前集・143〜161

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2008−2−9  143章から 146章
2008−3−8  147章から 153章
2008−5−11 154章から 161章


前集143項

饑則附、飽則颺、燠則趨、寒則棄。
人情通患也。君子宜浄拭冷眼。慎勿軽動剛腸。

(う)うれば附(つ)き、飽けばあがり、燠(あたたか)かなれば趨(おもむ)き、寒ければ棄つ。人情の通患なり。君子はよろしく冷眼を浄拭(じょうしょく)すべし。慎しんでかろがろしく剛腸を動かすことなかれ。

飢えているときにはまつわり付いて来て、満腹すれば飛び散ってしまう。裕福なところへは集まって行き、落ちめになればすぐ見捨てて寄り付かない。これが世俗の人情の通弊である。このような世俗に対して、君子たるものは、冷静な眼を更にぬぐい清めて直視せよ。そして慎んでかるがるしくその信念を変えてはならない。



前集
144

徳随量進、量由識長。故欲厚其徳、不可不弘其量、欲弘其量、不可不大其識。


徳は量に随って進み、量は識に由って長ず。ゆえにその徳を厚くせんと欲せば、その量を弘くせざるべからず。その量を弘くせんと欲せば、その識を大にせざるべからず。

徳というものは度量に従って向上し、度量は見識に従って成長するものである。そこで、その徳を厚くしようと思えば、その度量を広くしなければならぬし、その度量を広くしようと思えば、その見識を高くしなければならぬ。


     知識     +    経験  =見識
    一疑一信       一喜一憂

     見識     +    勇気  =膽識
    一虚一実       一進一退

     膽識     +    信念  =徳
    一勝一負       一苦一楽
            

前集
145

一灯蛍然、万籟無声。此吾人初入宴寂時也。暁夢初醒、群動未起。此吾人初出混沌処也。乗此而一念廻光、烱然返照、始知耳目口鼻皆桎梏、而情欲嗜好悉機械矣。


一灯蛍然として、万籟声なし。これ吾人初めて宴寂に入るの時なり。暁夢初めて醒め、群動いまだ起こらず。これ吾人初めて混沌を出ずるところなり。これに乗じて一念光りを廻らし、烱然として返照せば、始めて耳目口鼻はみな桎梏にして、情欲嗜好はことごとく機械たるを知る。

夜半、一燈の光もかすかに、よろずの物音も絶えたころ、我も初めて安らかな眠りに入るときである。暁の夢からさめて、よろずの活動がまだ起らないとき、我も初めて混沌の境から抜け出すころである。この時に乗じて、心機一転、知恵の光をめぐらして、明らかに本心を照らし省みれば、初めて、耳目や口鼻は皆本心を束縛する手かせ足かせであり、情欲や物欲はすべて本心を操るからくりであることがわかる。


  仏教思想の「無我観」である。
  諸行無常・・・すべての物質には、実態がない。→色則是空と同じ。

  六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)の認識の範囲では、人間の心の実相はひらかない。
  


前集146

反己者触事皆成薬石。尤人者動念即是戈矛。
一以闢衆善之路、一以濬諸悪之源。
相去霄壤矣。

己れを反する者は、事に触れてみな薬石と成る。人を尤むる者は、念を動かせばすなわちこれ戈矛。一はもって衆善の路を闢き、一はもって諸悪の源を濬くす。相去ること霄壤なり。

自己を反省する者にとっては、なにごとに触れても皆良薬となるが、人の過失をとがめる者にとっては、心を動かすごとに皆自分を傷つける矛となる。前者はもろもろの善行を積む路を開くものであるが、後者はもろもろの悪事を重ねる源を深くするものである。両者の相違は、まさに天地雲泥の差である。

 自ら気づいて反省が出来る人は少ない。大多数は、他人の事はよく分かるが、
  自分の事は分からない。反省に関しては、儒教よりは仏教のほうが、より具体的であ。
 
 八正道  正見   正しく公平に見たか
        正思   正しく思ったか
        正語   正しく語ったか
        正業   正しく仕事をしたか
        正命   正しく生活したか
        正精進  正しく努力したか 今日できるものは、今日中に行う
        正念   正しく祈ったか
        正定   正しく反省する時間をもったか

