泰伯第八 206

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原文        作成日 2004年(平成16年)11月から2005年(平成17年)2月
子曰、大哉、尭之爲君也、巍巍乎、唯天爲大。唯尭則之。蕩蕩乎、
民無能名焉。巍巍乎、其有成功也。煥乎、其有文章。
 
〔 読み下し 〕
()(のたま)わく、(おお)いなるかな(ぎょう)(きみ)たるや、巍巍(ぎぎ)()として、(ただ)(てん)(おお)いなりと()す。唯堯之(ただぎょうこれ)(のっと)る。蕩蕩(とうとう)()として(たみ)()()づくること()し。巍巍乎(ぎぎこ)として()成功(せいこう)()り。(かん)()として()(ぶん)(しょう)()り。
 
〔 通釈 〕

孔子云う、「何と偉大なことか、堯の人君たるの姿は!この崇高で堂々たる姿は、ただ天の偉大さのみがこれと比肩できよう。唯一天意に則った堯の政治は余りにも広大無比で、人民はどう形容して良いか言葉さえ知らない程であった。人民の願いは昔も今も、益々政治の成果が上がって生活が豊かになり、益々文化が発展して楽しく暮らせることに変わりはないのである」と。
 

〔 解説 〕

結語の「巍巍乎として其れ成功有り。煥乎として其れ文章有り」は、普通このように訳しません。字義の解釈を優先して、「人民が理解できるのは、偉大な成功と、輝かしい文化である」とするのが一般的ですが、有名な「鼓腹撃壌」を見ますと、堯の治世下の人民は、為政者(堯)の存在すら意識することなく、豊かに楽しく暮らしていたようですし、孔子の真情(仁)を慮ってみればきっとこう云いたかったのではなかろうか?と考えて、上記の通釈となった次第です。
 
古今東西、人々の願いは「豊かに楽しく暮らせること」に変わりは有りません。これを叶え、
増幅拡大せしむるのが為政者の務めでしょう。
 

〔 子供論語  意訳 〕
孔子(こうし)(さま)がおっしゃった、「太古(たいこ)王様(おうさま)(ぎょう)大変(たいへん)立派(りっぱ)なお方で、あたかも(かみ)使(つか)いのような(ひと)であった。だから後世(こうせい)人々(ひとびと)(かれ)のことを(せい)天子(てんし) ((せい)なる(てん)())と()ぶようになった。当時(とうじ)人々(ひとびと)王様(おうさま)がいるのかいないのかよく()からず『お()さま(のぼ)れば野良(のら)しごと、お()さま(しず)めば(かえ)りましょ、そこらに井戸(いど)()りゃ(みず)()く、たがやしてりゃ(こめ)はなる、天子(てんし)さまのおちからなんか、わしらにゃ(えん)のないことさ』と、(はら)つづみをうち、足拍子(あしびょうし)をとって(うた)い、(たの)しく(ゆた)かにくらしておったそうな」と。
 
〔 親御さんへ 〕
意訳文に有名な「鼓腹(こふく)撃壌(げきじょう)の歌」を挿入してみました。キリスト教では神の使いのことを「天使(てんし)」と云いますが、儒教では君主のことを天帝の子・天の命を受けて人民を治める者「天子(てんし)」と云います。又、堯・舜・禹の三人が「聖天子」ということになっておりまして、ミカエル・ラファエル・ガブリエル等の「大天使」がこれに相当しましょうか?孔子やイエスはその上の人、天帝・神と一体の「メシア(救世主)」です 。
 
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