〔原文〕
在陳絶糧。從者病、莫能興。子路慍見曰、君子亦有窮乎。子曰、君子固窮、
小人窮斯濫矣。
〔読み下し〕
陳に在して糧を絶つ。従者病みて、能く興つこと莫し。子路慍み見えて日わく、君子も亦窮すること有るか。子日わく、君子固より窮す。小人窮すれば斯に濫る。
〔通釈〕
孔子一行が楚に向かう途中で陳を通りかかった際、楚に行くことを阻もうとした陳の軍隊に包囲され、数日間糧道を絶たれてしまった。お供の門人達は為す術も無く、飢えと疲労で立つこともままならぬ状態となった。そこで子路が怨みがましく「君子ほどの人物でも困窮することがあるのでしょうか?」と食ってかかった。孔子は、「ああ勿論ある。ただ小人と違ってじたばたしないもんだよ」とたしなめた。
〔解説〕
孔子が楚の昭王に招かれて楚に向かっていた時、陳・蔡の大夫は、孔子の指導によって楚が強大になることを恐れ、楚に行くことを断念させる為に取り囲んで糧道を絶った。一行は飢えと疲労の為倒れる者が続出したが、孔子は構わず野外で授業を続けた。子路は、飲まず食わずで授業どころじゃない!と思ったのでしょう、師に食ってかかった。「君子固より窮す。小人窮すれば斯に濫る」と云われて、子路も納得したのではないでしょうか?腹の座った男ですから。
ただ孔子も無為無策でじっとしていた訳ではありません。子貢に策を授け、夜陰に乗じて脱出させて楚の昭王に救援を求めた。これを聞いた昭王は、すぐさま軍を発して一行を救出し、孔子を楚に向い入れた。
孔子63〜4才頃の出来事ですが、この時皆で大難儀したことを終生覚えていたようで、先進第十一で「我に陳・蔡に従う者は、皆門に及ばざるなり(死んだり、故郷に帰ったりして、今門下にはいない)」と、晩年しみじみと語っている。尚、本章と前章を併せて一本とするのが一般的ですが、前章は孔子54〜5才頃の出来事であり、年代が違いますので、テキストに従って別章としました。
〔子供論語 意訳〕
孔子様一行が楚国の昭王の招待を受けて楚国に向かう途中、陳国を通りかかった。この時、陳国の軍隊が道を遮断して一行を取り囲んだ。にらみ合いが何日も続いたため食べ物が底をついてしまい、門人達は空腹と疲労で立ち上がることさえできない状態になった。その時弟子の子路が「正しいことをしているのにこんな目にあうなんて、神も仏もあるもんか!」と大声でわめくと、孔子様は、「正しき者は強くあらねばならない!か弱き善人であってはならない!だから神様は正しい者に試練を与えるのだ、もっと強くするためにね。じたばたせずに頑張ってみよう。神様はけっして我々を見捨てはしない!」とおっしゃった。しばらくすると孔子様がいった通り、楚国から援軍がかけつけて全員無事に救出された。
〔親御さんへ〕
何度も紹介しまいましたが、私の好きな言葉に、孟子の『天の将に大任をこの人に降(くだ)さんとするや、必ず先ず其の心志を苦しめ、其の筋骨を労せしめ、其の体膚を餓えしめ、其の身を空乏にし、行う所其の為さんとする所に沸乱(ふつらん)せしむ。心を動かし性を忍ばせ、其の能くせざる所を増益せしむる所以なり』というものがあります。
ものは考えよう、「何で自分だけこんな目に遭わなければならんのか?」と天を怨むか?「これはきっと自分を強くする為に、神様が与えた試練だ!」と受け止めるか?で、人生が180度変わって来ます。「艱難汝を玉にす」という格言があるけれども、これは本当にその通りだと思います。時々安易で楽な道を行きたいという誘惑に駆られますが、安易で楽な道では、ちっとも魂は磨かれませんし、いい仕事もできませんね、結果的に。
二期生小林国二君の従兄弟に佐藤可士和というアートディレクターがおりまして、彼の口癖は「迷った時には最も困難な道を行け!」というものだそうですが、いい仕事をするな!?と思っていたら、やっぱり普段からの心掛けが違っておりました。まだ45才前じゃないかな?この男は。若い頃さっぱり芽が出ず苦労したそうですね。ホンダのステップワゴンのCMで開眼した。
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