  釈迦は正思が出来るようになれば、反省道は60点の合格とした。正思は難しい。         



前集147項


事業文章、随身銷毀。而精神万古如新。功名富貴、逐世転移。而気節千載一日。
君子信不当以彼易此也。

事業文章は、身に随いて銷毀すれども、精神は万古に新たなるがごとし。功名富貴は、世を逐うて転移すれども、気節は千載に一日なり。君子、まことにまさに彼をもって此に易うべから ざるなり。

いかなる事業や学問も、その身が死ねば、それに従って消滅してしまうが、人間の精神は永遠に日に新たに生き続ける。いかなる栄誉や財産も、時世と共に移り変わってしまうが、人間の気節は千年も一日のように変わらずに貴い。そこで君子たるものは、決して一時的なものを永久的なものに取り代えてはならない。


   一流の経営者は、人を残す
   二流の経営者は、会社を残す
   三流の経営者は、金を残す
  



前集148

魚網之設、鴻則罹其中。蟷螂之貪、雀又乗其後。機裡蔵機、変外生変。智巧何足恃哉。


魚網の設くる、鴻すなわちその中に罹る。蟷螂の貪る、雀またその後に乗ず。機裡に機を蔵し、変外に変を生ず。智巧なんぞ恃むに足らんや。

魚を捕らえようと網を張っていると、意外にも大きいかりがかかる。かまきりがせみをねらっていると、すずめがその後からかまきりをねらっている。(人間社会には)、これと同様に、しかけの中にまたしかけが隠されていて、思わぬ異変の外にまた異変が生じてくる。してみると、ちっぽけな知恵や技巧などは、なんの頼みにもなりはしない。


  機裡=からくり    自然界のからくりには、人智が及ばない。
  なぜ地球は自転をしているのか、なぜ太陽の周りを公転しているのか、
    なぜ地軸が移動するのか。
  あって当然、なくて当たり前と思っていることは、すべてが宇宙の意志である。
  宇宙の意志が原因となって、いまの事象が結果としてある。
  宇宙の意志がなくなれば、森羅万象、すべてがなくなる。  
  

前集
149

作人無点真懇念頭、便成個花子、事事皆虚。渉世無段円活機趣、便是個木人、処処有碍。


人となるに点の真懇念頭なければ、すなわち個の花子と成り、事々みな虚なり。世を渉るに段の円活機趣なければ、すなわち個の木人、処々碍りあり。

人であるためには、少しは誠実な心がなければ、全くこじきと同じになり、その言うことなすことは皆いつわりである。また、世渡りのためには、ひとつ如才のない気転がなければ、全くでく人形と同じで、どこへ行っても障害に突き当たる。


  まともな人間は・・・・・真の真懇の念頭(一点の誠意)
          ・・・・・・段の円活の機趣(一段の気転)    


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前集150

水不波則自定、鑑不翳則自明。故心無可清。去其混之者而清自現。
楽不必尋。去其苦之者而楽自在。


水は波たたざれば、おのずから定まり、鑑は翳らざれば、おのずから明らかなり。
ゆえに心は清くすべきなし。そのこれを混らすものを去りて、清おのずから現わる。
楽しみは必ずしも尋ねず。そのこれを苦しむるものを去りて、楽しみおのずから在す。

水は波さえ立たなければ自然に静まるものであり、鏡はちりやほこりで曇らなければ自然に明らかなものである。そこで、人の心も無理に清くすることはない。その心を濁らすものを取り去れば、本来の清さが自然に現れてくる。楽しみも必ずしも外に求めて行かなくともよい。その心を苦しめる雑念を取り去れば、本来の楽しみが自然に生じてくる。

   この章を読むと、老荘思想を感ずる。老荘思想は人間開放の学である。
   「払いたまえ、清めたまえ」という神道にも一脈通ずる。
   老子は、博物館の館長をしていた。猛烈な勉強家であった。


