前集・192〜222

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2008−11−08 192章から201章
2008−12−13 202章から213章
2009−02−14 214章から222章・・・前集が終了


前集192項)

讃夫毀士、如寸雲蔽日、不久自明。媚子阿人、似隙風侵肌、不覚其損。


讃夫毀士は、寸雲の日を蔽うがごとく、久しからずしておのずから明らかなり。
媚子阿人は、隙風の肌を侵すに似て、その損を覚えず。

中傷したり悪口を言う連中は、ちぎれ雲が太陽を一時おおい隠すようなもので、やがては真実がひとりでに明らかになるものである。だが、こびへつらう手合いは、すきま風が膚を冷えさせ風邪をひくようなもので、いつとはなしにわが身を損なわせるものである。

  讃夫毀士(ザンプキシ)は放置してよい。媚子阿人(ビシアジン)は麻薬のように己の体を蝕む。

  媚子阿人の事を論語でもつぎのように云っている。
    ・・・
子曰、巧言令色、鮮矣仁 http://rongo.jp/kaisetsu/rongo.php?3,1
    ・・・
子日、郷原徳之賊也         http://rongo.jp/kaisetsu/rongo.php?457,1,徳の賊

前集193項)

山之高峻処無木、而谿谷廻環則草木叢生。
水之湍急処無魚、而渕潭停蓄則魚鼈聚集。

此高絶之行、褊急之衷、君子重有戒焉。

山の高峻なる処には木なし、而して谿谷廻環すれば、草木叢生す。
水の湍急なる処には魚なし、而して渕潭停蓄すれば、魚鼈聚集す。
この高絶の行、褊急の衷は、君子重く戒しむるあれ。

山が高く険しい場所には草木は生えないが、しかし谷川のめぐる低い所には、草木がむらがり生えている。水の流れの激しい場所には魚類は住みつかないが、しかし水のよどむ深みには、魚類が多く集まっている。これを見ても、孤高の行いや、度量の狭い性急な気持は、君子として深く戒めておくがよい。

  お高くとまっていてはダメ。重箱の隅をつっつくこともダメ。

前集194項)
建功立業者、多虚円之士。僨事失機者、必執拗之人。

功を建て業を立つるは、多くは虚円の士なり。事をやぶり機を失うは、必ず執拗の人なり。

大事業をなし遂げる人というものは、多くは虚心で円滑な人である。(これに反して)、事業に失敗し機会を失うような人は、必ずかた意地で執念深い人である。


  松下幸之助、稲盛和夫のような人を虚円の士というのだろう。
  執念深く、かた意地はる者は、いかんともしがたい。
の通らぬ頑固者につける薬はない。


前集195項
)
処世不宜与俗同、亦不宜与俗異。作事不宜令人厭、亦不宜令人喜。


世に処しては、よろしく俗と同じうすべからず、またよろしく俗と異なるべからず。
事をなすには、よろしく人をして厭わしむべからず、またよろしく人をして喜ばしむべからず。

処世の道としては、世俗の人と全く同じであってはよくないが、また、あまりかけ離れてしまってもよくない。事業をおこすには、人にいやな思いをさせるのはよくないが、また、人気どりの喜ばせるだけでもよくない。


  佐藤一斎の「重職心得箇条」、第七条に同じ記述がある。
    2006-08.htm
  <己の欲せざる所は、人に施すこと勿れ!>

(しゅう)(じん)
(えん)(ぷく)する(ところ)(こころ)(がく)べし。

()()(おし)(つけ)
(こと)あるべからず。()(さつ)()(げん)(みと)め、

(また)(この)
(ところ)(わたくし)するは(みな)(しょう)(りょう)(へい)なり。

  だがしかし、これでは半人前。「己立たんと欲して人を立て、己達せんと欲して人を達す」  
  つまり、「すべて人にせられんと思うことは、人にも亦その如くせよ!」が加わってやっと一人前。

 ※但し、危急存亡の時に当たっては、国民に犠牲的精神を発揮してもらわねば
    ならんこともある。犠牲を強いることもある。国難に際しては、指導者は、
     郷原(八方美人)であってはならない!

