2009年3月14日掲載
2008年4月29日加筆 赤羽塾の小林さん
浄土宗の成り立ちを調べてみると、イエスの12使徒が大きな役割を果たしている。キリスト教の確立と布教には、釈迦の十大弟子が関わっている。キネシオロジーテストから得られた以上の事実から考えると、宗教の元は一つであるといえる。イエス、釈迦、モーゼなど伝道師の個性の違いによって、感性な鋭いもの、理性が表にでているもの、悟性に特徴があるものなど、宗教にもいろいろなタイプがあるのであろう。
1)歎異抄の「善人と悪人」を理解するヒントは聖書にある
歎異抄 http://kyoto.cool.ne.jp/otera/tanni/
歎異抄は「異なるを歎き」執筆された。以下に書かれている善人と悪人の言葉は
普段思う意味と違うので注意が必要。
悪人とは煩悩であり、神の道に迷った者・真理に迷った者を意味する。
歎異抄・第三条
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一 善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世のひとつねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆゑは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。よつて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、仰せ候ひき。
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<口語訳>
善人でさえも浄土に往生できるのだから、悪人が浄土に往生できないわけがない。ところが、世間の人たちが言うには、「悪人でさえ往生できるのだから、善人が往生できないわけがない」。この考え方は、チョット見は正しいように見えるけど、阿弥陀さまの本願、つまり他力の考え方にはふさわしくないわけ。なぜなら、善い行いをして、修行をいっぱいして、そしてその結果で仏になろうとしている人(こういうひとたちを仏教では善人というんだけど)は、阿弥陀さまのお力にまかせるという他力の心が欠けているので、阿弥陀さまの本願の対象からはずれているのね、ところが、自分でなんとかして仏になってやろう、という心を改めて、阿弥陀さまの力にお任せしちゃえば、真の浄土に往生できるわけ。煩悩の塊みたいな私たちは、どんな修行をしたって解脱なんかできない。そんなわたしたち(つまり、修行もできないような、仏教でいうところの悪人ね)を、阿弥陀さまが可哀想に思って、私たちを救ってあげようという願いをおこされたわけで、その願いの本来の意味は、悪人こそを成仏させてあげようというものなわけだから、阿弥陀さまのお力にお任せしてしまう悪人こそが、一番浄土に往生するのにふさわしいわけ。そういうことだから、「善人でさえ往生できるのだから、悪人が往生しないわけがない」と言うことになるわけだ。と、親鸞さまはおっしゃいました。
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「善人と悪人」のヒントは聖書にある
「悪人」を救うためには
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阿弥陀如来(宝蔵菩薩)は、仏になるに付いて48願(請願)を立てた。その願の18番目に「若し自分が仏になることが出来れば、凡夫が「阿弥陀仏」と唱えれば、仏の国に連れて行く(これが往生→生まれ変わる)という項目があ
る。
「自分が仏となって浄土をうちたてたあかつきには、悩める人が救われたいと私の名を呼んだら、無条件で救ってあげたい。もしそれが出来ないのなら、仏になる資格などない」というものである。法然は
ここに着目した。阿弥陀は結局、仏になれたのであるから{南無阿弥陀仏と唱えれば仏になれるのだと確信し、法然は大衆にこのことを説いた。これが念仏の起こり。 |
2)歎異抄の「聖道門と浄土門」をより深く知るには、四句教が役立つ
歎異抄・第四条
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一 慈悲に聖道・浄土のかはりめあり。聖道の慈悲といふは、ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし。〔めったにない〕浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもつて、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり。今生に、いかにいとほし不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。しかれば、念仏申すのみぞ、すゑとほりたる大慈悲心にて候ふべきと云々
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<口語訳>
仏教で言うところの慈悲というものには、聖道門と浄土門では違いがあるのよ。聖道門、つまり一所懸命修行してこの世で仏に成ろうとする教えでは、あらゆるものを愛おしく思い、可哀想だと思ってやり、育てていくことを意味してるの。そんで、思い通りに他の命あるものを救いとっていくことはとっても大変なのね。浄土門、つまり阿弥陀さまのお力で浄土に往生して仏に成ろうとする教えでの慈悲というのは、お念仏の力で浄土に生まれて、すぐに仏になって、そうなってから思ったように命あるものを救うすることを指してるの。この世では、どんなに可哀想で気の毒に思っても、思い通りに他の命あるものを救うことは難しいわけで、つまり聖道門の自力の慈悲は、どうしても不完全なものになってしまうのよ。よって、お念仏をいただいて阿弥陀さまの他力の教えに従うことこそ、一貫した大変すばらしい慈悲の心というべきだね。と、親鸞さまはおっしゃいました。
