述而第七 180

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原文                  作成日 2004年(平成16年)7月から11月
陳司敗問、昭公知禮乎。孔子對曰、知禮。孔子退。揖巫馬期而進之曰、
吾聞、君子不黨。君子亦黨乎。君取於呉。爲同姓謂之呉孟子。君而知禮、
孰不知禮。巫馬期以告。子曰、丘也幸。苟有過、人必知之。
 
〔 読み下し 〕
(ちん)司敗(しはい)()う、(しょう)(こう)(れい)()れるか。孔子(こうし)(こた)えて(のたま)わく、(れい)()れり。孔子(こうし)退(しりぞ)く。()馬期(ばき)(ゆう)して(これ)(すす)めて()わく、(われ)()く、君子(くんし)(とう)せずと。君子(くんし)(また)(とう)するか。(きみ)()(めと)れり。同姓(どうせい)なるが(ため)()孟子(もうし)()う。(きみ)にして(れい)()らば、(たれ)(れい)()らざらん。()()()(もっ)(もう)す。()(のたま)わく、(きゅう)(さいわい)なり。(いやし)く(あゆまち)()れば、(ひと)(かなら)(これ)()る。
 
〔 通釈 〕
陳の司敗が「魯の君主であった昭公は、礼節を知った方でしたか?」と質問した。孔子は、「はい、知っておりました」と答えて退出した。

司敗は門人の巫馬期に合図して呼び寄せ、「君子は身びいきせぬものと聞いているが、孔子ほどの君子でも身びいきされるのか。昭公は呉の国から夫人を娶られたが、同姓であることをはばかって呉孟子と呼んでいたそうではないか。昭公が礼を知っていたと云うのなら、世の中に礼を知らない人は一人もいないことになるのではないか?」と云った。

巫馬期がこのことを孔子に報告したところ、孔子は「私は本当に幸せ者だ。私に何か過ちがあると、直ちに誰かがそれを指摘してくれる。ありがたいことだ」と云った。
 
〔 解説 〕

司敗 司冦と同じ意味で、司法官の官名。巫馬期 姓は巫馬 名は施(し) 字は子旗(しき)。昭公 定公の前の魯の君主で、三桓の専横を憂えて季氏を討とうとしたが失敗し、斉に亡命した。呉孟子 昭公の夫人。

この章は次の事情を知らないと、何故昭公が礼を失していたのか分からない。魯も呉も共に周室の出で、姓を姫(き)という。周の礼制では同姓不婚とされていたが、昭公はこれを無視して呉子から夫人を娶った為非礼とされた。本来ならば、孟姫(もうき)とでも呼ぶのが相応しいのであろうが、姫の字を避けて呉孟子と称していた。

孔子がこの事実を知らなかった筈はありませんが、さすがに先君を「礼知らず」とはいえなかったのでしょう。身びいきしていると非難されても、初めから甘んじて受ける腹積もりでいたのではないかと思います。
 

〔 子供論語  意訳 〕
(ちん)(くに)法務(ほうむ)大臣(だいじん)司敗(しはい)が、「()(こく)先代(せんだい)殿様(とのさま)(しょう)(こう)立派(りっぱ)(ひと)でしたか?」と質問(しつもん)した。孔子(こうし)(さま)突然(とつぜん)質問(しつもん)に、うっかり「はいそうです」と(こた)えた。孔子(こうし)(さま)退席(たいせき)した(あと)で、司敗(しはい)門人(もんじん)()馬期(ばき)()んで、「立派(りっぱ)(ひと)はいい加減(かげん)返事(へんじ)はしないものと()いているが、孔子(こうし)(さま)ほどのお(かた)でもいい加減(かげん)返事(へんじ)をされるのだろうか?法律(ほうりつ)では(おな)苗字(みょうじ)(ひと)結婚(けっこん)することは禁止(きんし)されているのに、(しょう)(こう)()(くに)から名前(なまえ)(いつわ)って同姓(どうせい)婦人(ふじん)(よめ)にもらった。そんな(しょう)(こう)立派(りっぱ)だというのなら、()(なか)立派(りっぱ)でない(ひと)一人(ひとり)もいないことになるのでは?」といった。()馬期(ばき)がこの(はな)しを孔子(こうし)(さま)(つた)えると、孔子(こうし)(さま)は「(わたし)もうっかり返事(へんじ)をしてしまったが司敗(しはい)()(とお)りだ。いい加減(かげん)返事(へんじ)はするものではないね。それにしても間違(まちが)いをすぐ指摘(してき)してもらえるというのは、ありがたいことだ」とおっしゃった。
 
〔 親御さんへ 〕
周の時代の中国では、同姓不婚(同じ苗字の者同士の結婚はタブー)とされておりましたが、これは今でも変わらないようです。間違いを指摘されて、素直に認められる人は、心の広い人です。更に、「ああ、ありがたい!」と思える人は、心の豊かな人です。大抵は屁理屈を捏ね回して言い訳をしたり、取り繕ったりするのではないでしょうか。「過てば則ち改むるに憚ること勿れ」と行きたいものですね。
 
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