   任怨(怨みに任ずる覚悟)、分謗(謗りを引き受ける覚悟)が要る。
    (「三事忠告」の作者、張養浩の言葉)

前集196項
)
日既暮而猶烟霞絢爛。
歳将晩而更橙橘芳馨。故末路晩年、君子更宜精神百倍。

日すでに暮れてなお烟霞絢爛たり。歳まさに晩れんとしてさらに橙橘芳馨たり。
ゆえに末路晩年は、君子さらによろしく精神百倍すべし。

日がすでに暮れても、なお夕映えは美しく輝いているし、歳の暮れに当たっても、橙橘のたぐいは一段とよい香りを放っているではないか。そこで、晩年に際しては、君子たるもの、一段と精神を振い立たせて最後を飾るがよい。


 サムエル・ウルマンの「青春」を連想する。    
 
    青春とは人生の或る一時期をいうものではなく, 心のもち方を言うのである。
   そしてそれは薔薇色の頬, 紅の唇, そしてしなやかな 肢体を持つ事ではなく,
   それは力強い意志と,豊かな想像力,そして燃えるような 情熱をもつことをいうのである。
   青春とは人生の深い泉の新鮮さをいうのである。
   青春とは強烈なる個性的卓越性を意味する。
   それは臆病を退ける勇気と安易を振り捨てる冒険心を持つ事を意味する。
   時には,二十歳の青年よりも,むしろ六十歳の人にその青春は存する。
   人間ただ単に年を重ねることによって老いるものではなく
   我々は我々の理想を捨て去る時, 初めて老いるのである。
   人は信念と共に若く, 疑惑と共に老いる。
   人は自信と共に若く, 恐怖と共に老いる。
   希望ある限り若く,失望と共に老い朽ちる。


前集197項
)
鷹立如睡、虎行似病。正是他攫人噬人手段処。
故君子要聡明不露、才華不逞。
纔有肩鴻任鉅的力量。

鷹の立つこと睡るがごとし、虎の行くこと病むににたり。
まさにこれ他の人を攫み人を噬手段のところ。
ゆえに君子は、聡明露わさず、才華逞しからざるを要す。
わずかに肩鴻任鉅の力量あり。

たかの立っているようすは眠っているようで、とらの歩く姿は病み疲れているようである。しかし、これこそ人につかみかかり、かみつく手だてである。これを見ても、君子たるものは、おのれの賢明さを外に現れないようにし、おのれの才能をやたらに振回すことのないようにして、それで初めて大事を双肩に担って行く腕前があると言えよう。

  才能を表にあらわすと、ぶつかりあう。「能ある鷹は爪を隠す」のとおり。

  老子にも「坐鋭 解紛 和光 同塵」とある。 

前集198項)
倹美徳也。過則為慳吝、為鄙嗇、反傷雅道。譲懿行也。過則為足恭、為曲謹、多出機心。

倹は美徳なり。過ぐれば慳吝となり、鄙嗇となり、かえって雅道を傷る。
譲は懿行なり。過ぐれば足恭となり、曲謹となり、多くは機心に出ず。

  何事もホドホドに。極端は避ける。
 
前集199項)
毋憂払意。毋喜快心。毋恃久安。毋憚初難。

払意を憂うることなかれ。快心を喜ぶことなかれ。久安を恃むことなかれ。初難を憚ることなかれ。

  自分を正当化するために出来ない理由を探すのではなく、どうしたら出来るかを考えよう。

前集200項)
飲宴之楽多、不是個好人家。声華之習勝、不是個好人士。名位之念重、不是個好臣士。

飲宴の楽しみ多きは、これ個の好人家ならず。声華の習い勝つは、これ個の好人士ならず。
名位の念重きは、これ個の好臣士ならず。

  好ましくない家庭、好ましくない人物、好ましくない部下。

前集201項)
世人以心肯処為楽、却被楽心引在苦処。達士以心払処為楽、終為苦心換得楽来。

世人は心の肯うところをもって楽しみとなし、かえって楽心に引かれて苦処にあり。
達士は心の払るところをもって楽しみとなし、ついに苦心のために楽しみを換え得来たる。

  物事を悲観的に見ることは、危機管理の一端として必要である。
  プラス思考の落とし穴は、己の欠点に目をつぶり、臭いものに蓋をしてしまう。
  その結果、反省出来ない人間をつくり、いつか爆発する。

