啓示かもしれません。というお手紙をいただきまして。
その追伸に、送らず迎えず応じて動ぜず、去る者は追わず来るものは拒まず、あるがままを受け入れて内に溜め込むことをしない、という有名な高論がありますが、どうもこれが爽やかに生きるこつのようです。というお手紙いただいたんですね。
私も根性がよいようで、なんでもいいよ、いいよという人間なんですけれども、よく考えてみるとあれもしなきゃだめだ、これもしなきゃだめだ、時間がない。
あるいはどこか行くとなると、だいたい友達と温泉に行くときは私が運転して行くんですけれど、こっちのグループと約束、こっちのグループと約束して日がぶつかってしまったとか、そういうどじなことばっかりやってるんですけれど。
そういう生き方をしてたもんですから、なるほどなと思いまして、少しは考えなきゃなと思うのですが、やっぱり元来そう言う性格らしく、嫌とかNOとか言えない質らしくて、そういうところで自分をどうゆう風にかえてゆこうかなと考えたんですけれど、ある時、先生からも、物事には優先順位がある。いくつかこの忙しい中には、どれが先にやるべきなのか、どれが重要なのかそういうことを考えて行動するようにということを聞きまして。
なるほどな、と思いまして、いくつかある時に、日にちが決まっている本当に重要なもの、そういうことを考えた時にまずこれからやって、その間にちょっとばかりこれをおいて、それが終わったら今度はこっちに行く、そういう風にやるとなんとなくいろんなことがこなせるようになったんですね。
自分ではこなしていると思っているんですけど、周りの人はそういう風には思わないかもしれないと思いますけど、だから、あの、全部断るんじゃなくてその中で工夫して優先順位とか重要性とかそういったものを考えてひとつずつ解決させてゆく。
そうゆう生き方の方が充実感もありますし、また喜びもありますし、またみなさんとの付き合いもできます。ということで、自分自身が変わってゆくんじゃないかなって思いました。最初のきっかけは先生からこういうお手紙をいただいたのが自分を変える切っ掛けとなりました。
なので、この手紙を大事にとっておいたのですけど。これは私が先生にこういうことで休みますからと手紙を書いたお返事なんで、先生から私の方に寄越したんではなくて、私のほうから出したから先生の方であっそうか貴方はこうした方がよいですよ、と忠告をいただいたんですけど、やっぱり論語とかそういう大事な物かなと思いまして、私も生きている限り論語に接していたい、ただ難しい言葉覚えなさいといっても
私はすぐに忘れますんで、あの時どういう言葉でしたかという試験があったら全くできないと思います。だけど、論語が皮膚にひとつずつ入ってくるような気がして、これはできる限り論語と接して生きてゆきたい。と考えております。だからこれからもご指導してもらいたいと思います。よろしくお願いします。
(高橋さん)
こんにちわ。三期生の高橋でございます。
時間はあまりないのですがいくつかお話ししたい。先ずあの私が三期生に入会した時というのはですね。
論語に学ばせてもらおうとか、そんな大それたことはまったくありませんでしてね。 二期生からもお話が出てますが、赤羽さんに「お前勉強にこい」と言われまして。
暑苦しいのもいるし、是非来いと赤羽さんにそう言われて、ある日、土曜日に行きましたら、そこに赤羽さんがいなくて違う人ばっかりで、まあ赤羽塾を赤羽さんにだまされちゃったのかなという感じで。私が入会したのは高尚なことでもなんでもない。ということでちょっと気が引けております。
ちょっとお話しする前に四名しゃべる予定になってましたが佐藤悟さん、インフルエンザということで、ここにきてみんなにうつすと、老人ばかり多いからうつすとまずいということで今日は休ませてもらってます。
で、三期生は結構古い人で、私、図々しいからしゃべってますけれども、私の前には小川さんや、今しゃべっていた岩崎さん、今日休みました佐藤さん、それからしょうじさんとか遠藤さんとか5人くらいは先輩居ますからね。あまり図々しくしゃべっているのもどうかな、と思っております。
で、山形塾とか東京塾とかですね。本当に論語に親しむ、或は論語に学ぼうとこういう人達が多くてですね。まぁ、あの
そう言う事を感じますとですね。孔子家語の中にですね。東家の丘、或はもう少し軽く言うと隣家の丘さんという言葉がありますけれど。これはご承知のように、孔子さんが聖人として、或は大学者として有名になった時に、孔子さんの家を訪ねて来た人が近所の百姓に、農家の方に、有名な孔子先生の家はどこですかと尋ねたら、そんな偉い先生はしらないけれども、その方は西隣ですけれども、隣の家の丘さんなら知ってるよ。という風に答えたということから凄く偉い先生なのに周りが気付かないばかなことを諷した言葉ですけれども。
