季子第十六 438

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原文
孔子曰、君子有三畏。畏天命、畏大人、畏聖人之言。小人不知天命、
而不畏也、狎大人、侮聖人之言。
 
〔 読み下し 〕

孔子(こうし)(のたま)わく、君子(くんし)三畏(さんい)()り。天命(てんめい)(おそ)れ、大人(たいじん)(おそ)れ、聖人(せいじん)(げん)(おそ)小人(しょうじん)天命(てんめい)()らずして(おそ)れず大人(たいじん)()聖人(せいじん)(げん)(あな)る。
 

〔 通釈 〕

孔子云う、覚醒したる人物(君子)には畏敬するものが三つある。

その一は天命(天の意思・神の御心)を畏れ敬い、
その二は天命を体した大人物(大人)を畏れ敬い、
その三は天命を伝える聖人の教えを畏れ敬う。

これに対して愚かな人物(小人)は、すべては偶然の産物と勘違いして天命 によりて生かされていることも知らず、しゃあしゃあとしている。天命を体した大人の存在に気付かず馴れ馴れしく接する。真理を伝える聖人の教えに耳を傾けようともせず、そんなことがあるものかと嘲笑うと。
 

〔 解説 〕

なるほど、これが君子か小人かの分岐点ですか‥‥。 天命を畏れず・大人に狎れ・聖人の言を侮る人は確かにいるけれど、人様をとやかく云う前に、自分自身を点検してみた方が良さそうですね。

ここでは君子を「覚醒したる人物」と解しましたが、「儒教的悟りの階梯」の知の柱で云うと第四段階「覚識(覚醒したる意識)」、十界互具で云うと「菩薩」、キネシオロジーで云うとログ500〜がこれに当ります。

覚醒とは、迷いから覚めることを云いますが、ログ490を超えて来ると徐々に迷いから覚め始める、と云うか、迷いから覚め始めると490を超えて来る。ここ迄来ると、肉体我(欺我)や感情我(戯我)に振り回されることは殆どなくなりますが、最後迄抵抗して来るのが、これこそが本当の自分だ!と長年錯覚して来た思考我(擬我)という曲者。

どういう訳か、高学歴・高学問の学校秀才ほど思考我の殻が硬い。他人から刷り込まれたガラクタのような先入観念や固定観念にしがみついて、思考我の殻を剥ぎ取ることを怖がる。思考我の殻を剥ぎ取ったら、自分が自分でなくなってしまう?自分がいなくなってしまう?とでも思っているのでしょうか?偽ものの自分・借のものの自分・擬装した我でしかないのに。催眠術をかけられて、マインドコントロールされたまま生きているようなものでしょう!?これは。

何度も云うように、思考我の殻を剥ぎ取った時に、神の子人間としての本来の自分が光り輝いて来るんです、ログ500〜の猛烈な光りが迸り出て来るんです。これを称して「覚醒したる人物」という訳ですね。これを孔子は「覚醒したる人物は、天の意思を畏れ敬い、天の意思を体現した大人物を畏れ敬い、天の意思を伝える聖人の教えを畏れ敬うものだ」と延べ、「それの分からん奴はバカだよ!」云ったんですね、はっきり云ってしまえば。

参考までに、擬我とは擬装・カムフラージュした我のこと、正体を知られないように外見を装うことを云います。
 

〔 子供論語  意訳 〕

孔子(こうし)(さま)がおっしゃった、「君達(きみたち)(つね)(つぎ)(みっ)つのことを(うやま)うようにしなさい。(ひとつ)神様(かみさま)のみ(こころ)(ふたつ)神様(かみさま)のみ(こころ)実践(じっせん)する(ひと)(みっつ)神様(かみさま)のみ(こころ)(つた)える(おし)え。神様(かみさま)(しん)じず、神様(かみさま)のみ(こころ)実践(じっせん)する(じん)(ちゃ)()し、神様(かみさま)のみ(こころ)(つた)える(おし)えを(まな)ぼうとしないのは、オバカサンというんだよ」と。
 

〔 親御さんへ 〕

孔子の云う「畏天命」・「畏大人」・「畏聖人之言」の三畏は、仏教で云う「三帰」(帰依仏・帰依法・帰依僧)と同じことを云っているのではないかと思うことがあります。三帰とは正しくは「三宝帰依」のことで

  一、 帰依仏‥‥仏(神)に帰依せよ
  
二、 帰依法‥‥仏の説く法(仏法)に帰依せよ
  
三、 帰依僧‥‥仏法を伝える僧団に帰依せよ

というものですが、畏を帰依に置き換えてみると、

  一、 帰依天命‥‥天命(神の御心)に帰依せよ
  
二、 帰依大人‥‥天命を体した大人に帰依せよ
  三、 帰依聖人之言‥‥天命を伝える聖人の教えに帰依せよ

となる。逆に、帰依を畏に置き換えてみると、

  一、 畏仏‥‥仏(神)を畏れ敬え
  
二、 畏法‥‥仏の説く法を畏れ敬え
  三、 畏僧‥‥仏法を伝える僧団を畏れ敬え

となって、全く違和感がありません。

今度読経の下手な坊さんがいたら、励ましてやりますかね?「孔子もちゃんと三宝に帰依せよと説いているぞ!もっと自信を持ってお経を読め!!朗々とやれ!!」と。

前に
云ったかも知れませんが、最近葬式に行く回数が増えまして、その度に坊さんの読経にはガッカリさせられますからね、蚊の鳴くような声で。読経に自信のない坊さんは、説法でちゃんと仏の教えを伝えることです、プロなんだから。
 

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