  自分でまいた種は自分で刈り取らなければならない。
  原因と結果の法則からは何人といえども逃れられない。

  崖から転落しそうな人間に対して、相手の心を一転させ、その場を回避するために
  言う言葉が「一転語」。しかし「二転語」、「三転語」はない。
  人は自助努力でやるしかない「七転び八起き」である。

  開運の極意は
19世紀スイスの哲学者アンリ・フレデリク・アシエルの箴言に次のようなものが
  あります。

    心が変われば態度が変わる。
    態度が変われば習慣が変わる。
    習慣が変われば人格が変わる。
    人格
が変われば人生(運命)が変わる」。

  これを前後を逆にして云うならば

    人生【運命】を変えたければ、人格を変えなさい。
    人格
を変えたければ習慣を変えなさい。
    習慣を変えたければ、態度を変えなさい。
    態度を変えたければ心【思いの他】を変えなさい! ・・・ となりましょうか。

  心(思い)の自由は万人に与えられている。

  心の自由とは  @自由意思 (信念の自由 思いの自由)
              A自由意志 (選択の自由)
  
   
  偉大な功績を残した人の伝記を読むと、人間の一生は平坦な上昇カーブではない。
  ある時点で大変化をして急上昇する時がある。

  それは、「人から何かをしてもらおうという気持」から「人に何かをしてあげよう」という気持ちに
  なった時である。運命に振り回されている人から、運命を開拓する人になったからである。

  新春合同例会で説明した「引きよせの法則」は、釈迦が説いた「三界唯心論」の
  アメリカ版である。

    ・・・すべての世界は自分の心に映ずる現象である。
    ・・・自分の心や思いが、すべての現実を作りだし、環境を引き寄せる。

前集202項)
居盈満者、如水之将溢未溢。切忌再加一滴。処危急者、如木之将折未折。切忌再加一搦。

盈満に居るは、水のまさに溢れんとしていまだ溢れざるがごとし。切にふたたび一滴を加うることを忌む。
危急に処るは、木のまさに折れんとしていまだ折れざるがごとし。切にふたたび一搦を加うることを忌む。

富貴の極におる者は、器の水があふれようとしてあふれずにいるようなものである。
それ以上、切に一滴でも加えること忌むのである。
さし迫った危急の場におる者は、木が折れようとして折れずにいるようなものである。
それ以上、もう一度ひと押さえでも加えることを忌むのである。

前集203項)
冷眼観人、冷耳聴語、冷情当感、冷心思理。

冷眼にて人を観、冷耳にて語を聴き、冷情にて感に当たり、冷心にて理を思う。

冷静な目で人物を観察し、冷静な耳で人の言葉を聞き、冷静な情で事物に触れて感じ、
冷静な心で道理を考える。

前集204項)
仁人心地寛舒。便福厚而慶長、事事成個寛舒気象。
鄙夫念頭迫促。便禄薄而沢短、事事得個迫促規模。

仁人は心地寛舒なり。すなわち福厚くして慶長く、事々、個の寛舒の気象を成す。
鄙夫は念頭迫促なり。すなわち禄薄くして沢短かく、事々、個の迫促の規模を得。

徳の完全な人は、心がのびのびしているので、幸せはあつく喜びは末長く、あらゆるものごとに、のんびりした気だてを表わすものである。(これに反して)、心の卑しい人は、万事にこせこせしているので、幸せもうすく長続きもせず、あらゆるものごとに、せかせかしたようすを示すものである。

前集205項)
聞悪不可就悪。恐為纔夫洩怒。聞善不可急親。恐引奸人進身。

悪を聞いては、すなわち悪むべからず。恐らくは纔夫の怒りを洩らすことをなさん。
善を聞いては、急に親しむべからず。恐らくは奸人の身を進むるを引かん。

人の悪事を聞いても、すぐ憎むというようなことをしてはならない。それは、ないことをあるように悪口ざんげんする者が、自分の怒りを晴らすためかも知れないから。また、人の善行を聞いても、急に親しむというようなことをしてはならない。それは悪がしこい者が、自分の立身出世のためかも知れないから。

前集206項)
性燥心粗者、一事無成。心和気平者、百福自集。

性燥に心粗なるは、一事も成ることなし。心和し気平らかなるは、百福おのずから集まる。

性質がせっかちで心の粗雑な者は、たとえ一つの物事でも成し遂げることがむずかしい。
(これに反し)心がなごやかで気持が平静な人には、多くの幸いが自然に集まってくる。

