衛靈公第十五 402

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〔原文〕
子曰、臧文仲、其竊位者與。知柳下惠之賢、而不與立也。


〔読み下し〕
子曰(しのたま)わく、(ぞう)(ぶん)(ちゅう)は、()(くらい)(ぬす)(もの)か。柳下(りゅうか)(けい)(けん)()りて(とも)()たざるなり。

〔通釈〕
孔子云う、「魯の家老臧文仲は、禄盗人と云っても良い人物だ。柳下恵という立派な賢者がいることを知りながら、抜擢するどころか排斥してしまった」と。

〔解説〕
孔子が臧文仲に対して手厳しい批判を加えた背景については、公治長第五110の解説で述べました。柳下(りゅうか)恵(けい)姓は展 名は獲 字は禽、魯の大夫で恵はその諡、柳下は封地の地名からとった号。微子第十八472に「柳下恵、士師となり三たびしりぞけらる云々」とあり、三度裁判官に就き三度臓文仲によって罷免されたが、正道を曲げなかった立派な人物だったようです。

臧文仲のようなケチな了見の持ち主は現代でもおりまして、なんでこの人が!?と思うような人が窓際族に追いやられたりしているのを時々見かける。成果がストレートに数字で出る営業部門や製造部門で力のある人間を排斥したりすれば、忽ち業績に響きますから、ケチな了見など起こしている暇はありませんが、間接部門(総務や業務)特に経理部門の長に必要以上の権限を与えたりすると、オカシナことになって来るようですね、私の経験では。(勿論全部が全部ではない)

ケチな了見の持ち主は、人の上には就けられません。エッ?ケチな了見はどう見抜けば良いかですって?物でも金でも知識でも技術でも労力でも、できるのに出し惜しみするケチンボがいるでしょう!?否定的で懐疑的で厭世的で排他的なヒネクレ者がいるでしょう!?こういうのをケチな了見の人と云うんです。

ケチンボより少々気前が良すぎる位の方が、抜け目のないヒネクレ者より少々間の抜けた御人好しの方が、うんと幸運を呼び込むようになっているんです、宇宙の法則は。「情けは人のためならず」、自分が与えたものが巡り巡って自分自身に返って来るようになっているんだね、宇宙の法則は。

〔子供論語 意訳〕
孔子(こうし)(さま)がおっしゃった。()(こく)総理(そうり)大臣(だいじん)(そう)(ぶん)(ちゅう)という(ひと)は、月給(げっきゅう)泥棒(どろぼう)のような(ひと)だった。柳下(りゅうか)(けい)という有能(ゆうのう)人材(じんざい)裁判官(さいばんかん)任命(にんめい)したのに、自分(じぶん)()なりにならないからといってクビにしてしまった。(くに)都合(つごう)よりも自分(じぶん)都合(つごう)優先(ゆうせん)するような政治家(せいじか)役人(やくにん)(ろく)盗人(ぬすっと)()うんだよ」と。

〔親御さんへ〕
十年程前に群馬の若手経営者の集いに招かれて、論語の講義をしたことがありますが、名刺交換をした際に柳下(やなぎした)恵(さとし)という見るからにネクラの青年がおりました。勿論男性ですが、「おお!君は素晴らしい名前だなあ!?」と申しましたら、「とんでもない、自分の名前が大嫌いです!」と答える。何故か?と問いますと・・・、"恵(けい)を恵(さとし)と読んでくれる人が誰もいなくて、全員が恵(めぐみ)と読む。そのおかげで小学 - 中学 - 高校の名簿にはいつも女子の部の中に入れられて恥ずかしい思いをした。修学旅行の部屋割りでは女部屋を割り当てられたこともある。だから自分の名前が大嫌いなのだ!"と云う。

「なのに、どうして素晴らしい名前だなどと云うのですか?」と聞きますので、論語の章と微子第十八の472章を読んで解説してやったら、体を震わせて泣き出しました。自分と全く同じ名前の人物が、立派な君子として論語に登場するなど、思っても見なかったのでしょう。目が輝いてパッと明るくなったようでした。

懇親会の自己紹介で「自分は今日から名前を変えました。柳下(りゅうか)恵(けい)と呼んでください!」と誇らしげにスピーチしたので、古くから彼を知る友人はびっくりしたのでしょう。私に説明を求められ、一通り柳下恵の話をした後で、"先入観念や固定観念というのは恐ろしいもので、意識せず本人の感情や思考パターンに規制をかけて自分自身を縛り付けてしまう。