私が山形塾に出席させていただいたときもドキドキしていたのですが、ほんとにみなさんですね。高野先生ですと。そうすると、じゃあ我々はなんなんだろうかなと。
高野先生って新潟に素晴らしい先生がいらっしゃるとということを皆さんから聞くに及んで、まさしく東家の丘さんのように、やぁ私は高野先生という立派な先生は知らないけれども飲んべぇの大造先生なら知ってますよ、とそんな感じに成ってしまうかなと思いまして。
まぁそれからもう少し勉強しなくちゃならないなと思いまして、勉強し始めたら先生身体を壊してしまったと。こんな流れになっております。
今日はですね。そう言うわけですね。私個人的にはですね。あの、決して三期生全員がそうだというわけではないですよ。私が、ですよ。私はそういう意味では東家の丘さんでもいいし、飲んべぇの大造さんでもいいですけども、兎に角一日も早くですね。お元気になられて教壇に立って欲しいということが切実なる願いでございます。
それから今日は縁という言葉で、縁という言葉がテーマということですけれども、柳生家家語に、小人は縁と出会い縁と気付かず、中人は縁と知りつつ縁を活かさず、大人は袖触れ合うも縁を活かす、という言葉がありますけれど。我々も大人であれと教わっているわけですから、今日は袖触れ合う縁を活かしまして、更にみなさんと仲良くなれればいいなと思っております。
ご清聴ありがとうございました。
(早川塾終了)
ありがとうございました。最後に、東京塾お願いいたします。
(永野さん)
喉がガラガラに乾いているのは私だけではないようです。東京塾で最後ですから、おつきあいお願いします。もともと私は論語を学ぶ気もなかったし、塾の存在も知りませんでした。ですから、開塾の経緯などは言えません。谷尾さん、お願いします。
(谷尾さん)
東京塾は、今から5年前に先生からお声をかけていただきまして発足いたしましたけど、当時は私だけが、
多分、それより先に新潟の佐々木塾に通わせていただいたことがございましたので、その後少し、東京で仕事が忙しくなりまして途切れておりましたものですから、多分それで先生が声をかけてくださって、私に敗者復活しろ!ということで、事務局を引き受けろということだったと思います。それでお引き受けしまして始まりました。
東京塾の大きな特徴が2つありまして、その大きな1つは、新潟塾とか山形塾と違いまして、ホームページというものがなければ出会わなかっただろうというメンバーばかりです。ですから、地縁とか血縁とかいうものは全くないのですが、実は素晴らしい縁ができつつありますので、それを多分みんな、入った目的ですとか、東京塾の感想なんかを言ってくださると思いますので、それをご披露することによって、今の東京塾の雰囲気が伝わるんじゃないかなぁと思います。
お願いします。
(錦織さん)
私、東京塾の錦織と申します。
吉池に勤めておりまして、初めに永野会長の方から東京塾発足の経緯を話してくださいということだったのですが、私も開設にあたりましては、先ほど早川塾の最後にマイクをとりました私どもの高橋登会長が関わっていることは存じ上げておりましたけど、他は何も知らない。なぜかと申しますと、今、インターネットで東京塾の塾生はずいぶん集まっているというお話がありましたけれど、私は電話1本で入会と言いますか、忘れも知れません。
平成20年、この東京塾が開塾いたしました4月13日、日曜日なんですけれど、休みで家でゆっくりしておりましたところ、携帯電話がなりました。私の同僚からなんです。「今日、論語に学ぶ会という会の東京塾が開塾します。錦織さん、そのメンバーに入っておりますから、出てきてください。」それが当日の昼前なんです。「え!?」と答えましたら、「今日の3時からなので、それまでに来てくれれば大丈夫です。」ということなんです。「え?行かないとまずいの?」「まずいです。」と一言。それで私着替えまして、会に参加させていただいたのが最初で今に至っております。
その後は、吉池の8Fのカルチャーセンターを使って、東京塾は毎月第2日曜日にやっておりましたので、どちらかというとお世話をさせていただいているという形で今までずっと論語の東京塾に参加させていただいておりまして、参加しながら、頭には入っているのかどうかわかりませんけれど、先生のおっしゃる論語を学んで普段の生活にそれを活かしていく、先生の懇親会の中での話を聞きながら、時代の流れとかその日その日の流れとか、人を見る目とか、そういったものを養わせていただいたのかなと。少なからず、ちょっと見方が変わってきたなということを感じた次第です。
