子罕第九 238

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原文             作成日 2005年(平成17年)3月から6月
子曰、知者不惑、仁者不憂、勇者不懼。
 
〔 読み下し 〕
()(のたま)わく、知者(ちしゃ)(まど)わず、仁者(じんしゃ)(うれ)えず、勇者(ゆうしゃ)(おそ)れず。
 
〔 通釈 〕
孔子云う、「知者はあれこれ迷うことがない。仁者はくよくよ思い患うことがない。 勇者はおろおろ怖じけることがない」と。
 
〔 解説 〕

憲問第十四でも孔子は、君子には三つのタイプがあるとして同様の文言を述べておりますから、普段から弟子達にこういうことをよく云っていたのでしょう。誰も「何故ですか?」と質問していない所を見ますと、こういうことは当時自明とされていたのではないかと思います。知者か仁者か勇者か、どれかに一つでも該当すればと思うのですが、迷ってばかり・憂えてばかり・懼れてばかりの現状では、君子には程遠いね、情けないね。
 

〔 子供論語  意訳 〕
孔子(こうし)(さま)がおっしゃった、「ものごとの道理(どうり)()っている(ひと)知者(ちしゃ)という。だから知者(ちしゃ)は、あれかこれかと(まよ)うことがない。私心(ししん)がなく()(ため)(ひと)(ため)()くす(ひと)仁者(じんしゃ)という。だから仁者(じんしゃ)は、自分(じぶん)のことでくよくよすることがない。偉大(いだい)なことの(ため)にいつでも()()()せる(ひと)勇者(ゆうしゃ)という。だから勇者(ゆうしゃ)は、こわいものがない」と。
 
〔 親御さんへ 〕

徳はすべて仁ベースですから、知者・仁者・勇者の中でどれが一番格上かと云えば、当然仁者ということになりますが、これは孔子だけではなく、釈迦は「慈悲」をイエスは「愛」を、ともに無上のものとして弟子達に教えている。

キネシオロジーの意識レベルでどこからが仁者のレベルかと考えてみますと、ログ500以上がどうもそれに相当するようで、仏教の十界互具で云うと、「菩薩」の境地以上の人ということになります。こういう人は滅多におりません。

だからなのでしょう、孔子は弟子達から「あの人は仁者でしょうか?」と質問されても、「さあどうかな?」と曖昧な答え方をしております。人間の意識レベルを測定するキネシオロジーテストなどない時代でしたから、孔子もこう答えるしかなかったのでしょう。

前回も申し上げましたが、デヴィド・ホーキンズ博士の「パワーかフォースか」(三五館)は必ず読んでおいて下さい。誰でも簡単にできる、キネシオロジーテストのやり方が詳しく紹介されておりますから。これで測定されると、どんなにいいことを云おうが、どんなにカッコウをつけようが、どんなに立派な肩書があろうが、どんなに名声を博していようが、その人の本性(意識のレベル)は丸裸にされてしまいます。人間の意識のレベルつまり、人格の高さは、学歴・肩書・地位・名声・財産とは何の関係も無いことが分かります。

人間が何度も何度も生まれ変わり死に変わり(転生輪廻)を繰り返すのは、その都度その都度自分に相応しい時代と環境を選んで、意識レベルを高めて行く為なんですね。これを「魂進化」と云う訳ですが、ここが分かると、孔子が衛霊公第十五で「教え有りて類無し・人間はどんな教えを信じ実践するかで人格(つまり意識レベル)が決まるのであって血筋や身分で上等下等が決まるものではない」と述べた意味がよく理解出来ます。
 

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