子張第十九 506

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〔原文〕
陳子禽謂子貢日、子爲恭也。仲尼豈賢於子乎。子貢日、君子一言以爲知、
一言以爲不知。言不可不愼也。夫子之不可及也、猶天之不可階而升也。
夫子之得邦家者、所謂立之斯立、道之斯行、綏之斯來、動之斯和。
其生也榮、其死也哀。如之何、其可及也。

〔読み下し〕
陳子禽(ちんしきん)()(こう)()いて()わく、()(きょう)()すなり。(ちゅう)()(あに)()より(まさ)らんや。()(こう)()わく君子(くんし)一言(いちげん)(もっ)()()し、一言(いちげん)(もっ)不知(ふち)()す。(げん)(つつし)まざるべからざるなり。夫子(ふうし)(およ)ぶべからざるや、(なお)(てん)(きざはし)して(のぼ)るべからざるがごときなり。夫子(ふうし)にして邦家(ほうか)()るならば、所謂(いわゆる)(これ)()つれば(ここ)()ち、(これ)(みち)びけば(ここ)(おこ)なわれ、(これ)(やす)んずれば(ここ)(きた)り、(これ)(うご)かせば(ここ)(やわ)らぐ。()()くるや(さか)え、()()するや(かな)しまる。(これ)如何(いかん)()(およ)ぶべけんや。

〔新論語 通釈〕
陳子禽が子貢に、「あなたは謙遜し過ぎではないでしょうか?仲尼先生があなたよりそれ程優っていたとは思われませんが!?」と云った。

子貢は、「君子はたった一言で知者とも見られ、愚者とも見られてしまうものだ。口を慎みなさい。先生が我々の及びもつかない程偉大な存在であったことは、喩えてみれば、天に梯子をかけて昇れる人間が誰もいないようなものだ。もし先生が一国一城の主となられたなら、所謂諺にあるように、『立案すればすぐさま樹立され、導けばすぐさま励行され、安寧を願えばすぐさま招来され、活動を促せばすぐさま合い和する。その人が生きておれば国は繁栄し、亡くなれば父母を喪ったように哀しまれる』とあるが、これは将に大先生のことを述べたものと云って良かろう。これ程の大先生に、どうして我々如きが及ぼうか!」と云った。

〔解説〕
子貢が引用した当時の諺は何とも訳しづらく、「之」が一体何を指すのかはっきりしません。一般には「人民」を指す代名詞と解して通釈しますが、之を人民とするのはちょっと不自然です。そこで私は、「之」を代名詞ではなく、フレーズの語調を強める為の間投詞(之いかに!之すなわち!のように)と解して通釈してみました。

この方が、孔子を普通の人とは違う聖なる存在と捉えていた優れ者の子貢が、わざわざ引用するに相応しいのではないかと思います。孔子を知らない第三者ならいざ知らず、陳子禽も立派な孔子門弟の一人ですから、子貢が引用した諺の真意を理解したのではないでしょうか。

何度も云うように、孔子の死に水を取ったのは子貢です。孔子が自らの死期を覚った時、子貢は旅に出ておりました。孔子は来る日も来る日も杖をついて門前に立ち、子貢の帰りを今か今かと待ちわびた。漸く子貢が帰ると、孔子は子貢の手を取って、「遅かったではないか」と云って泣いたという。それから七日後、孔子は門人達に看取られて息を引きとりますが、孔子も子貢に死に水を取ってもらいたかったのでしょう。

公西華が葬儀委員長を務め、しめやかに葬儀が執り行われた後、子貢は孔子の廟の側に庵を結んで、六年間喪に服し廟を守りました。師への敬慕の念やまざるものがあったのでしょう。公孫朝といい、叔孫武叔といい、陳子禽といい、子貢は彼らの目には孔子に優るとも劣らない大人物に映ったのでしょうね。