前集207項)
用人不宜刻。刻則思効者去。交友不宜濫。濫則貢諛者来。

人を用うるにはよろしく刻なるべからず。刻なれば効を思うもの去る。
友に交わるにはよろしく濫なるべからず。濫なれば諛を貢するもの来たる。

人を使うには、厳しすぎてはならない。厳しすぎると、せっかく、骨を折ろうと思う者までも去ってしまう。
友と交わるには、みだりに交わってはならない。だれとでも交わると、お上手を言う者までもやって来る。

前集208項)
風斜雨急処、要立得脚定。花濃柳艶処、要着得眼高。路危径険処、要回得頭早。

風斜めに雨急なるところは、脚を立て得て定めんことを要す。
花濃やかに柳艶やかなるところは、眼を着けえて高からんことを要す。
路危く径険しきところは、頭を回らしえて早からんことを要す。

風雨が激しく吹きつける場所では、足をしっかりと大地にすえて立たねばならぬ。
花や柳があでやかで美しい場所では、目を一段と高い所につけて見なければならない。
路がどれもこれも危険な場所では、早く思い直して引き返さなければならない。

前集209項)
節義之人、済以和衷、纔不啓忿争之路。功名之士、承以謙徳、方不開嫉妬之門。

節義の人、済うに和衷をもってせば、わずかに忿争の路を啓かず。
功名の士、承くるに謙徳をもってせば、まさに嫉妬の門を開かず。

節操の堅い人物は、(気象がはげしいので)、強調する心で補って行ってこそ、はじめて怒り争わないですむ。また、功名を重んずる人々は、(人のねたみを受けやすいので)、けんそんの徳を受け入れるようにして行ってこそ、はじめてねたまれないですむ。

前集210項)
士大夫、居官不可竿牘無節。要使人難見、以杜倖端。
居郷不可崕岸太高。要使人易見、以敦旧交。

士大夫、官に居ては竿牘も節なるべからず。人をして見難からしめて、もって倖端を杜がんことを要す。
郷に居ては崕岸はなはだ高かるべからず。人をして見易からしめ、もって旧交を敦うせんことを要す。

士大夫たるものは、官職にいるときは、手紙の類にも節度がなければならない。それは人に自分の心を見すかされないようにして、小人が僥倖をえるきっかけを作るのを防ぐ必要がある。(官職を退いて)、郷里にいるときは、きわ立って高く止まっていてはならない。それは人に自分の心を見通しやすいようにして、昔からの古い交わりを一層あつくする必要がある。

前集211項)
大人不可不畏。畏大人則無放逸之心。小民亦不可不畏。畏小民則無豪横之名。

大人は畏れざるべからず。大人を畏るれば、放逸の心なし。
小民もまた畏れざるべからず。小民を畏るれば、豪横の名なし。

高位高徳の目上の人に対しては、恐れ敬わなければならぬ。そうすれば、その人の感化を受けてじだらくな心を起こさなくなる。微賤の目下の者に対しても、恐れ敬わなければならぬ。そうすれば、自然に親しみが生じて横暴であるという悪評も立たなくなる。

前集212項)
事稍払逆、便思不如我的人。則怨尤自消。心稍怠荒、便思勝似我的人、則精神自奮。

事やや払逆するとき、すなわちわれにしかざるの人を思わば、怨尤おのずから消えん。
心やや怠荒するとき、すなわちわれより勝れるの人を思わば、精神おのずから奮わん。

ものごとが少し思うようにならないときには、自分より以下の人のことを思えば、不平不満の心は自然に消えるであろう。なまけ怠る心が少し起こってきたときには、自分よりすぐれた人のことを思えば、精神は自然に奮い立って来るであろう。

前集213項)
不可乗喜而軽諾。不可因酔而生嗔。不可乗快而多事。不可因倦而鮮終。

喜びに乗じて諾を軽しくすべからず。酔に因って嗔を生ずべからず。
快に乗じて事を多くすべからず。倦に因って終りを鮮なくすべからず。

うれしまぎれに、軽はずみな承諾を与えてはならない。酒の酔いにまかせて、腹を立て怒ってはならない。調子に乗って、余計なことまで手を広げすぎてはならない。飽きていやになったからとて、後始末をいいかげんにしてはならない。

