子罕第九 209

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原文            作成日 2005年(平成17年)3月から6月
子罕言利、与命、与仁。
 
〔 読み下し 〕
()(まれ)()()う、(めい)(とも)にし、(じん)(とも)にす。
 
〔 通釈 〕
孔子が利の話をすることは極めて罕であった。偶に利について語る際は、必ず天命と仁道に関連づけて語った。
 
〔 解説 〕

儒教は利益を否定しているのではないか?と勘違いしている人もおられるようですが、決してそんなことはありません。里仁第四にありましたように、孔子は「富と貴きとは是れ人の欲する所なり。其の道を以て是を得ざれば処(お)らざるなり。貧しきと賤しきとは是れ人の悪む所なり。其の道を以て是を得ざれば去らざるなり。君子は仁を去りていずくにか名を成さん」・富(利益)や地位は誰もが欲するものであり、貧乏と低い身分は誰もが嫌うものであるが、利他(仁)の気持もなく、気まぐれに名声を得たとて、そんなものが一体何になろうか!と述べておりますから、仁に叶った道で得られる利(富)なら大いに善し!!ということでしょう。

しかし、仁に叶っていれば必ず利益が得られるか?と云えば、そうとも限らず、顔淵第十二で子夏が孔子から聞いた言葉として、「死生命あり、富貴天にあり」・人間の生死も富貴も天命によるものであって、自分の意志や願望だけではどうにもならないものがある!と、運命の巡り合せによる吉凶・禍福を述べております。

仁徳の有る無しと、金儲けの上手下手には何の相関関係もないようでありまして、仁徳が有って金儲けが下手な人もおれば、仁徳が無くて金儲けが上手な人も居る。仁徳の有無と金儲けの上手下手を組み合わせてみると、

仁徳

金儲け

一、 有り   二、 有り   三、 無し四、 無し  

上手
下手
上手
下手

の四通りになりますが、これだけでいつも同じ結果が出るか?と云えば、そうは問屋が卸さない。どういう訳か、人には「運」つまり、ついているか?・ついていないか?という変数が絡まって来る。喩えば、人徳も無く金儲けも下手という最悪の組み合わせであっても、変数が「ついている」と出れば結果は利となる。逆に、仁徳も有り金儲けも上手という最良の組み合わせであっても、変数が「ついていない」と出れば不利となる。

皆さんも、「ついていない時は何をやってもダメ!」という経験をお持ちではないでしょうか?孔子もこれには随分悩まされたようで、述而第七で「我に数年を加え、五十にして以て易を
学べば、以て大過無かるべし」と、晩年になって語っている。

史記に「孔子は晩年になって、皮の綴じ紐が何度も擦り切れる位に易を読み耽った」とありますから、「もっと早くに易をマスターして運命の吉凶を占っていたら、こんなに苦労することもなかったのになあ」という思いもあったのかも知れませんね。淮南子(えなんじ)に「人間万事塞翁が馬」の故事があるように、人間の吉凶・禍福は予測がつきません。

変数の如何で、吉が凶と出、禍が福に転ずる。「どうもついていないな?変数が悪いな?」と感じた時は、エマソンの光明思想で「ついてる!ついてる!ついてる!ついてる!!
よくなる!よくなる!よくなる!よくなる!!」と自分に言い聞かせて、極力善行を積むように心掛けるしかないようです。「積善の家には必ず余慶あり。積不善の家には必ず余殃(よおう)あり」と云いますからね。前回お話した「開運1:3の法則」ですよ、つきを呼び込むには。
 

〔 子供論語  意訳 〕
孔子(こうし)(さま)はお(かね)(もう)けの(はなし)はめったにされなかった。たまにお(かね)(もう)けの(はなし)をする(とき)には、(かなら)ず「自分(じぶん)さえ()ければ(ひと)はどうなろうとかまわない!という(かんが)えはやめなさい!!自分(じぶん)がいやなことは(ひと)仕向(しむ)けてはなりません!自分(じぶん)がこうありたいな!?ああなりたいな!?と(おも)うことは、(すす)んで人にやってあげなさい!!」と、おっしゃった。
 
〔 親御さんへ 〕

金儲けは善でも悪でもなく価値中立的なものです。盗んだり・騙したり・堕落させたりして得たものでない限り、何で儲けようがいくら儲けようが、善でも悪でもない。大金持ち程人格高潔でもなければ、貧乏人程人格低劣という訳でもない。絵や歌に上手下手があるように、金儲けにも上手下手があるだけなんですね。

京セラの稲盛会長のように、スーパーリッチでありながら人格高潔な方もおれば、ハンナンの浅田会長のように、スーパーリッチでも国を騙して国民の血税から補助金を掠め取った犯罪人もいる。西武の堤会長も、フォーブスに載る程のスーパーリッチマンでしたが、商法違反で逮捕されてしまった。

「運の尽き」という言葉がありますが、一体どんな時に運に見放されるものだろうか?と振り返ってみますと、置かれた環境や条件もさることながら、真因はどうも自らの心の状態にあるようでありまして、ピュアーな気持というか「純粋な心」を失って、邪(よこしま)な念(おも)いに振り回された時に、運に見放されてしまうようです。

「類は友を呼ぶ」とか「波長は同通する」と云いますから、自分自身の念いが環境を創り出すというか、それに相応しい環境や条件を引き寄せてしまうのではないでしょうか。

自分の心に動機の善悪・正邪を問うのは難しいかも知れませんが、「純粋(ピュアー)か?
不純(インピュアー)か?」を問うてみれば、案外簡単に答えが出るのではないでしょうか。不純な念いは必ず心が疼きますからね。幾つになろうが、「純情」を失ってはいけませんね!
 

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