前に述べたかも知れませんが、子貢は確かにログ690以上を打つ菩薩界最上段階(梵天)の意識を持つ大人物で、十哲の中では最も意識レベルの高い人でした。

〔子供論語 意訳〕
後輩(こうはい)陳子禽(ちんしきん)()(こう)に、「先輩(せんぱい)はちょっと遠慮(えんりょ)しすぎです。あなたは孔子(こうし)(さま)(すこ)()けをとらないと(おも)いますが!」と()った。これ(たい)して()(こう)は、「(きみ)は、たった一言(ひとこと)利口(りこう)にも()られバカにも()られることを()らんのか!孔子(こうし)(さま)我々(われわれ)(およ)びもつかない大先生(だいせんせい)であったことは、たとえてみれば、(てん)にはしごをかけて(のぼ)れる人間(にんげん)(だれ)もいないようなものだ。もし孔子(こうし)(さま)(いっ)国一(こくいち)(じょう)(あるじ)となられたら、(きみ)()っている(むかし)からの(ことわざ)にあるように、『(ねが)えば(かな)い、(おも)えば()り、()えば(したが)い、()せば()す。(せい)ある(もの)はみな(さか)え、()ねばみなに(かな)しまれる』というユートピアが実現(じつげん)されるだろう。これほどの大先生(だいせんせい)に、どうして我々(われわれ)のような凡人(ぼんじん)(かた)(なら)べることができようか!」と()った。

〔親御さんへ〕
「見立て違い」は陳子禽だけのことではなく、我々凡人にはよくあることです。そうだねえ‥‥、卑近な例で云えば、「あなたなしでは生きられない!」などと大騒ぎして一緒になってはみたものの、「こんな筈じゃなかった!」という苦い経験をしたことのある人は、結構いるのではないでしょうか?結婚後ずーっと「こんな筈じゃ‥‥」の連続の人もいるかも知れない。これも見立て違いってやつだね。

そうかと思えば、ロクでもないことばかりやらかして女房に逃げられた男が、これ又だらしがなくて亭主に追い出された女と再婚して、「今度生まれ変わっても又一緒になろうね!」などと気味の悪いことを云って結構うまくやっているんだから、分からんね、男女の間は。「蓼食う虫も好き好き」だね、本当に。

思いの自由(自由意思)と選択の自由(自由意志)は万人に与えられているのだから、見立て違いは誰の責任でもない、本人の自己責任、相手のせいにするのは間違いです。

「蓼食う虫も好き好き」で思い出しましたが、死んだ親父から若い頃聞かされた言葉に、「やはり野に置け蓮華草」というものがある。若い頃はバカばっかりやっていましたから、親父は諭すつもりで云ってくれたのでしょうが、その当時は意味がよく分からなかった。昔は畦道に蓮華草を植えて、緑肥や家畜の餌にしたそうですが、私が物心ついた頃には土地改良が為されていて、蓮華草がどんなものか知りませんでした。

「蓮華草は殺風景な田んぼの中にあってこそ映えるものであって、家の中に置いて愛でるようなものではない。無闇にむしり取るものじゃない!ちょっかい出すものじゃない!見立てを誤るなよ!!」ということだったのでしょうね、きっと。「いい加減にしろ!このバカ!!」でも良さそうなものですが、「やはり野に置け蓮華草」と諭してくれた親父の言葉には味わいがありますね、一生忘れませんもの。

あの孔子でさえ結構見立て違いがあったんですよ!妻の幵官氏には随分手を焼いたようで、「女子と小人とは養い難しと為す!」と云っておりますし、宰我と澹台滅明について、「言葉だけで人を見立てて宰予で失敗し、容貌だけで人を見立てて子羽(滅明の字)で失敗した」と述懐しています。

しかし、「こんな筈じゃなかった!」などと、泣き言は一切云っていない。「こんな筈じゃなかった!」などと今更泣き言を云っても始まらないんですよ、「こんな筈だ!」と思って、見立て違いをしたのは他でもない、あなた自身なんだから。

ましてや、「こんな筈じゃなかった!」などと云って相手を責めるもんじゃない、責任を転嫁するんじゃない!「已んぬるかな!?宜ならずや!?(しょうがねえな!?まあいいか!?)」と思うしかないんだね。