また、ここは先輩方がたくさんいらっしゃいますので、私はインターネットで入りませんでしたが、そういう方々がたくさんいらっしゃいますので、バトンタッチさせていただきたいと思います。
(葛西さん)
東京塾の葛西と言います。僕も言われました通り、インターネットで入ったんですよ。インターネットで論語に学ぶ会というのは前々から知っていたんですが、たまたま東京塾ができますということで、いやぁ、なら行ってみようという形で入ったのがきっかけです。
僕自身、技術屋でずっときているもので、こういう古典とかいうのはほとんど興味がなく、最新技術のものが良いということでずっとメーカーに勤めてきたんですけれど、ある時、品質保証の命が流れたんですよ。品質保証というのは、なんかトラブルがあったら出ていくという話なんですよ。
そうすると、人間関係だけしかないんですよね。相手とどうやったらということしかないんで、それから非常に人間というものに興味をいだきまして、人間学を読み始めました。その中で、論語というものがあったんですが、定年になったら子供達に論語を教えたいなという希望を・・・昔の寺子屋のようですよね。あぁいうことをやりたいなぁとおぼろげに思っていて、そのためには論語を学ばないと!と思いました。
で、2年前の山形塾ですか、先生が童子塾の話をされたんですよ。まさにこれだなぁと思って、その時すぐに、ぼくはこういうことをやりたいというのを、決意みたいな形ことを話したんですけれど、実行するまでに後1つ山を越えなければならない。
山形塾でやられていることは非常に立派だと思います。現実問題として、僕は会社を興してコンサルみたいな形で仕事をしているのが続いているもので、週3日ほど仕事を受けていますので、そろそろ縁を切りたいのですが、なかなかそれも切れないところがありまして、今一歩踏み切れないところがありますけれど、最近、街角論語という形を教えてもらって、毎日やる童子塾とは違う方法もあるなぁと考え始めています。毎日やらなければいけないというのは、非常に重くなりまして、昔は体に自信があったんですけれど、何があるかわからないということもありまして、毎日続けることに対する自信というものが、、、 とにかく人を預かった以上それなりの責任を持ってということですから、命をかけてやらなければならないということだと思いますので、どの時点で踏み切るかということなのです。
色々な仲間の人とお会いして、全然知らなかった人が、この論語に学ぶ会を通じてつながりができましたので、その人達の力を借りながら、ということも考えております。
以上です。
(永野さん)
今お話しされたのは、葛西(かっさい)さんですが、ちなみに一滴も酒を飲みません。勘違いされた方もいらっしゃったかもしれませんが。次の堀内さんは、高野先生とは1回もお会いしたことがございません。入塾したのが去年の5月です。お願いいたします。
(堀内さん)
東京の堀内と申します。どうぞよろしくお願いします。今申し上げました通り、私、ホームページで去年の5月から参加させていただきまして、ホームページ上では高野先生のお名前は存じておりましたけれど、一度も面識はございません。
今日は高野先生とのエピソードを演説するということですけれども、永野塾長に「堀内さんもスピーチお願いします」と言われましたが、面識がないので何を話したらよいのかわからないのですけれど。唯一、高野先生がお書きになられたテキスト使わせていただいているのですが、テキストを通じて、高野先生の人柄とかを知ることができるのかなぁということを感じております。
僕も参加させていただいているくらいですから、それまでも少しは、本屋さんで論語の本を買って読んではいたのですけれど、みんなどれもありふれた固い表現ばっかりなんですけれども、言ってみれば今使わせていただいている高野先生のテキストは、なんて言いますか、暖か味があるというか、人間味があるというか、生活感がある、そういう表現で書かれているとても読みやすい印象を持っています。
私共東京塾では、前半:学習会、後半:懇親会となっておりますけれども、学習会からとても議論が活発と申しますか、話が脱線するというか、活発で収集がつかなくなって、その続きは懇親会でやろうよ!という形でストップがかかることがたまにありますけれど、それはテキストが日常の場面を描いているから議論が活発になるのかなぁと僕は感じているんですね。良い意味で。もし、固い教科書であれば、固い教科書を使って何にも議論をしないよりも、砕けた教科書で活発な議論をして学んでいくということはとても素晴らしいことだと思っています。
