微子第十八 479

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〔原文〕
大師摯適齊。亞飯干適楚。三飯繚適蔡。四飯缺適秦。鼓方叔、入於河。
武、入於漢。少師陽、撃磬襄、入於海。

〔読み下し〕
(たい)() (しょ)(せい)()く。亜飯(あはん) (かん)()()く。(さん)(はん) (りょう)(さい)()く。()(はん) (けつ)(しん)()く。() (ほう)(しゅく)()()る。()(とう) ()(かん)()る。(しょう)() (よう)(げっ)(けい) (じょう)(うみ)()る。

〔新論語 通釈〕
魯の楽官長の摯(しょ)は魯を去って斉に行った。二度目の食事に音楽を演奏する役の干(かん)は楚へ行った。三度目の食事に音楽を演奏する役の繚(りょう)は蔡に行った。四度目の食事に音楽を演奏する役の缺(けつ)は秦に行った。鼓(つづみ)奏者の方叔(ほうしゅく)は黄河のほとりに隠れた。振り鼓奏者の武は漢水のほとりに隠れた。補佐役の陽と磬(けい)を撃つ役の襄は海を渡って島に隠れた。

〔解説〕
これは恐らく冒頭の「子日わく」が欠落したものでしょう。いつ頃の出来事を語ったものかはっきりしませんが、殷が滅びた時の話しであろう? 周の平王の時の話しであろう?魯の哀公の時の話しであろう?と諸説あります。

ただ最初に出て来る大師 摯は、泰伯第八202に登場する師摯のことではないかと思われますし、孔子は若い頃この人の演奏を直接聴いて感嘆している。よって、ここでは魯の哀公の頃の話として通釈しました。それ以外のことは全く分かりません。

それにしても、魯公は日に四度の食事をとり、その都度違った奏者に演奏させるとは、随分豪勢な暮らしをしていたんですね。

〔子供論語 意訳〕
孔子(こうし)(さま)亡命先(ぼうめいさき)(えい)から()帰国(きこく)した(とき)()(こく)音楽(おんがく)(みだ)れに(みだ)れていたので、()(こく)殿様哀公(とのさまあいこう)に、(もと)(ただ)しい音楽(おんがく)にもどすべきだと進言(しんげん)した。そこで哀公(あいこう)楽団(がくだん)解散(かいさん)(おも)だった奏者(そうしゃ)追放(ついほう)した。常任(じょうにん)指揮者(しきしゃ)()(せい)(くに)()げたのを(かわ)()りに、第二(だいに)パートリーダーの(かん)()(くに)()げ、第三(だいさん)パートリーダーの(りょう)(さい)(くに)()げ、第四(だいよん)パートリーダーの(けつ)(しん)(くに)()げ、太鼓(たいこ)奏者(そうしゃ)方叔(ほうしゅく)黄河(こうが)のほとりに()げ、小太鼓(こたいこ)奏者(そうしゃ)()(かん)(すい)のほとりに()げ、副指揮者(ふくしきしゃ)(よう)打楽器(だがっき)奏者(そうしゃ)(じょう)(うみ)渡って(わた)(しま)逃げた()。その()しばらくすると、()(こく)音楽(おんがく)正調(せいちょう)にもどった。

〔親御さんへ〕

子罕第九223章に「吾衛より魯に反りて、然る後に楽正しく、雅頌(がしょう)おのおの其の所を得たり」とありますので、恐らく本章はその時の話しではないかと思います。詳しくは223章の通釈・解説をご覧下さい。
 

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