カルマを清算する為に、わざわざ相手が憎まれ役を演じてくれている場合もあるのだから(勿論当事者にその自覚はありませんが)。それでも嫌なら潔く別れなさい。「もう結婚はこりごり!男はこりごり!」などと一丁前のことを云う女性がいるけれども、「何度結婚してみたんだ?」と聞くと、「一回です」と云い、「何人の男を知っているんだ?」と聞くと、「一人です」と云う。

「一回失敗したからと云って、結婚そのものがダメってことはないだろう?一人失敗したからと云って、男そのものがダメってことはないだろう?三回してから云ってみろ!三人付き合ってから云ってみろ!釈迦も孔子もバツイチだ!!」と云いますと、憑き物が落ちたようにパッと明るくなって「そうですよね!!」とニコニコしている。

「人は『教え有りて類なし!』、男は『女有りて類なし!(男は女次第でどうにでもなるものであって、生まれつき優等・劣等の種類がある訳ではない)』」と申しますと、やっと本音が出て、「どうしたらいい女(アゲマン)になれるでしょうか???」と真剣な眼差しで聞いてくるものですから、「昼は聖母マリアのように、夜はマグダラのマリアように演じてごらん。

昼もマグダラのマリアのようであったら男は腑抜けになるし、夜も聖母マリアのようであったら男は奮い立たない。男をマスラオ(丈夫)にするかヤサオトコ(優男)にするかは女次第!この切り替えを間違うなよ!理屈を捏ね回して偉そうな顔をしているけれど、男は基本的には単純で淋しがり屋なんだよ。この見立てを間違うな!!」と教えたら、一所懸命メモを取っておりましたが、あれから7年、果たせるかな今は某漬物屋の社長夫人に納まってウキウキ・ワクワクの毎日を送っているとか。

そこの社長は前から知っているヤサオトコで、何とも頼りにならない人物だったのですが、俄然やる気を出してすっかりマスラオに変身してしまった。再婚してから、売上げも毎年二桁増を続けている。この前一緒に飲んで何を云うかと思ったら、「畳と女房は新しいほどいいね!?」と来た。変れば変るもんですなあ!!

男性が根元的に女性に求めるものは、義理や道理ではなく、無条件の愛というか、バカをあるがままに受け入れてくれる母性・受容の愛なんだよね。倫理や道徳ではないんです。これの分かっていない女(サゲマン)が増えているように思います。

ついでに云っておくと、男女の惚れ合いは、元々義理も道理も倫理も道徳も「へったくれ」もないんです。波長が合うか合わないか?だけなんです。へったくれで自分自身を縛り付けている人・先入観念や固定観念で魂をがんじがらめにしている人、多いよ!何でもっと素直に大らかになれなのかね?真っ赤に錆びた鎧を着て、カビの生えたような倫理観を振り回してはいかん!昨年の夏、山形合同例会で語ったことを忘れてはならない。

魂のルールなんてそんなにないんです。あるのは、原因・結果の法則と、波長同通の法則と、自己責任の原則、つまり、蒔かぬ種は生えぬ・類は友を呼ぶ・蒔いた種は刈り取らねばならぬ、ということ位のものなんだね、神様がつくったルールは。石田純一を真似ろとは云わんけど、恋愛などやりたいだけやれ!結婚など好きなだけしろ!自分で責任を取ればいいだけの話し。へったくれ云うんじゃない!!

アレ〜?子張第十九の締め括りが何でこんな話しになってしまったのかなあ‥‥。まあいいか!?こういう人が当会にも何人かいるようだから、ちょっとした福音になるかも知れない。手遅れかな?薹が立ってしまったら‥‥。

否、薹が立とうが下っ腹が出ようが腰が曲がろうが、やらないで後悔するよりも、やって後悔することの方がまだマシです。その分魂は経験を積んだことになるのだから。だからナベちゃんも云っているではないですか、「交尾が先!後悔は後!!」と。 
 

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