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聖道門(自力)と浄土門(他力)、どちらか一つではダメである。両方必要。
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人は生来特別の素質をもっている人は、甚だ少ない。一般の人はみな習性があるから、善をなし悪を去る修行をさせないで、観念的に聖道門や浄土門などと教えたら、
一切の行動はすべて着実ならず、虚無的な人間を養成することとなる。
四句教の教えを参考にする事。
普通の人は聖道門(自力)に偏りがちなので注意する。
自力救済するのはめったにない。 |
王陽明の
「伝習録」の四句教
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善無く悪無きが心の本体
善有り悪有るは意の動(思考作用)
善を知り悪を知が良知(良識)
善を為し悪を去が格物(ものを正すこと) |
「南無阿弥陀仏」について
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浄土宗は「南無阿弥陀仏」と唱える。「南無」とは、帰依するという意味。ヘブル語で「すべてを委ねる」という意味。アーメン〔御心のなすがままに〕と同じである。「阿弥陀仏」とは、無量寿の事。無限の命。神の無限の愛の光を意味す。ここから、「南無阿弥陀仏」とは、仏(神)の無限の愛の光である阿弥陀仏に帰依します、ということである。
浄土真宗はキリスト仏教である。 |
3)浄土真宗はキリスト仏教である。キネシオロジーテストで調べると、
浄土真宗の指導者はイエスの十二使徒が多い。
平安中期 |
空也
(903〜972) |
霊感が鋭い
(声明念仏の道を開いた) |
バルトロマイ
(タナタイル)同一人物
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源信
(942〜1017) |
浄土宗の基礎を築く |
バプテスマのヨハネ
(イエスの従兄弟) |
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法然(1133〜1212) |
浄土宗の開祖 |
トマス |
鎌倉 |
親鸞
(1173〜1262) |
浄土真宗をおこす |
パウロ |
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唯円 |
記録を残す
(歎異抄) |
マタイ
(福音書)
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一遍 |
底抜けに明るい
(時宗踊念仏) |
ヤコブ
(明朗快活)
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室町 |
蓮如 |
布教の達人
〔浄土真宗・御文〕 |
アンデレ
〔伝道名人〕 |
イエスの十二使徒とは、ペテロ・アンデレ・ヤコブ・ヨハネ・ピリポ・パルトロマイ・トマス・マタイ・アルバヨの子ヤコブ・タダイ(ユダ)・シモン・イスカリオテのユダ
耶蘇は阿弥陀仏のこと。明治には日本人の70%はピュアランドセクト、洗礼こそされてないがキリスト教と同じであった。つまり、浄土真宗はキリスト仏教であることになる。
4)三誓願と三帰依
キリスト教に仏教が入った事例で、キリスト教修道会の一派がある。
仏教では、出家に際して、三帰依おこなう。帰依仏、帰依法、帰依僧である。
修道院における「三誓願」は、従順・清貧・貞潔で三帰依と同じ。、
キリスト教と仏教は類似点が多い。
5)キリスト教の主要な人にも、釈迦の弟子が多い
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修道会 |
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釈迦キリスト教 |
4世紀 |
エジプト コプト派
パコミウス |
苦行を行う |
摩訶迦葉 |
6世紀 |
イタリア
ベネディクトス |
基礎をつくる |
舎利弗 |
11世紀 |
イタリア
ロベール |
布教 |
羅睺羅 |
12世紀 |
イタリア
ベルナール |
戒律第一 |
優波離 |
釈迦の十大弟子
舎利弗(しゃりほつ)智慧第一。
摩訶目犍連(まかもっけんれん)神通第一。苦行第一
摩訶迦葉(まかかしょう)頭陀(ずだ)第一。
須菩提(しゅぼだい)解空第一。空を説く大乗経典にしばしば登場する。
富楼那弥多羅尼子(ふるなみたらにし) 説法第一。
摩訶迦旃延(まかかせんねん)論議第一。
阿那律(あなりつ)天眼第一。
優波離(うぱり)持律第一。自戒第一・・・戒律をつくる。
羅睺羅(らごら)密行第一。
阿難(あなん))。多聞第一
「仏陀」とは悟りし者のこと。
6)まだまだある
臨済宗には、老荘思想が入っている。我が国には、仏教より前に論語が入ってきていた。
当然、儒学のフィルターを通じて仏教に接したことになる。
4世紀初頭からイエスのキリスト教が変えられて来た。フラウィウス・ウァレリウス・コンスタンティウス・ローマ皇帝はキリスト教を統治の道具とした。この頃から本来のキリスト教の教えが歪められている。
教皇シルベスティルが聖書の改ざんを行ったようだ。福音書の記述した部分の違いが判る。マタイとルカの違いは明らかになっている。マルコ・ルカ・ヨハネ・マタイはイエスの言葉を同じくして聴いているのに違うことはおかしい。カトリック辞典に改ざんされたことも
載っている。聖書原理主義者が牛耳っている。
世界の宗教は原理主義者によっておかしな方向に行っている。真実の前に素直になりなさい。
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