高野先生とは面識はございませんけれども、今日のキーワードは「縁」ということですけれども、ご縁をいただいているとしたら、そういったテキストを通じて先生とのご縁をいただいているんだなぁと感じております。
以上です。
(小熊さん)
東京塾の小熊と申します。どうぞよろしくお願いします。私はこれでちょうど3年になります。
私も技術系なもので、あまり漢字とかは注視してこなかったのですけれど、いい歳になりまして勉強しようかなぁと思って、最初は論語というのはある程度、文法的だと思っていたんですね。あと、言葉の意味、背景、社会的なことを教えてもらいたくて、高野先生の塾を見つけまして、参加させていただきました。最初に高野先生に終わった後にお尋ねして、「これは論語を解説だけで、論語の中身がないですね」「ここは論語に学ぶ会であって、論語を学ぶ会じゃないんだぞ、お前」と一喝されました。
私は、それはそれで楽しかったので参加させていただいて、今考えますと、いろんな社会、または日本人、または人の心、そういうところの私の気づかなかったところのヒントをたくさんもらったような気がします。
そして、本、推薦図書を含めまして、関連図書も読みまして、最初に参加させてもらった時よりは、少しはましな見方ができる人間になったのかなぁと今感じております。
私も今、あるところの子会社を任されておりまして、社員に何年前位からか、部会とかでしゃべるんですけれど、2年前から月1回、メッセージを送るようにしたんですね。今までは言葉だけで言っていたことなんですが、高野先生の話を聞いているうちに、これは残しておかなければいけないなと思ってですね、それで、文章にしてメールで全社員に月1回送るようにしました。
大体415枚くらいになるんですけれど、文はですね、感じたことを返事ください、と。でもそれは義務ではない。それと反論、これもください。ということで出してます。1割の社員が大体返事をくれます。僕は1割もくれてすごいなと思ってるんですけれど、その中で一人でも、私が高野先生から感じさせてもらったことを伝えられて非常にありがたいと思っています。
ところが、普段から文章を書いてないので、非常に時間がかかりまして、ちょっと仕事がおろそかになっているのではないかという反省もしながら、高野先生の気持ち、もちろん高野先生という名前は出していませんので、論語なり、または先人の言葉になぞられて出しております。社員たちを踏まえますと、私も益々勉強しなければいけないなぁと思いますので、一時も早い高野先生のご回復を祈って、頑張っていきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。
(永野さん)
東京塾の普段の例会というのは、高野先生のテキストに沿って勉強させてもらって、その後に懇親会というのは変わっておりません。ただ、さっきもおっしゃられた通り、結構皆さん議論好きなもので、横っちょにずれていっちゃうこともあるのですが、それもそれかなと。で、ちょっと話が長くなりそうだなとなったら、これは懇親会に持ち込みましょうと。
で、去年いろいろあって、我々の中で話した中で、異口同音に皆さん「そうだよなぁ」と詠うんですね。世の中、いろんな問題で、一言で言えるものではございませんけれど、世の中が悪くなっているな..とその原因は何なんだろう。と考えた時に、東京塾の大半は、我々が悪いんだと認識しています。特に50前後60。60代、70代の人間、我々が悪いんだと。本人達も「私もそう思います」と言います。親が子供に、子が孫に伝えるべきことを伝えてこなかった結果だと思います。
ならば我々は、ある責任を負っているわけだから、そのことについて、何か社会貢献でもなんでもしたいということで、皆さん程度は別としても、そういう考えを持っています。
ということで、山形の童子塾に対して、資金的に困窮を極めている、そこで私、東京塾の皆さんに投げかけた時に、すごく理解できる。それで東京塾で何をやっているかというと、例会が終わって懇親会に行く前に、茶封筒を置いておくんです。いくらでも結構です。形としては東京塾ということではなくて、東京塾有志ということで月々、山形の基金の方に寄付させていただいてます。
不思議なことに、月々5万円集まるんです。中にはいろんな理由でできない人もいる。千円の人もいる、一万の人もいる。合計で5万以上になることもあるんです。5万いかないこともあるんです。ならしていくと、大体想定していたように5万になる。
