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原文
〕 作成日 2005年(平成17年)3月から6月 |
子畏於匡。曰、文王既沒、文不在茲乎。天之將喪斯文也、後死者、
不得與於斯文也。天之未喪斯文也、匡人其如予何。
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〔 読み下し 〕 |
子匡に畏す。日わく、文王既に没したけれども、文茲に在らずや。天の将に斯の文を喪ぼさんとするや、後死の者、斯の文に与るを得ざるなり。天の未だ斯の文を喪ぼさざるや、匡人其れ予を如何にせん。
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〔 通釈 〕 |
孔子が匡で災難に遭い殺されそうになった際、包囲した匡人に向かって云った、「周の文化は文王の頃より盛んになったが、その文王は既に没して久しくなる。文王亡き後の文化の伝統はこの私に受け継がれているではないか。天がこの文化の伝統を滅ぼすつもりならば、文王の没後に生まれた私はこの優れた文化を学び得ることが出来なかった筈だ。天がまだこの文化の伝統を滅ぼすつもりがないならば、文化の継承者たる私を必ずお守りくださるに違いない。お前達匡人ごときが一体私に何ができよう!」と。
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〔 解説 〕 |
孔子が旅の途中で殺されそうになったことは二度あります。一度目が、かつて匡で乱暴狼藉を働いた陽虎と人違いされて包囲されたこの時(関連文先進十一にあり)。二度目は述而第七172章にあった、一行が衛を去り宋に行った際、宋の軍務大臣司馬桓堆の暗殺計画に巻き込まれて糧道を断たれてしまった時(関連文衛霊公第十五にあり)。どちらも命からがら生き延びておりますが、孔子がジタバタした様子は全く見られない。真に自らの使命を覚った人物とは、ここ迄腹が座っているものなのでしょうか。
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〔 子供論語 意訳 〕 |
孔子様一行が匡という国を通りかかった際、昔ここで乱暴狼藉を働いた陽虎という人物に間違われて、取り囲まれて殺されそうになった。あわてふためく弟子達に向かって孔子様はおっしゃった、「自ら反みて縮くんば、千万人と雖も吾往かん!(自ら反省してみて少しもやましい所がないならば、たとえ相手が千人でも万人でも恐れることはない)。さあ私の周りに集まりなさい!!」と。
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〔 親御さんへ 〕 |
「千万人と云えども吾往かん!」なる文言は、曽子が昔孔子から聞いた言葉として「孟子」に紹介されているものです。正確には「自ら反みて縮からずんば、褐寛博(かつかんばく・どてらを着た身分の賤しい者の喩え)と雖も吾惴(おそ)れざらんや。自ら反みて縮くんば、千万人と雖も吾往かん」とあります。
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