だから、否定的・懐疑的・厭世的に物事を捉えてしまう自分を発見したら、これが自分の性分だと諦めてしまう前に、そのように自己規制をかけてしまう先入観念や固定観念は何だろうか?を探ってみなさい。そこに気付いた瞬間に自己規制の縛りはほどけてしまうから!今の柳下君のように"と述べたら、皆真剣に聞いておりました。

物事を否定的に捉えてしまう癖のある人は、心のどこかに淮南子の「人間(じんかん)万事塞翁が馬」・『幸せがずっと続く筈がない。幸せの後には必ず不幸が襲ってくる!』という間違った先入観念が刷り込まれていないだろうか?懐疑的に捉えてしまう癖のある人は、心のどこかに荀子の「性悪説」・『人間の本性は元々悪であるから、人を信用してはいけない!』という待ち型先入観念が刷り込まれていないだろうか?厭世的に捉えてしまう癖のある人は、心のどこかにアダムとイブの「原罪論」・『人は原初から罪を背負った存在である!』という間違った先入観念が刷り込まれていないだろうか?

いろんな観念がある中で、現代人を最も迷わせ苦しめている観念の一つに、「唯物思想」があるのではないでしょうか?『人間は肉体がすべて。世界は物質がすべて。死んでしまえばすべて終わり!』という観念を刷り込まれたら、人生に意味などなくなってしまって、偶然に生まれて偶然に死んでいく肉の塊、元来あってもなくても良い存在として人間を定義することになる。元来あってもなくても良い意味のない存在ならば、人を殺そうが自殺しようがどうってことはない!と思う人間が出て来ても不思議はないでしょう。

今子供の自殺や殺人が社会問題になっているけれど、唯物思想に凝り固まった親や教師がどれ程命の大切さ尊さを説いて聞かせたところで、純粋な子供達は自家撞着に陥っている大人の姿を、直感的に見抜いているんです、「何を云っているんだ!考えていることと云っていることのつじつまが合わないじゃないか!」と。間違った観念を子供達に植えつけてはならない!親も教師も!!子供の人生は一生その先入観念で縛り付けられてしまうのだから。

何度も述べているように、『人間の本質は魂である。肉体は魂の乗り舟である。魂は神の種(神性)を宿した永遠不滅の存在であって、生まれ変わり死に変わり(輪廻転生)を繰返しながら、無限の進化を遂げていく』と、小さいうちからしっかり教えなさい!人間は皆神の子、神の分身なのだ!!と。

前にも述べましたが、物質の世界は宇宙の4%以下であって、96%以上が非物質(ダークマター・ダークエネルギー)であることが理論物理学で分かっている。つまり、物質の世界は全宇宙の25分の1以下でしかない訳です。それを、「宇宙はすべて物質から成り立っている」とする唯物論は、ストローの穴から世界を眺めて、ああだ!こうだ!と論じている思想なんですね。無知から来る迷信(唯物弁証法)を本気で信じて、浮かれているようなものでしょう?唯物観念に犯された人達は。

ところがこういう人に限って、魂だとか神だとか目に見えない非物質存在の話をすると、「迷信だ!」と云って嘲笑するから、おかしなものだね、あべこべだよこれは。自分の無知を曝け出しているようなものでしょう?禅で言う「空華(くうげ)論」だね。空華論とは、現代で云うとそうだねえ・・・、「ナンセンス!」ってことだね。ナンセンスというのは、無知を前提にした論理展開を云う訳だから。

空華(空の華)とは面白い言葉で、眼病の者が自分の飛蚊症を知らず、空中に華が舞っていると見誤る事から出たもので、釈迦はこれを「兎角(とかく)亀毛(きもう)」の喩えで厳しく戒めている。兎も亀も見たことのない人間が、「お釈迦様、兎の角は大きいのでしょうか?小さいのでしょうか?亀には毛が多いのでしょうか?少ないのでしょうか?」と真顔で問う喩えです。

つまり、兎には角がないことを知らず、亀には毛がないことを知らないで、「兎の角は大きい!否小さい!」、「亀の毛は多い!否少ない!」と論じているようなものなんです、唯物論と言うのは。兎には角があり、亀には毛があるという誤った前提から出発している概念、無知により成り立っている概念なんだね、唯物思想というのは。

今でも「兎角何々」という言葉を使うでしょう?あり得ないものを例として挙げる枕詞が。あれは釈迦の言葉なんですよ。ああ、本文とあまり関係のない話になってしまったようだね、今回は。でも、そこがいいんだ!という人達で成り立っているような当会だから、まあいいか。ところで柳下(やなぎした)恵(さとし)君、その後どうしているかなあ?このHPを見ていたら近況を知らせてください。
 

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