子張第十九 485

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〔原文〕
子夏日、雖小道、必有可觀者焉。致遠恐泥。是以君子不爲也。

〔読み下し〕
()()()わく小道(しょうどう)(いえど)も、(かなら)()るべき(もの)()り。(とお)きを(いた)さんには(なず)まんことを(おそ)る。(ここ)(もっ)(くん)()()さざるなり。

〔新論語 通釈〕
子夏云う、「どんな小さな芸事でも、極めれば確かに一見の値打ちがある。だが、これに心を奪われてしまうと遠大な志を見失ってしまいかねない。だから君達にはお勧めできないのだ」と。

〔解説〕
これは子夏が自らの弟子達に向かって云ったものと思われますが、子張に面会した弟子が他の門人に「過日子張先生に交友のあり方を問うたら、選り好みせずどんな人とでも広く交わりなさい!というものであった。うちの先生とは大分違うが、子張先生の言うことにも一理ある」とかなんとか喋ったのではないでしょうか?

これを耳にした子夏は、未熟な弟子達が本筋を見失ってオカシナことに興味を持たぬよう、別の喩えを引いて釘を刺したのではないでしょうかねえ?子張の云ったことは決して間違っている訳ではありませんから、配慮が足りないだけで。

「人を見て法を説け」と云うけれど、ここが子張と子夏の指導者としての格の違いでしょうか?子張は「私が教わったこととは違う!」と自己の主張を前面に押し出すのに対し、子夏は「子張の意見は片手落ちだ!」と云わず、芸事の喩えを引いて釘を刺している。本人同士面と向かってなら、「君の意見は違うんじゃないか!?」と議論しあって良いけれど、相手は第三者の弟子ですからね。

前章を蒸し返すようで悪いけれど、子夏は子張より4才年上の兄弟子に当る訳だから、「それは子夏先生のおっしゃる通りだ。世の中には刺激的な誘惑が多いから、オカシナことにはまって弟子の本分を忘れるなよ!そこを充分理解した上で、幅広く交流の機会を持ったら良いだろう!!」くらいのことは云って欲しかったね。

〔子供論語 意訳〕
()()が「どんなエンターテイメント(余興(よきょう))でも、(かなら)()()()るようなものがある。だが君達(きみたち)は、これに(こころ)(うば)われて学生(がくせい)本分(ほんぶん)()(うしな)ってはならない!」と()った。

〔親御さんへ〕
変った特技の持ち主はどこにもいるものですが、最近びっくりしたのはエアーギターなるもの。友人の息子の結婚披露宴の余興で、若者が髪を振り乱してやっていたので、「本物のギターでやったらいいじゃないか!?」と云ったら、「本物のギターは弾けないから、振り付けのパフォーマンスでやっている」と云う。

「練習したんだろう?」と聞くと、「ええ、一ヶ月くらいやりました」と答えるので、「一ヶ月本気でギターを練習したら、二〜三曲弾けるようになるぞ!楽譜を見て弾けるようになったら楽しいぞ!!」と云いましたら居なくなりました。うるせえ爺さん!と思われたのでしょうね。

冴えない変わり者がそこいら辺でコソコソやっているのかと思いきや、世界コンテスト迄あるそうじゃないですか。そのうち、オペラ・トゥーランドットのアリア「ネッサンドルマ(誰も寝てはならぬ)」を、パバロッティーバージョン、カレーラスバージョン、ドミンゴバージョン、ポールポッツバージョンに分けた「口パクコンテスト」が登場するんじゃないかねえ? そしたら私も挑戦してみようかな?パバロッティーバージョンで!!何だコリャ〜??ミイラ取りがミイラになってしまいそうだねえ。

エアーギターコンテストも、口パクコンテストも、一時の珍しさで長続きするものではないと思うけれども、我々凡人は目先の面白さに心を奪われてしまう生きものだからなあ!?ジェロの演歌だって、黒人が器用に小節を回して歌うから一躍注目されるようになった。日本人だったらああは行かなかったでしょう、当たり前過ぎて。セロのマジックも凄いねえ!あれ、何人も同じようなマジックをやるようになったら、ミスターマリックのように注目されなくなってしまうかも知れない。

それから考えると、綾小路きみまろはしぶといね!アレ、死ぬ迄ネタは尽きないよ、自分の女房のことを喋っているんだもの、「昔はモンロー、今はモーロー」・「昔はオードリーヘップバーン、今はピップエレキバン」って。結構見ているね、俺も、下らん下らんと云いながら。

ああ、あれはダメだね、吉本興業のバカタレントは。日本のお笑い芸能を限りなく下品なものに堕落させてしまった。「小道と雖も必ず観るべきものあり」の筈が、「観るべきもの何も無し」にしてしまった。芸能評論家で誰か云う奴はおらんねかね、「もういい加減にしろ!」と。

昔は大阪弁がとても好きでした、言葉に何とも言えない人懐っこい抑揚があって。しかし、吉本興業の「ガハハ」・「ギャハハ」だけが売りのバカタレントに電波が汚染されるようになってからというもの、大阪弁は何となく軽薄というかいかがわしく感じられるようになって来ました。

軽薄さで云えば、竹下登の孫のダイゴ君だって引けを取らないけれど、あの子にはいかがわしさが感じられないものなあ?レッテルを貼ってはいけない!と思うのだけれど、私と同じように感じている人、案外多いんじゃないかな? これ、大阪の人にとって良くないと思う、タレント会社の金儲けの為に、大阪人全体が下品であるかのような印象を与えてしまうのは。

「エログロナンセンスはやめろ!大阪の恥だ!!」とは橋下知事も云えんだろうから、芸能評論家の誰かが云ってやるべきです、「やりたいのなら全国ネットでやらず、大阪の地方局でやれ!」と。ああ、又与太話しになってしまった、これじゃあつまらんブログだね。次章からちょっと気を引き締めて行きますか。
  

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