泰伯第八 197

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原文          作成日 2004年(平成16年)11月から2005年(平成17年)2月
子曰、好勇疾貧亂也。人而不仁、疾之已甚亂也。
 
〔 読み下し 〕
()(のたま)わく、(ゆう)(この)みて(ひん)(にく)めば(みだ)る。(ひと)にして不仁(ふじん)なる、(これ)(にく)むこと(はなはだ)しければ(みだ)る。
 
〔 通釈 〕
孔子云う、「勇を好むことは結構だが、貧乏を極端に嫌って社会を憎むようになると、蛮勇をふるって世を乱すもととなる。薄情で思いやりのない行ないをしないよう身を慎むのは結構だが、人の不仁な行為を極端に嫌って指弾すると、却って冷酷非常な行為を誘発して世を乱すもととなる」と。
 
〔 解説 〕

イスラム教過激派による自爆テロなどは、ある意味で非常に勇気の要る事だと思いますが、何の罪もない人々を巻き添えにしてその人達の幸せの機会を奪い取ってしまう訳ですから、如何に自己を正当化しようが「絶対悪」以外の何ものでもない。断じて「必要悪」ではありません (コーランのどこを読んでも、アラーはそれらの行為を善しとしていない)。オウム真理教の地下鉄サリン事件もそうでしたね。勇は人間にとって大切な徳目の一つですが、義の伴わない勇は、どんなに意気がってみた所で蛮勇に過ぎません。

勇にも大勇(たいゆう・本物の勇気)と小勇(しょうゆう・つまらない勇気)がありまして、北宋の蘇軾(そしょく)(東坡)は「大勇は怯(きょう)の若し(本当に勇気のある人は、滅多に激せず、一見すると臆病者のように見える)」と云っている。

論語の中にはありませんが、「孟子」の公孫丑章句に、曽子が孔子から聞いた話として、「吾嘗て大勇を夫子に聞けり。自ら反りみて縮(なお)からずんば(反省してみて正義に反するならば)、褐寛博(かつかんぱく)と雖も(相手が身分の賤しい人であっても)、吾惴(おそ)れざらんや。自ら反りみて縮くんば(正義に叶うなら)、千万人と雖も吾往かん」とある。つまり、義に叶った勇こそが本物の勇気である!ということですね。

後段の不仁者に対する接し方にはハッとさせられます。不人情の行為を見て、「こいつは許せんな!」と思うと、ついつい指弾したくなるのが凡人の性(さが)ではないでしょうか?イエスであれば「汝ら人を裁くな!裁かれざらんが為なり。・・・何故兄弟の目にある塵(ちり)を見て、己(おの)が目にある梁木(うつばり)を認めぬか!!」と云う所なのでしょうが、孔子は「不仁者に対して不仁であることを指弾すれば、反省するどころか却って粗暴になる。不仁者は自らを反りみることができないから不仁者なのではないか。だから寝た子を起こすようなことはするな!気が付くまでそっとしておいてやれ!」と云います。

よく考えてみれば、これが不仁者に対する本当の思いやりなのかも知れません。どんなに善いこと正しいことであっても、本人自身が気付かなければ、有難迷惑・余計なお世話、猫に小判・豚に真珠ですからね。あるがままを無条件に受け入れて、本人が気付く迄辛抱強く待ってやるというのは、本当に難しいことです。ついつい手が出たり口が出たりします。
 

〔 子供論語  意訳 〕
孔子(こうし)(さま)がおっしゃった、「勇気(ゆうき)のあることは()いことだ。だが、自分(じぶん)(おも)うようにならないからといって、(ひと)()(あた)りしたら、せっかくの勇気(ゆうき)(だい)()しだね。(ひと)親切(しんせつ)にしようと(こころ)がけることは()いことだ。だが、自分(じぶん)不親切(ふしんせつ)にされたからといって、その(ひと)爪弾(つまはじき)きにしたりすれば、(なん)のことはない(きみ)もその(ひと)不親切(ふしんせつ)なことをしたことになる。これはおかしいね」と。
 
〔 親御さんへ 〕
人間はどうも傍目八目(おかめはちもく)の所があるようで、人のことは良く分かるが、自分のこととなるとさっぱり分らないものです。「人の振り見て我が振り直せ!」と云うけれど、これがちゃんとできるようになったら一人前なのでしょう。中々出来ません。棺桶に入る迄に何とか「心の欲する所に従えども矩を踰えず」と行きたいものです。
 
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