前集214項)
善読書者、要読到手舞足蹈処。方不落筌蹄。善観物者、要観到心融神洽時。方不泥迹象。

よく書を読むには、手舞い足蹈むところに読み到らんことを要す。まさに筌蹄に落ちず。
よく物を観るには、心融け神洽らぐの時に観到らんことを要す。まさに迹象に泥まず。

よく書物を読む者は、喜ぶのあまり小踊りするようになるまで読んで、そうしてはじめて文字の末に落ちずに、真意をつかむことができる。また、よく事物を見る者は、心がそれに融合し一体となるようになるまで観察して、そうしてはじめて事物の形に捕らわれずに、真相を悟ることができる。

  物ごとを根本的に把握するということは、言葉では云えるが、いざ実行となるとたいへん難しい。
  さらに、他人の事はは分かるが、自分のことに関しては、まったく観えないことが多い。
  それは、人間は自分の虚像を作りたがるからである。
  あるがままの自分と向き合い、受け入れることが必要である。

  長年読んでいて未だに意味不明の書物は「無門関」である。
  「老子」も言葉の意味だけを追うと分からなくなる。
  この二冊の本は、理性能よりは、感性脳・悟性脳を用いないと理解できない。
    

前集215項)

天賢一人以誨衆人之愚。而世反逞所長以形人之短。
天富一人以済衆人之困。而世反挾所有以凌人之貧。真天之戮民哉。

天、一人を賢にして、もって衆人の愚を誨う。
而して世、かえって長ずるところを逞しうし、もって人の短を形わす。
天、一人を富ましめ、もって衆人の因を済う。
而して世、かえって有するところを挟んで、もって人の貧を凌ぐ。真に天の戮民なるかな。

天は一人を選んで知恵を授けて賢者とし、多くの愚者を教えさとさせようとしたのに、世に出ると天の意図とは反対に、その知恵をかざして人の短所のあら探しをする。また、天は一人を選んで財貨を授けて富者とし、多くの貧者を救い助けさせようとしたのに、世に出ると天の意図とは反対に、その財貨を頼みとして人の貧困をあなどり苦しめている。こういう連中こそ、ほんとうに天の罰を受けるべき罪人である。

  新興宗教の教祖への戒めの言葉のように聞こえる。
  宗教がある程度の規模になってくると、宗教同士で教義をめぐって争いがおこる。
  すると各宗教は信者の獲得競争を始める。
  必然的に組織維持の費用をどのようにまかなうのかが、問題となる。
  「献金は天国へのパスポート」という表現で、金を集める。
     中世のキリスト教では、献金と引き換えに免罪符を発行した。
     これに反対したのが、マルチン・ルターである。
  さらに集金のため、教祖の写真やペンダントなどを販売する。
  宗教集団は、金のためには何でも行うバカ集団になり下がる。
  脱会者が続出するので、リンチが行われ、生き地獄となる。
    
前集216項)
至人何思何慮。愚人不識不知。可与論学、亦可与建功。
唯中才的人多一番思慮知識、便多一番億度猜疑、事々難与下手。

至人は何をか思い何をか慮る。愚人は不識不知なり。ともに学を論ずべく、またともに功を建つべし。
ただ中才の人は、一番の思慮知識多ければ、すなわち一番の億度猜疑多く、事々ともに手を下しがたし。

悟った人は、胸中に何の思い患うこともないし、愚かな人は、何も知らず何を考えることもない。この人達とは、ともに学問を論じ、また、協力して仕事をすることができる。ただ中途半端な知識人だけは、一通りの思慮知識がよけいにあり、それだけにあて推量し疑い深いものが多い。こういう人とは、何事につけても共同して仕事をすることは難しい。

  高学歴、高学問の人が陥りやすい三つの罠がある。
   @自らを高しとして、他人を見下す
   A自分に不都合なことがあると、いろいろな理屈をつけて、自己正当化を行う。
   B簡単なことを、難しく言う。


前集217項)
口乃心之門。守口不密洩尽真機。意乃心之足。防意不厳走尽邪蹊。

口はすなわち心の門なり。口を守ること密ならざれば、真機を洩らし尽くす。
意はすなわち心の足なり。意を防ぐこと厳ならざれば、邪蹊を走り尽くす。

口こそ心の門である。この口をしっかりと守り言葉を慎まないと、つい心中の機密を漏らしてしまう。
また、意こそ心の足である。この意をきびしく取り締まらないと、すぐ横道にそれてしまう。