前集151

有一念而犯鬼神之禁、一言而傷天地之和、一事而醸子孫之禍者。
最宜切戒。

一念にして鬼神の禁を犯し、一言にして天地の和を傷り、一事にして子孫の禍いを醸すものあり。
最もよろしく切に戒むべし。


ふとしたでき心が心霊のおきてを犯すことになり、ただ一言のまちがいが社会の平和を破ることになり、わずか一事の誤りが子孫にまで及ぶ災いを作り出すことになる。これらのことを考えて、くれぐれも用心するがよい。

   身(行い)・口(言葉)・意(思い・心)の調律は難しい。
   自分の心はごまかせない。



前集
152

事有急之不白者、寛之或自明。毋躁急以速其忿。人有操之不従者、縦之或自化。
毋操切以益其頑。

事、これを急にして白かならざるものあり、これを寛にせば、あるいはおのずから明らかならん。
躁急にしてもってその忿りを速くことなかれ。
人、これを操りて従わざるものあり、これを縦てばあるいはおのずから化せん。
操ること切にしてもってその頑を益すことなかれ。

ものごとには急いでも、明らかにならないことがある。かえって、これをゆっくりにすれば、自然に明らかになることもある。あまりせきたてて人の怒りを招いてはならない。人を使おうとしても、容易に従わない者がいる。かえって、これを自由にしておけば、自然に変わってくることもある。あまり無理に使おうとして、その人をよけいに頑固にしてはならない。

   この章の前半は「急いては事をしそんじる」という意味か。
   後半は、「あまのじゃくへの対処方法」を述べている。
   
   心がねじけた「あまのじゃく」には二種類ある。
     @ああ言えば、こう言うのタイプ
     Aだまってすねるトラフグのタイプ


   あまのじゃくは、すべて分かっている。しかし反省が苦手なので、
      他人のなぐさめが耳に入らない。他人の言葉を受け入れることができないので、
      自己嫌悪に陥る。これは放っておくしかない。

   

前集153

節義傲青雲、文章高白雪、若不以徳性陶鎔之、終為血気之私、技能之末。


節義は青雲に傲り、文章は白雪よりも高きも、もし徳性をもってこれを陶鎔せざれば、
ついに血気の私、技能の末とならん。

その主義主張は高位高官の人々をはるかにしのぎ、その文章教養は白雪の名曲よりも高尚であっても、道義的な徳性で練り上げていなければ、けっきょくは、その主義主張も血気にはやった私行となり、その文章も手先の小細工になってしまうであろう。

  この章は儒者の言葉と感ずる。以下の論語の二章を思い出す。

  
憲問第十四 347
  http://rongo.jp/kaisetsu/rongo.php?347,1

  
衛霊公第十五 411
    http://rongo.jp/kaisetsu/rongo.php?411,1


前集154

謝事当謝於正盛之時。
居身宜居於独後之地。
謹徳須謹於至微之事。
施恩務施於不報之人。

事を謝するはまさに正盛の時に謝すべし。身を居くはよろしく独後の地に居くべし。
徳を謹しむは、すべからく至微の事を謹しむべし。恩を施すは、つとめて報ぜざるの人に施せ。


  出処進退の「退」をみる。出世に関しては、遠まわりしている者をみる。
  徳に関しては陰徳をつんでいる者をみる。

  人間をみるには→  http://rongo.jp/kaisetsu/rongo.php?26,1

  話はそれるが、日本の笑いの質が落ちているように思えてならない。
  「ガハハ〜〜」という笑いもよいが、味のある笑いがなくなってしまった。
  吉本興業の方針なのだろうか。



前集
155

交市人不如友山翁。謁朱門不如親白屋。聴街談巷語、不如聞樵歌牧詠。
談今人失徳過挙、不如述古人嘉言懿行。


市人に交わるは、山翁を友とするにしかず。朱門に謁するは、白屋に親しむにしかず。
街談巷語を聴くは、樵歌牧詠を聞くにしかず。
今人の失徳過挙を談ずるは、古人の嘉言懿行を述ぶるにしかず。