まぁ、寄付・支援と言っても、受け取る方としては、希望としては毎月決まった金額が入ってくれれば、いろんな資金繰りもやりやすいでしょう、ということで寄付させてもらってます。我々はこれからも続けていきます。意図は先ほど言った通り、山形の童子塾は我々論語の会の童子塾だと我々は思っています。先ほども申し上げた通り、社会が悪くなっているのは、今の若い世代のせいじゃない。我々に責任があるから、できることからしていこう。その先の、先の、いきつく所の1つの童子塾。子供に対するいわゆる養育というもの。間接、また間接になるかもしれないけれど、まだ東京塾ではそれができていないので、せめてそれなりのことはさせていただこうかと我々は思っています。今後も続けていきます。
この中からも1人、2人と手を挙げていただける方が出てくれることを望んで、東京塾の挨拶に代えさせていただきます。
(東京塾終了)
ありがとうございました。各塾の皆様、お忙しい中、ご報告の準備をしていただき、心より感謝申し上げます。
本当にありがとうございました。これで、論語に学ぶ会 20周年記念合同例会を終わりとさせていただきます。
赤羽塾長お願いいたします。
「本日はどうもありがとうござました。この後の懇親会も楽しみましょう。」
引き続き、この後は懇親会でお楽しみいただきます。懇親会会場は、エスカレーターで2階に下りていただき、
奥 芙蓉(ふよう)の間となっております。席次はございませんので、お好きなお席にお座りください。
また、例会のみご出席の方々、本日はお足元の悪い中ご出席いただき、ありがとうございました。
お気をつけて、お帰り下さいませ。本日はどうもありがとうございました。
高野先生からのメッセージです。合同連絡会議長の早川さんが、代読してくださいました。
「20周年メッセージ」
親愛なる会員の皆様へ
当「論語に学ぶ会」も、愈々20周年を迎えることになりました。主(あるじ)不在の20周年例会となりましたが、会員一人一人が主と思って、ありがたく又、お互いに感謝しあい、楽しく祝って下さい。何よりも大好きな「論語に学ぶ会」の今日のこの席に、皆さんと一緒に居れないことが、私にとってどれ程悲しく、無念なことであるか。一人一人の顔を思い浮かべると、自然に涙がこぼれてきます。
一口で20年と云っても、本当にあっという間であったような気が致します。当初は、水先案内人のつもりで、論語全篇を二年くらいかけて一通り終了したら、解散するつもりで始めたのですが、やっているうちに、次は「孫子」だ、次は「老子」だ、次は「貞観政要」だ、次は「孟子」だ、次は「菜根譚」だ‥‥となりまして、もう一度原点の「論語」に戻って学び直している、と言うのが現状ですね。
昨年、古くからの道友、秋山君を2月に、佐藤君を11月に亡くし、又、私自身の体調から考えてこの冬を越せないかもしれないと思い、今年の年賀状は欠礼させてもらいましたが、皆様から心温まるお励ましの賀状を頂き、この場をお借りして厚くお礼申し上げます。まだこうやって生きておりますので、ご安心下さい。
私の病は、現代の医学では治療法も治療薬も無いとのことで、奇蹟の癒しをかたく信じて祈るしかない、というのが実情です。祈りが叶い復活を果たした暁には、再誕の孔子(現在15才になりました)への道付けとなるべく、論語全510章を「宇宙時代の論語」として頭から書き直すつもりでいたのですが‥‥。アセンションに向けて大量のカルマの清算をやらされているのでしょうね。
衛霊公第十五に「君子もとより窮す。小人窮すればここに濫る」とありますが、ジタバタしたくはないな!?と思っておりますが、どうなることやら。出来てないからね、人物が‥‥。
この20年間で得た最高の宝物は、こんなに素晴らしい君達と出会え、共に学ぶ機会を得ることができたことです。これは、魂に永遠に刻まれることでしょう。
ありがとう!!ありがとう!!我が愛する「論語に学ぶ会」の道友諸君!!
元気な姿で又君達と会いたいね!!!
ちょっと湿っぽいメッセージになってしまってごめんなさい。
今日は大いに楽しくやって下さい。このメッセージを早川武美さんに託します。
平成25年1月26日
論語に学ぶ会主監 高野大造
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懇親会の様子
佐々木塾
赤羽塾
早川塾
山形塾
東京塾
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