子張第十九 501

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〔原文〕
子貢日、紂之不善、不如是之甚也。是以君子惡居下流。天下之惡皆歸焉。

〔読み下し〕
()(こう)()わく、(ちゅう)不善(ふぜん)や、()くの(ごと)()(はなはだ)しからざるなり。(ここ)(もっ)君子(くんし)下流(かりゅう)()ることを(にく)む。天下(てんか)悪皆焉(あくみなここ)()す。

〔新論語 通釈〕
子貢云う、「殷の紂王の暴政は、伝えられているほどひどいものではなかったようだ。ただ、日頃の行いが悪かった為、汚水が下流に集まるように、悪評が紂に集中してしまったのだろう。

君子たるものは、世間の評判というものは元々こういう特性があることをよく知っているから、怪しげな所に身を置くのを嫌うのである。一度悪評が立ってしまうと、すべてそのせいにされてしまうからなあ!」と。

〔解説〕
「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という俗諺(ぞくげん)があるけれども、確かに一旦悪いイメージが刷り込まれてしまうと、一事が万事嫌いになってしまう、憎らしく見えてしまうという傾向はありますね。

欠点は誰にでもあるけれども、全部が全部悪いという人などいる筈がないのだから、良い点に光りを当ててトータルバランスでその人を推し量ったら好いのですが、一度感情が嫌悪にスイッチオンされると、悪い方へ悪い方へとスパイラル現象を起こして、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い!」となって冷静かつ客観的な視点を失ってしまう。殷の紂王は今から3200年も前の人物ですが、この頃から既に「坊主憎けりゃ」式の世論傾向があったんですね?変っていませんね、今も。

結語の「天下の悪皆焉(ここ)に帰す」なる傾向も変っていません。真実がどうであれ、一旦悪のイメージが刷り込まれてしまうと、すべてがダメのレッテルを貼られてしまう。昔は口コミで緩やかに伝わって行ったのでしょうが、今は情報伝達技術が進歩しておりますから、瞬時に地球の裏側まで伝わってしまう、真情報も偽情報も。

技術が格段に進歩したにもかかわらず、その技術を利用する側の人間の心理構造が3200年前と同じだとすれば、この空隙を狙って、情報操作による大衆心理の誘導が可能になる。近い所では、「9.11同時多発テロ」や「地球温暖化二酸化炭素悪玉論」でしょうかね? 世界中がこのペテンにかけられた。未だにペテンだと気がつかない人もいる。

私が皆さんにキネシオロジーテストを覚えなさい!一人オーリングのやり方を覚えなさい!というのは、実はマスコミから流される情報の真偽を見分けなさい、ペテンかどうかを見抜きなさい!ということなんですね。

自分の専門外のことになると、我々は盲同然ですから、著名な研究機関や専門家・評論家の権威付けを為されると、疑うことなく信じ込んでしまいます。結果、「地獄への道はいつも善意で舗装されてる」つまり、純粋な善意から、ペテンを増幅拡大する手先に利用されているにもかかわらず、それに気付かない。

皆さんは、知らずにやったんだから仕方ないじゃないか!と気楽に考えているかも知れないけれど、実はこれ罪深いことなんですよ!釈迦も云っているではないですか、「知らずに犯す罪は、知って犯す罪に百倍す!」と、「無明ほど罪深いことはないのだ!!」と。だから、「ちょっと不自然だな?」・「何か不条理だな?」と思ったら、すぐキネシオロジーテストをやってみなさい!真偽はたちどころに分かるから!!というんですね、知らずに罪を犯すことのないように。

最近物凄く多いです、正義に偽装したペテンが、天使の仮面を被った悪魔が。早く気付きなさい!「天下の悪みなここに帰す」のレッテルを貼られる前に!!

〔子供論語 意訳〕
()(こう)が、「(いん)時代(じだい)(ちゅう)という王様(おうさま)は、人民(じんみん)(くる)しめた悪魔(あくま)のように()われているが、歴史(れきし)調(しら)べてみると、そんなに(わる)(ひと)でもなかったようだ。ただ、日頃(ひごろ)(こころ)がけが(わる)く、わがままのし放題(ほうだい)だったので、(わる)評判(ひょうばん)全部紂(ぜんぶちゅう)一人(ひとり)集中(しゅうちゅう)してしまったのだろう。だから君達(きみたち)は、評判(ひょうばん)(わる)(ひと)には(ちか)づかないようにしなさい。(きみ)悪気(わるぎ)はなくても(わる)ガキの仲間(なかま)にされてしまうからね」と()った。

〔親御さんへ〕
子貢は辛辣な人物批評をすることで知られた人ですが、世間の評判や伝聞を鵜呑みにすることはなかったようで、ちゃんとした裏づけを持って批評するものですから、それだけ言葉も辛辣になってしまったのではないでしょうか?こういう子貢を見て孔子は、「何様のつもりになっているんだ?私は自分のことで精一杯で、とても人様のことをとやかく批評している暇はないよ!」と皮肉っている。
373章

本章は、孔子の死後子貢が一門を構え弟子に語った言葉を記録したものでしょう。本章以降506章までの六本、子貢の言葉が集録されておりますが、子貢とはどういう人だったのか?又孔子をどのように捉えていたのか?が窺える章立てになっています。

以前、孔子の最大の理解者は子貢だったのではないか?と述べたことがありますが、恐らく編者は子貢の目を通して孔子の実像を浮き彫りにしようとしたのではないか?どうもそんな気がします。
 

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