  以前「心・口・意」の話をしたが、「口は心の門」「意は心の足」とはうまい表現と思う。
  
  「口是禍之門  舌是斬身刀」   「心猿不定 意馬四駆」


前集218項)
責人者、原無過於有過之中、則情平。責己者、求有過於無過之内、則徳進。

人を責むるには、無過を有過のうちに原ぬれば、すなわち情平らかなり。
己れを責むるには、有過を無過のうちに求むれば、すなわち徳進む。

人の過ち責めるさいは、
人の過ちを責める際は、その人に部分的な過ちがあったとしても、その他の過らない部分を認めれば腹も立たない。自分の過ちを責める際は、知らずに犯した過ちはないだろうかと反省すればよい。

  この部分の通釈は意味不明なので、変更した。

前集219項)
子弟者大人之胚胎。秀才者士夫之胚胎。
此時若火力不到、陶鋳不純、他日渉世立朝、終難成個令器。

子弟は大人の胚胎なり。秀才は士夫の胚胎なり。
この時もし火力到らず、陶鋳純ならざれば、他日世を渉り朝に立つとき、ついに個の令器と成りがたし。

青少年はやがては大人となる卵であり、秀才はやがては指導者となる卵である。この卵の段階において、十分に焼きを入れ、陶冶するに専一でないと、将来、世間に出て官位についたとき、りっぱな人材というものにはとてもなりにくい。

  
子罕第九 231の「後生畏るべし」を参考に。
  http://rongo.jp/kaisetsu/rongo.php?231,1

  中国の科挙のしくみをおさらいすると。
  


前集220項)
君子処患難而不憂、当宴遊而タ慮、遇権豪而不懼、対惸独而驚心。

君子は患難に処して憂えず、宴遊に当たりてタ慮し、権豪に遇うて懼れず、けい独に対して心を驚かす。


君子というものは、苦難に当たってもくよくよと心配はしないが、宴会などの楽しみの場では、はめをはずさないようにと恐れ慎む。また、権勢の強い者に会ってもおじ恐れるものではないが、困窮して身寄りのない独り者に対しては、その心を痛めるものである。

  最近「毅然」とした男が少なくなったのではないか。女性は「毅然とした男」に魅力を感ずる。

前集221項)
桃李雖艶、何如松蒼栢翠之堅貞。梨杏雖甘、何如橙黄橘緑之馨冽。
信乎濃夭不及淡久、早秀不如晩成也。

桃李は艶なりといえども、なんぞ松蒼栢翠の堅貞なるにしかん。
梨杏は甘しといえども、なんぞ橙黄橘緑の馨冽なるにしかん。
信なるかな、濃夭は淡久に及ばず、早秀は晩成にしかざるなり。

桃や李の花は、はなやかで美しいが、松や柏が四季を通じて青々とした緑を変えないのには及ばない。また、梨や杏の実は、甘くておいしいが、黄色いだいだいや緑のみかんの、香気の芳しさには及ばない。してみると、まことに、はなやかではかないものは、あっさりして長久なものには及ばないし、早く熟するものは、遅く実るものには及ばないものだ。

  分かりやすく云えば「大器晩成」である。
  ただ大器晩成は老子の41章に出てくる言葉であるが、本来の意味は異なっている。
    ⇒「もっとも大いなる完成品は、一見未完成に見える」


    http://kanbun.info/shibu02/roushi41.html
    http://www.asahi-net.or.jp/~qh4s-kbym/Tao5-1.html

前集222項)
風恬浪静中、見人生之真境。味淡声希処、識心体之本然。

風恬らかに浪静かなるうち、人生の真境を見る。味淡く声希なるところ、心体の本然を識る。

(波風は人生につきものではあるが)、時には穏やかに静まるもので、その時にこそ、人生の真実のすがたが見える。また、(美味妙声は人心を誘惑するものではあるが)、どこかで淡泊な味を味わい、静かな声なき声を聞くと、そこでこそ、人心の本来のすがたがわかる。

  我々は刺激の中に身を投じがちであるが、平平凡凡とした毎日の生活の中にこそ
  本ものの人生がある。