子罕第九 213

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原文             作成日 2005年(平成17年)3月から6月
子畏於匡。曰、文王既沒、文不在茲乎。天之將喪斯文也、後死者、
不得與於斯文也。
天之未喪斯文也、匡人其如予何。
 
〔 読み下し 〕
()(きよう)()す。(のたま)わく、(ぶん)(のう)(すで)(ぼっ)したけれども、(ぶん)(ここ)()らずや。(てん)(まさ)()(ぶん)(ほろ)ぼさんとするや、後死(こうし)(もの)()(ぶん)(あずか)るを()ざるなり。(てん)(いま)()(ぶん)(ほろ)ぼさざるや、匡人(きょうひと)()(われ)如何(いか)にせん。
 
〔 通釈 〕

孔子が匡で災難に遭い殺されそうになった際、包囲した匡人に向かって云った、「周の文化は文王の頃より盛んになったが、その文王は既に没して久しくなる。文王亡き後の文化の伝統はこの私に受け継がれているではないか。天がこの文化の伝統を滅ぼすつもりならば、文王の没後に生まれた私はこの優れた文化を学び得ることが出来なかった筈だ。天がまだこの文化の伝統を滅ぼすつもりがないならば、文化の継承者たる私を必ずお守りくださるに違いない。お前達匡人ごときが一体私に何ができよう!」と。
 

〔 解説 〕

孔子が旅の途中で殺されそうになったことは二度あります。一度目が、かつて匡で乱暴狼藉を働いた陽虎と人違いされて包囲されたこの時(関連文先進十一にあり)。二度目は述而第七172章にあった、一行が衛を去り宋に行った際、宋の軍務大臣司馬桓堆の暗殺計画に巻き込まれて糧道を断たれてしまった時(関連文衛霊公第十五にあり)。どちらも命からがら生き延びておりますが、孔子がジタバタした様子は全く見られない。真に自らの使命を覚った人物とは、ここ迄腹が座っているものなのでしょうか。
 

〔 子供論語  意訳 〕
孔子(こうし)(さま)一行(いっこう)(きょう)という(くに)(とお)りかかった(さい)(むかし)ここで乱暴(らんぼう)狼藉(ろうぜき)(はたら)いた(よう)()という人物(じんぶつ)間違(まちが)われて、()(かこ)まれて(ころ)されそうになった。あわてふためく弟子(でし)(たち)()かって孔子(こうし)(さま)はおっしゃった、「(みずか)(かえり)みて(なお)くんば、千万人(せんまんにん)(いえど)(われ)()かん!((みずか)(はん)(せい)してみて(すこ)しもやましい(ところ)がないならば、たとえ相手(あいて)千人(せんにん)でも万人(まんにん)でも(おそ)れることはない)。さあ(わたし)(まわ)りに(あつ)まりなさい!!」と。
 
〔 親御さんへ 〕
「千万人と云えども吾往かん!」なる文言は、曽子が昔孔子から聞いた言葉として「孟子」に紹介されているものです。正確には「自ら反みて縮からずんば、褐寛博(かつかんばく・どてらを着た身分の賤しい者の喩え)と雖も吾惴(おそ)れざらんや。自ら反みて縮くんば、千万人と雖も吾往かん」とあります。
 
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