 
  休日は釣りとゴルフでよい。ただし一月に一回は菜根譚を読もう。



前集156

徳者事業之基。未有基不固而棟宇堅久者。心者後裔之根。未有根不植而枝葉栄茂者。


徳は事業の基なり。いまだ基固からずして、棟宇の堅久なるものはあらず。
心は後裔の根なり。いまだ根植えずして、枝葉の栄茂するものはあらず。


  日本人は仕事を通して人徳を磨くという考えが多い。
  能力主義・成果主義も一理あろうが、日本人には年功序列のほうが肌にあう。



前集
157

前人云、抛却自家無尽蔵、沿門持鉢効貧児。
又云、暴富貧児休説夢、誰家竃裡火無烟。
一箴自眛所有、一箴自誇所有。
可為学問切戒。

前人云う、「自家の無尽蔵を抛却して、門に沿い鉢を持して貧児に効う」。
また云う、「暴富の貧児、夢を説くを休めよ。たが家の竃裡か火に烟りなからん」。
一はみずから所有に昧きを箴しめ、一はみずから所有に誇るを箴しむ。学問の切戒となすべし。


  「無一物中無尽蔵」
     何もないように見えるが、すべての物がある。
    あなたの心の中には、神と同じすべてのものがあ。


  食糧危機が現実のものとなってきた。
    お金を出せばどこからでも食糧が買える時代は終わった。その原因は
    ・エタノール用の穀物は、高く売れる。
    ・ブリックス(インド・中国)が米を食べるようになった。
      経済発展につれて 雑穀→ 粉食(パン・バスタ)→ 粒食(米) という動きとなる。
    ・耕地面積は一定。増えていない。しかも化学肥料の大量使用で地力が落ちている。
    ・極端な水不足がおきている。水がなければ農業はなりたたない。
    ・頻発する異常気象。   

  現在バターが品薄となっているが、つぎはチーズが不足するであろう。

  サブプライム問題は「欲望原理主義」時代の終焉を意味していると感ずる。
  富にはいろいろある。
     本富為上・・・富を創造する。 
     末富次之・・・富を増大する。(流通業など)
     姦富最下・・・投機。昔はヤクザが行っていたが、今は
大卒のエリートが行う。

  こちらを参照 http://rongo.jp/kaisetsu/rongo.php?78,1,本富


前集158

道是一重公衆物事、当随人而接引。
学是一個尋常家飯、当随事而警タ。

道はこれ一重の公衆物事なり、まさに人に随って接引すべし。
学はこれ一個の尋常家飯なり、まさに事に随って警タすべし。


  道徳は万人共有、学問は三度の食事と同様で、欠くことができない。
  陳白沙は「人間から道徳を取り除いたら、禽獣である」と云っている。

前集159

信人者、人未必尽誠、己則独誠矣。疑人者、人未必皆詐、己則先詐矣。


人を信ずるは、人いまだ必ずしも尽く誠ならざるも、己れすなわち独り誠なり。
人を疑うは、人いまだ必ずしもみな詐らざるも、己れすなわちまず詐る。


  日本一疑い深い人間は佐高信ではないか。
    疑り深い生活を続けると、表情が悪くなる。


前集160

念頭寛厚的、如春風煦育。万物遭之而生。念頭忌刻的、如朔雪陰凝。
万物遭之而死。

念頭寛厚なるは、春風の煦育するがごとし。万物これに遭うて生ず。
念頭忌刻なるは、朔雪の陰凝するがごとし。万物これに遭うて死す。


  会津八一は次のよう云っている。
    涵之如海
    養之如春


前集161

為善不見其益、如草裡東瓜。自応暗長。為悪不見其損、如庭前春雪。
当必潜消。

善をなしてその益を見ざるは、草裡の東瓜のごとし。おのずからまさに暗に長ずべし。
悪をなしてその損を見ざるは、庭前の春雪のごとし。まさに必ず潜に消ゆべし。


  M、スコットペックが「邪悪な心はどこから生ずるか」について述べている。
      @知的怠惰・・・無知、無明
      A病的な自己愛・・・利己主義

  最も甚だしいのは、自分で自分に嘘をついて、正しいと信じている人。

  オリンピックを控え、「支那」「チャンコロ」「チャイナ」について考えてみましょう。
  
藤田塾でも講義をしたが、八佾第三 045をみてください。
  http://rongo.jp/kaisetsu/c_rongo.php?45,1