衛靈公第十五 425

上へ

〔原文〕
子曰、君子貞而不諒。

〔読み下し〕
()(のたま)わく、君子(くんし)(てい)にして(りょう)ならず

〔通釈〕
孔子云う、「君達は、正しいことに対して節を曲げないことは結構だ。だが、一旦こうと決めたら頑として人の意見を入れないような分からず屋では困るな」と。

〔解説〕
(りょう)とは言+京(亮・りょう、あきらか)の会意文字で、元は明らかにものをいう或は誠実(まこと)の意味ですが、ここでは「頑固な分からず屋」の意味に使われています。頑固な分からず屋のことを新潟弁で「一概こき」といいますが、一概こきには閉口します、ものの道理が分からないんだから。孔子は一概こきを嫌ったようで、陽貨第十七468章で子貢が「君子でも悪(にく)むことがありますか?」と質問したのに対し、孔子は「果敢にして塞がる者を悪む」つまり、思い切りが良くて決断力はあるが、ものの道理の分からぬ者を憎むと云っている。


何度も云うように、先入観念や固定観念にがんじがらめになっていることに気付かず、それが本当の自分である!と錯覚している人は結構います。否、殆どと云っていいかも知れません。先入観念や固定観念は人から刷り込まれたものでしょう?神の種を宿した自らの魂から出たものではないでしょう?なんでこんなものに縛り付けられなければならんのでしょうか!?万人に自由意思(思いの自由)と自由意志(選択の自由)が与えられているというのに。

思考我(擬我)の殻に風穴を開けない限り、ログ500の壁はブチ破れないんですよ!神の子人間としての本当の光は出て来ないんですよ!!いつ迄偽せものの自分・借りものの自分でいたら気が済むんですか!?いい加減に目を覚ましなさい!!

〔子供論語 意訳〕
孔子(こうし)(さま)がおっしゃった、「君達(きみたち)は、(ただ)しいと(おも)ったことは(まも)(とお)しなさい。しかし、途中(とちゅう)間違(まちが)いだと()かった(とき)は、素直(すなお)(あらた)めなさい。強情(ごうじょう)()ってはいけません!」と。

〔親御さんへ〕
何でこんなことで強情を張るんだろうか?と思うような人、皆さんの回りにいませんか?強情張りにも三通りあるようで、その1は、若い頃は強情張りだったが、年とともに物分りが良くなって来る人。 その2は、若い頃は物分りが良かったのに、年とともに段々強情張りになって来る人。その3は、若い頃も強情張り、年をとっても強情張りの人。

その1は「彫琢型(ちょうたくがた・磨き上げること)」、その2は「煤煙型(ばいえんがた・煙で煤けること)」、その3は「凝固型(凝り固まること)」といった所でしょうか。煤煙型も凝固型も自分が見えていないことから起こるんですね。見えていたらとてもみっともなくて、そんなことはやっていられません。

確かに我々凡人は、人のことはよく見えるけれども、自分のこととなると明き盲同然というのが現実ですが、だからといって諦めてしまったら、進歩も向上もありません。自分なりに工夫をして、何とか自分を見る目を養わなければならない。

本当は内なる神の目から自分を見つめられれば一番いいのでしょうが、思考我の殻が邪魔をして誰にでもできることではありませんから、第三者の目にはどう映っているのか?人に教えてもらうのが最も手っ取り早い。自分の行動の癖や言葉の癖は、録画したり録音して再生することができるけれども、思いの癖は画にも声にもなりませんから、自分で自分の思いの癖をチェックするのはとても難しい。

しかし、他人は案外的確に把握しているものですから、親しい友人三人くらいを選んで、忌憚のない意見を述べてもらったらいい、「私って、どう思う?」と。辛辣なことを云われても、絶対に反駁したり怒ったりしてはいけない!それがその人に移っているあなたのリアルな姿なのだから。

実は、耳が痛かったり腹が立ったりしたその箇所こそが、自分では気付いていないあなたの思いの癖の在り処なんです。そういう所を箇条書きにして、自分の思いの癖を点検して行ったらいい、「ああここか!ここにピンが刺さっていたのか!?」と。そこに気付くと、何を指摘されても腹が立たなくなります。やってみて下さい。
 

衛靈公第十五424 衛靈公第十五 425 衛靈公第十五426
新論語トップへ