述而第七 178

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原文                  作成日 2004年(平成16年)7月から11月
互郷難與言。童子見。門人惑。子曰、與其進也。不與其退也。唯何甚。
人潔己以進、與其潔也。不保其往也。
 
〔 読み下し 〕
()(きょう)(とも)()(がた)し。童子(どうし)(まみ)ゆ。門人(もんじん)(まど)う。()(のたま)わく、()(すす)むに(くみ)するなり。()退(しりぞ)くには(くみ)せざるなり。(ただ)(なん)(はなはだ)しきや。(ひと)(おのれ)(いさぎよ)くして(すす)まば、()(いさぎよ)きに(くみ)せん。()(おう)()せざるなり。
 
〔 通釈 〕

互郷という村は人情風情が劣悪で、まともに話しもできないような所であった。孔子一行がそこを通りかかった時、一人の少年が孔子に面会を求めて来たので、孔子は快く会ってやった。

門人達は、どうしてこんな村の子なんかに会ってやったのだろうかと訝(いぶか)しがった。孔子は、「苟も自ら進歩向上を願って面会にやって来たのだから、会ってやるのは当たり前だろう。

後退堕落を願う者に私は与(くみ)することはできないが、純粋に進歩向上を求めて来る者を、拒む必要がどこにあろうか!そんなにひどいことを云うものじゃない!将来この子がどうなるかはこの子自身の自助努力如何だから、私の保証の限りではない。取り越し苦労はしないことだ」と云った。
 

〔 解説 〕

「孟子」の尽心章句に「夫れ予(われ)の科(か)を設(もう)くるや、往く者は追わず、来(きた)る者は拒まず。苟も是の心を以て至らば、斯(ここ)に之を授くるのみ・(そもそも私が弟子をとる場合、去る者は追わず来る者は拒まず。苟も自ら学ぼうと志しを立てて来る者は、そのまま誰でも引き受けるのみである)」とありますが、ここで云う「人、己を潔くして進まば、其の潔きに与せん。其の往を保せざるなり」と同じことです。

教育者や指導者は、「去る者は追わず、来る者は拒まず」のスタンスをもっていないと、やって行けないでしょう。新興宗教で「脱会したら
地獄に落ちるぞ!」と、去ろうとする者を脅す教祖がいるそうですが、あれはインチキですな。信者じゃなくて教祖本人が落ちるんですよ、地獄にね。

「荘子」の応帝王に「将(おく)らず迎えず、応(おう)じて蔵(ぞう)せず」とあるのも、「去るものは追わず、来る者は拒まず。何事も有るがままに受け入れて固執せず。取り越し苦労はしなさんな!持ち越し苦労もしなさんな!」ということですね。
 

〔 子供論語  意訳 〕
孔子(こうし)(さま)一行(いっこう)()(きょう)という(むら)滞在(たいざい)していた(とき)一人(ひとり)少年(しょうねん)が「孔子(こうし)(さま)にお()にかかってお(はなし)()きたい」と(もう)()た。ここの村人(むらびと)はみなだらしがなくて(うそ)つきなので、お(とも)弟子(でし)(たち)面会(めんかい)させて()いかどうか(まよ)っていたところ、孔子(こうし)(さま)は「せっかく()たのだからこちらにお(とお)ししなさい!」と()って、(こころよ)少年(しょうねん)面会(めんかい)した。少年(しょうねん)(よろこ)んで(かえ)った(あと)孔子(こうし)(さま)は、「素直(すなお)(まな)びたいと(おも)って()(ひと)には、(だれ)だって(わたし)()って(はな)しをする。その(ひと)過去(かこ)がどうだったとか、将来(しょうらい)どうなるかなど心配(しんぱい)する必要(ひつよう)はない。(いま)この(とき)最善(ベスト)()くすことの(ほう)大切(たいせつ)なんだよ」とおっしゃった。
 
〔 親御さんへ 〕

済んでしまったことをあれこれ思い煩うのを「持ち越し苦労」と云い、将来どうなるか分からないことをあれこれ心配するのを「取り越し苦労」と申します。考えてもどうにもならない事を思い煩う暇があったら、今この時ベストを尽くす!と割り切ってみたらどうでしょうか。

マタイによる福音書でイエスも云っているではないですか、「明日の事を思い煩うな、明日は明日みずから煩わん。一日の苦労は一日にて足れり」と。これに続けてイエスは、孔子がこの章で弟子達に「唯何ぞ甚だしきや!」と叱ったのと同じような言葉を放っている、「汝等人を裁くな、裁かれざらんが為なり。己が裁く審判(さばき)にて己も裁かれ、己が計る量(はかり)にて己を量らるべし!」と。
 

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