子張第十九 486

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〔原文〕
子夏日、日知其所亡、月無忘其所能。可謂好學也已矣。

〔読み下し〕
()()()わく、()()()(ところ)()り、(つき)()()くする(ところ)(わす)るること()し。(がく)(この)むと()うべきのみ。

〔新論語 通釈〕
子夏云う、「日に月に、未知であったことを知るように努め、知り得たことを忘れないようにする。こうであってこそ真に学問好きと云うことができよう」と。

〔解説〕
これなどは、将に文学(学問)の人、子夏ならではの言葉ですね。以前孔子の最大の理解者は子貢だったのではないか!?と語ったことがありますが、孔子の学問スタイルをそのまま受け継いだのは、子夏だったのではないかと思います。

孔子の言葉と子夏の言葉を繋げて読んでも、全く違和感がないのです。喩えば、学而第一014章と本章を繋げてみると、「君子は食飽くを求むることなく、居安きを求むることなし。事に敏にして言に慎み、有道に就きて正す。日に其の亡き所を知り、月に其の能くする所を忘るることなし。学を好むと謂うべきのみ」。

いかがですか?繋げて読んでも一人の人物が語ったとしか思われないほどに、全く違和感がないでしょう!? 子夏は孔子から「お前は大学者(君子の儒)となれ!三文学者(小人の儒)となるなかれ!!」と励まされて発奮したのでしょう、十哲の一人に数えられる程の大学者になった。本章は云ってみれば「学生の心得」とでも云うべきもので、次章では愈々文学の人、子夏ならではの「学問の心得」を披露してくれております。

〔子供論語 意訳〕
()()、「(きょう)()(まな)んだことは(きょ)日中(うじゅう)にノートに()()す。週末(しゅうまつ)になったら、今週(こんしゅう)(まな)んだことで(わす)れていることがないかをチェックする。(げつ)(まつ)になったら、もう(いち)()今月(こんげつ)(まな)んだことで(わす)れていることはないかをチェックする。毎日(まいにち)毎週(まいしゅう)毎月(まいつき)これをくり(かえ)していると、自然(しぜん)学力(がくりょく)がついて勉強(べんきょう)(おも)(しろ)くなって()る」と。

〔親御さんへ〕
学問は積み重ねですから、子夏のこの学習法は非常に有効です。特にノートに書き出すというのは大変効果があります。聴く脳と書く脳は違う部分をつかいますから、聴いたことを書くのは脳の中でキャッチボールをやるようなもので、より記憶が鮮明になる訳ですね。

前に、ある学習塾で教え方が抜群にうまいと評判の先生の講演を聴いたことがありますが、勉強のできない子は、例外なくノートの取り方が下手なのだそうで、まずはノートの取り方を徹底的に教えると云う。きちんとノートが取れるようになると自然に勉強もできるようになる、ということでした。

これにはなるほど!と頷かされました、自分の高校時代のことを振り返って。そう云えば、東大・京大・一橋大・お茶 の水じょし大に行った連中は、皆きっちりとノートを取っていたなあ!?と。それに比べて、自分は、ノート代と云ってもらった金は全部ラーメン代かコーラ代に化けていたもんな。

大体ノートなんか一冊しか持っていませんでしたよ、何を書いて良いか分からないから。教科書は全部学校の机の中に置きっ放しだから、カバンの中身はいつも弁当だけのペッタンコ、いやはや恐ろしい時代でしたなあ‥‥。一所懸命ノートを取るようになったのは、三十五過ぎてからです。やれば何とかできるものなんですね、年食ってからでも。「論語に学ぶ会」を始めてから、草案を書き綴ったノートは何冊になりますかねえ?

最初の論語通釈・旧い論語解説・孫子の兵法講義・孟子・韓非子・貞観政要・老子・菜根譚・十八史略・そして今の「新論語」・「子供論語」‥‥、数えてみたことはないけれど、合同例会での特別講義の分も入れたら、二百冊くらいになるのかな? 何がどこにあるか、書斎がガチャガチャなので訳が分かりませんが、やろうと思えばできるものなんですね、ノートを取ることは。こういう習慣は子供のうちから身につけさせておいたらいいですね。
 

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